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”共感”のトリセツ

少し前に別媒体でアップしていた文章を改めて。
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「あーーー分かる。」
私が日常的によく使う言葉のひとつです。 「分かる」って言ってるからには相手の言葉に(程度はどうあれ)”共感”してるはずなんだけど、最近ふと思ってしまう。 本当に分かってんのか、自分?と。

映画なりドラマなり、私がその作品を好きになるパターンのひとつにそこに出てくる登場人物の性格や状況に共感ができるか否か、っていうのがある。 社会生活においても共感っていうのはすごく大事な技能のひとつで、共感力がない・欠けてると、それは「空気が読めない」になったり「気が利かない」になったりして。 私自身共感っていうものは生きていく上で、人間関係を構築する上で、ものすごく大切な要素だと常々思っているけれど、そう考えながらも、この疑問も常に頭をよぎる。 果たして精度100%の共感なんてものがあるのだろうか?

例えばある実験をしたとする。2つのビーカーがあって、そこには同じ量の水が入っていて、同じタイミングで火をつけた同じ火力のアルコールランプがあって、その後ビーカーAには塩を、ビーカーBには砂糖を入れました(なんかもっとかっこいい薬品名を例に出したかったけど根っからの文系人間なもので)。はい、ではAとBで結果にどんな差が出るでしょう?

これが多分最もシンプルな実験の方式だと思うんだけど、これを人間に当てはめるとそう簡単にいくはずもない。

その人がある考えや思いに辿り着くまでのプロセスはあまりに複雑で、その日の天気や気温、前の日に何時に寝て今日は何時に起きたのか、体調はどうか、朝食は食べたのか、通勤途中に起きた小さなアクシデント、ランチ用に買ってきたパンが美味しかった、あるいはせっかく作ったお弁当を忘れてきた、 そんな全てが影響するその人の気持ちや気分に自分を完全にリンクさせることなんて到底難しい。 いや本当にもう奇跡的にその全てをリンクさせることができたとしても、その人がそれまで生きてきた環境や家族関係含めた人間関係なんかのバッググランドまで完璧にリンクさせることなんて、当然無理で。 実験の話でいうと、AとBの違いが「塩か砂糖か」なんてレベルじゃなくて、「まるで違う人生を生きてきた別々の人間」っていうことになるわけで。

なんでこんなことをごちゃごちゃ考えるようになったかというと、古い友人たちとの関係性がきっかけでした。 正直今では疎遠になってしまった彼/彼女たち、親しかった頃は楽しいこと、辛いこと、そんなの話してどうする?っていうようなどこまでもくだらないことまで共有していたその人に、今となっては連絡取りたいなと思うタイミングがいつも何かしらしんどい思いを抱えてる時で。 お悩み相談コールみたいな感じで久しぶりに番号を探すたびに、「いやいや久々の連絡が暗くて重かったら悪いよな」と思って結局電話をかけずに終わるんだけど、逆の立場だったら?ともふと思う。 久しぶりに連絡をくれた友人が「辛いから話を聞いて」と言ってきたとしたら、もちろんそういう状況に陥っている相手を思うと胸が痛くなるにしろ、しんどい場面で思い出した人が私だったってことに、自分なら嬉しさも覚える気がするんだけど。 でも果たして相手はこの私の考えに”共感”してくれるんだろうか? 「きっと”共感”してくれるはず」という私の期待を、果たして相手に押し付けていいんだろうか?

共感の出所はつまるところ、「自分がその人の立場だったなら」というなんとも正確度の低い仮定であって、言ってしまえばただの想像(もっと言えば幻想)にしか過ぎないものであって、果たしてその想像と事実との合致率はどれくらいなんだろう? 私がその人の立場ならきっと嬉しいだろう、いや嫌だろう、むしろ腹が立つかもしれない。 ろくに分かってもいないのに機械的に発した「あーーわかる」も、きちんと理解したつもりで、しっかり共感したつもりで口にした「ああ、分かる」も、精度で言えばさして違いはないんじゃないかとすら思ったり。 想像っていうどこまでも曖昧で不明確なものとしかセットになりえない”共感”という言葉。共感のトリセツ、どこかに売ってないだろうか。

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