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某国立大学4年生、就活の一切を放棄し、卒業後について考える①
「卒業後はどうするの?」
「就活してないから、就職先は決まってないよ」
「?? あ、院に行くとか?」
「いや、院にも行かないよ」
「??? なんか起業とかする感じ?」
「いや、起業もしないよ」
「???? じゃあ、どうするの?」
「どうするんだろうね」
「?????」
卒業後の話になると、質問してきた相手の頭にどんどん?が浮かぶ。
質問して応えが返ってくれば、「?」は納得に替わるだろうと思って質問してくる相手には本当に申し訳ないのだけれど、私にも自分自身に向けた「?」の答えがまだ見つかっていないのだから仕方がない。
この問答を完結に終わらせるためには、
「今のところ、フリーターかな」
と最初に応えておけば、相手はすっきりするだろうか、いや別の疑問が浮かぶだろうか。
大学の3年生になると、「就活」が始まる。
大学の4年生になると、就職先が決まり「就活」が終わる。
「就活」をしない人となると、
大学院に進学する人か、
学生時代にビジネスに興味を持って在学中、もしくは卒業して会社を起業する人か。
私はそのどれでもない、
とすると怠惰に見えるだろうか、夢見る夢子ちゃんに見えるだろうか。
一切の「就活」をせず、一見自由に生きている私に、
「なんかすごいね」と声をかけてくれる人もいる。
本当に「すごい」のかはよくわからない。
私は、「就活」はできないと思ってしまって、やらなかった。
だから、就職先が決まってそれが名の知れた大企業であればあるほど「すごいなあ」と思う。
「すごい」というのは、
「自分にはそんなことはできない」というニュアンスがある。
尊敬や敬意から「すごい」というのだろうけど、
「すごい」という言葉を使うときは、その経験を自分はしたことがない、する予定もない、という前提があって、
自分は経験したことがないからこそ、その経験の苦労や悩み、迷いを知らない。
「すごいね」という言葉には、何か突き放されたような寂しさがあるし、
時には「こっちの苦労も知らないで」と怒りに似た感情を抱くときもある。
私は「すごい」のか。
私は自ら「就活」はしなかったものの、そしてそれに後悔はしていないものの、
不安の渦に飲まれる時はある。
今まで「学生」という「何者か」として生きてきた。
卒業したら、私は自己紹介の「何者か」欄に何も記入できないのではないか。
私はどうするのだろう、どうなるのだろう。
「何とかなる」と楽観的になるときもあるし、
「どうにかなりそう」と根拠のない自信が湧くときもあるけど、
「やっぱり今からでも就職先を探した方がいいのではないか」と「就活」サイトを見るときもあるし、
もう社会人になっている友達や、就職先が決まった友達をうらやましく思うときもある。
働きたくないわけではない。
ずっと学生でいたいとも思わない。
何なら、今すぐにでも学生をやめて働きたい。
でも、「就活」はできないと思ったから、しなかった。
それだけなのだけれど。
「私にはできない」とか、「私はそれはしたくない」とか、
一度思ってしまうと、納得のいく別の方法が見つからなければ、
闘争か逃走かの二択。
「妥協してやる」という事ができない、
それは、納得いくまであきらめないという長所か、
不器用という短所か。
闘争を選んで(というかその時にはその選択肢しかなくて)、集団から孤立したこともある。
そして今回は、逃走を選んで「就活」をしなかった。
本当は「就活をしない」という「選択」であってほしいのだけれど、
今の社会的には、目的もなく「就活」をしないことは「逃走」になってしまうのだろう。
それがとても残念でならない。
やりたいことがないわけではない。
でも、やりたいことで目標を立てて、目標達成のために行動するぞ、という気合がない。
目標を立てて行動することは、とても重要だけれど、
それは成功者や成功を目指す人にとっても手法で、
全人類のための生き方ではない、と思う。
また、成功を目指すときの手法であって、
悶々と考えなければ抜け出せないという、そんな時期の生き方ではない。
成功には、価値があるけれど、
成功しなければ、価値がないわけではない。
どんどん突き進むときにはどんどん突き進むという役割があって、
悶々とするときには悶々とするという役割がある。
「若い者には、年寄りは務まらない」(アーシュラ・K・ル=グウィン,2020「暇なんかないわ大切なことを考えるのに忙しくて」)し、
成功者には、怠け者は務まらないし、
楽観主義者には、悲観主義者は務まらない。
傍から見たら、価値のない日々を過ごしているように見える私の日々も、
ダラダラ、グダグダと楽に生きているように見える私の日々も、
きっと他の誰にも務まらないし、
今にしか果たせない役割があるのだと、思う。
これが空虚な慰めだと思われるならきっと、
空虚な慰めが必要なくらいには悩んでいて、不安なんだということなのだろう。
↓
②に続きます。