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私のひとりだち

実家から持ってきた食器が一つ、割れてしまった。
まとめて食器を洗う上に拭くのが面倒で、洗った食器を決して広くはないスペースにどんどんと重ねていくから、いずれ雪崩が起きて割れてしまうことはわかっていた。
ただ、肺炎を患い、一週間の発熱し続けた後の少し体力が戻ったタイミングでのこの出来事は、気持ち的にも感傷的になるには十分だった。

割れてしまったのは、実家から持ってきた小皿だった。白地に藍色の線が入り、ふちの部分は花びらのように丸みを帯びているシンプルだけど、しょうゆ皿にもちょっとしたスイーツを乗せるにも、勝手がいい小皿だった。

一人暮らしで引っ越してくる時に、ほとんどの食器を二組ずつ実家から持ってきた。
「あなたはいずれ自分の好きな食器をそろえたいのだろうけれど、最初は実家のものでもあったほうがいいでしょ。あとで好きなもの自分でそろえていきなね」と母に言われ、私もそのつもりだった。私は一人暮らしをするという事は、すでに姉が実家を出て一人暮らしをしている私の両親にとっては、子ども二人が旅立ち父と母の二人暮らしを意味した。だからこそ、四人分の食器は持てあますだろうと私も実家のモノで使えるものはもらってきた。
母の好みと私の好みも合うところはあるけれど、もちろん私には私の好み、こだわりがある。いずれ欲しいと思った食器をそろえていこうとは確かに思っていた。
しかし、実家の食器が一つ割れ、では元気になったら小皿でも探しに行こうと思った時、ふと切ない気持ちになった。
実家から持ってきた食器、実家から持ってきた服、実家から持ってきた本、今は実家から持ってきたものが多いけれど、月日が経てば、季節が巡っていけば、きっと「実家から持ってきたもの」よりも「一人暮らしになって買ったもの」の方が増えていく。
一人暮らしや社会人への不安から、実家のモノをお守りのようにたくさん持ってきたけれど、それも一つ一つ手放し、気づけば自分が自分で選んだものが増えていく。それはそれで、一人暮らしの楽しみでもあったのだけれど。でも、なにか、私は寂しい気がした。

一人暮らしを始めるために、母は最初の数日間、買い物や掃除を手伝いに来てくれた。母は一人暮らしをしたことがなかったから「一人暮らし、いいわねえ。憧れるわ。一人暮らしたくさん楽しんでね」と何度も言った。準備が一通り済み、もう最低限の生活はできるような部屋になり、母は実家へ帰っていった。
母を最寄り駅まで送る道中、「ここのお店気になるね」「今度ここ行こうね」と、私が住む新しい街に私よりも期待に満ちた顔で楽しそうに歩き、母はこの街を後にした。

最寄り駅で母を見送った。
「一人暮らし、楽しんでね」と言って、母は改札を通る。そして階段を下りる前に、振り返り「じゃあまたね」と言って、手を振る。階段を下っていき、母はどんどんと見えなくなった。
母が見えなくなって、私はすぐに振り返らず、まっすぐに新しい家に向かった。泣きながら。その泣きながらの帰り道で私は、今日人生で初めて母に「じゃあね」と本当の意味で言ったことに気づいた。すれ違う人に涙を見られないくらいの速足で私は帰った。

親元を離れるというのは、こういう事なんだなと初めて思い知ったのだ。
自分の家に帰る時、本当の意味で「じゃあね」と親に言うということ。
親と過ごす時間を刻む時計は止まり、一人で生きていく時間を刻む時計がどんどん進む。そして、後者の時計はいずれ前者の時計の長さより多く時間を刻んでいくのだろう。
今回割れた食器で私は改めてそれを思ったのだった。私はこれから、実家から持ってきた服や食器や本よりも、自分で選んだ自分の好きな服や食器や本が増えていく。
母は「それでいいのよ」というだろう。私もそれでいいと思う。もちろん、その楽しみもある。

今までずっと当たり前に守ってもらってきたのだ、支えてもらってきたのだこんなにも。そして、その人たちとの時間は、もう時間やお金をかけて作るものとなった。
24歳、こんなことでまだ寂しくなって、涙が出る。
母は私に「じゃあまたね」と手を振って帰る道中、泣いていたのだろうか。別に泣いていてほしいわけじゃないけれど、この日は母と私にとって初めて帰る家が別々になった日だ。
一人ではどんなに頑張っても自信を持てずにいた私にとって、外付けの自尊心のような母だった。もちろん今も、離れていても変わりはしないけれど。

さあ、どんな服を買い、どんな食器をそろえ、どんな本を読んでいこうか。
自分で決めて生きていく。
たまには、母にも相談しながら。

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