某国立大学4年生、就活の一切を放棄し、卒業後について考える②
最近、アルバイト先で職員に聞かれた
「卒業後はどうするの?」
私は正直に
「就活を一切しなかったので、まだ決まっていません」
と応えた。
内心では、「何考えてるの?」「どうするつもりなの?」と責められはしないか、とビクビクしている。
でも、責められたり、問い詰められたりしたことは意外にもあまりない。
“多様性”という言葉の影響なのだろうか、
「そんなこともあるのね」くらいの感覚で受け入れてもらうことが多い。
相手が割とすんなり受け入れてくれると、なるべく責められないように、正当性が伝わるように慎重に言葉を選んで話している私が一番肩透かしを食らう。
私が就活をしなかったために卒業後の進路が決まっていないという情報は
職場内で広まっていたらしい。
先日、「来年度のことなんだけど、あなたはやめるの?それとも続けてくれるつもりはある?」と、期待感が半分以上こもった様子で聞かれた。
ちなみに詳しくは書かないが、この仕事は年度単位で採用されるのである。
私は、現在勤務3年目、信頼と実績を積んできたという自負がある。
なかなか大変な仕事でもあるため、その信頼と実績を買われ、
来年度以降も勤められるのであれば勤めてもらえたら有難い、と言ってもらったのだと思う。
その話をもらったときは
「え?いいんですか!?有難い!」と思った。
勝手に任期は3年であると思っていたので、当然辞めるつもりでいたのだ。
でも、卒業後の仕事が一切決まっていない中で、
一年間また働ける場所があることは、心底ホッとする。
この仕事と何か他のアルバイトを掛け持ちしたら、ある程度の収入は得られる。
目の前に見えた私に安心を与えてくれる選択肢に、助かった思いすらした。
私は「いつまでに決めたらいいですか?考えさせてください」と伝え、保留にしてもらった。
私はきっと、
「やっぱり今年度で辞めます。すみません」
と、職員に伝えるだろう。
卒業後の進路が決まっていない、仕事がないかもしれない、ということは、
大海原に泳げもしない、進む方向も分からない状態で投げ出されたような底知れない不安がある。
私は実際に、本当に泳げないし、方向感覚も皆無、地図も読めない。
大海原に投げ出されたら祈るほかない、けれどまあ残された道は死だけだと諦めもついてもはや何も悩まないかもしれない。
だから、社会という大海原に投げ出された方が、なんとかして生きていかなくては、社会的責任を負わなくてはと、悩み苦しいかもしれないとも思う。
そんな不安な中、目の前に見えた“安心”や“安定”は、とても魅力的であった。
でも、やっぱり私はどんなに不安でも、怖くても、
100%自由で、何をするかも決まっていない真っ新な人生を見てみたい。
そんな好奇心なのか、冒険心なのか、プライドなのかが、
私の中にはあった。
まだ、何も思い描けてない未来とは、本当に自由。
「自由には、責任が伴う」という感覚を、私は今、痛いほど味わっている。
「自由になりたい」という人は多いし、私も「自由」を求めて生きてきた。
でも、本当に「自由」というものはすごく怖いんだ、と体感している。
それでも、私は「自由」を選んでみた。
そして、この「自由」という選択肢を選んだことを、数年後でもいい、数十年後でもいいから、「間違ってなかった!」と思いたい。
そのためには、私は徹底的に「自由」を選ぶべきだ、と気づいた。
これは、私の、私による、私のための人生なので。
もし、大きな挫折や失敗や絶望をこの選択で味わったとしても、
全て自分の責任で受け入れる覚悟は、
もうとっくにできている。
怖い、不安、と嘆くときもある。
そこは人間らしく嘆かせてほしい。
でも、
なんとなく、生きていけそうな気がする。
なんとなく、大丈夫な気がする。
なんとなく、素晴らしい人生にしていける気がする。
不確かな確信に
賭けてみることにしてみた。
いや、でももしかしたら
数日後には気が変わっているかも。
まあ、それはそれでいいのだ。
今の100%がかかっていれば、
それでいい。
ブレればブレるほど、
中心が強くなるはず。
今までもそんな人生だったので。
卒業後について考える日々は、まだまだ続く、、、。
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