もがきながらも、今しかないこの時を慈しみながら生きていく。
きっと将来、「ああ、あの頃に戻りたい」そう思うのだろう。
全力で、真っ直ぐに、私だけを必要としてくれる存在と四六時中、常に一緒に過ごす時間が、どんなに掛け替えのないものだったか、懐かしく愛おしく振り返るのだろう。
今年8歳になった愛犬と、今年産まれたばかりの我が子。
犬育ても子育ても、ほとんど思い通りにはいかなくて、私はイライラしっぱなし、その後自己嫌悪の繰り返し。
「母のようになりたくない」そう思いながら、母と同じことをしている気がして、そんな自分が怖い。
完璧主義の私にとって、段取り通りに進まない時間は、ストレス以外の何者でもなく、あれもこれもと抱え込んで、あっという間に気持ちの余裕がなくなっていく。そうなると、焦りや不満がイライラに変わってしまう。
うるさーい!とか、もう!とか、やめて!とか。イライラしたりカッとしたり、その時の感情だけで叫んでいる自分がいる。赤ちゃんにそんな言葉をぶつけたって、まだ言葉の意味は理解できない。むしろ、構ってもらえたとか、かーさんが面白い反応をしてくれたとか、そういう風に感じているらしく、ニコニコしながら声をあげて笑うこともあったりする。まったく、怒り損というか、無駄なエネルギーを消費して、残るのは自己嫌悪と後悔の念。ダメだなー、心狭いなー、余裕なさすぎ。今からこんなんで、この先どーすんだ…そんな風に自分を責めてばかり。
そんな私の落ち込む側で、愛犬は寂しそうな顔をしている。
「かーさん、おこってるの?こわいなぁ、いやだなぁ。だいじょうぶ?ぼくは、どうしたらいい?」
まだ愛犬のほうが、赤ちゃんよりも物分かりはいいし、言葉のニュアンスも分かってくれる。飼い主の負の感情をダイレクトに浴びながら、それでも私のことを真っ直ぐに見つめてくれている。そんな姿に、何度もハッとさせられ、ああまたやってしまった、ごめんね、ごめんね…親の感情と都合だけで八つ当たりされる長子の気持ちは、痛いほど分かっているはずなのに、しかも、こんな小さな純粋な生き物の前で、私は何をやっているのだろう。
この子たちと、ただただ穏やかに日々を過ごしていきたいだけなのに、それさえも疎かにしてしまう自分の未熟さに辟易しながら、それでも、明日はきっと笑顔の自分を信じて生きようと思う。今はまだ、できないことの方が多すぎるけれど、この子たちがいるから、自分を諦めずに生きようと思うことができる。この子たちがいるから、私は生かされていて、人生の意味を感じることができるのだから。
だから、だからこそ、この子たちのために、できないことではなくて、できることに目を向けよう。
できなかったことは、まあいっか、また今度できるようになれたらいいよね。できたことがひとつでもあれば、がんばった自分を褒めてあげよう。
そんな風に、少しでも自分を認めてあげなければ、心に余裕なんて生まれない。心に余裕がなければ、この子たちの前で笑顔でいられなくなってしまう。
出産前に、「子どもに笑顔の母親の記憶を残してあげたい」そう誓った。私の中の母の記憶は、いつもイライラしていて、疲れていた。私を抱きしめたり、笑顔で語りかけてくれる母の思い出は、ない。母は母、私は私、比べる必要もないし、母の面影を自分に重なる必要もない。そう、頭では分かってはいるけれど。幼い頃の記憶は強く、育った環境の影響はあまりにも大きい。
辛かった、寂しかった。だからこそ、今、私が笑顔でいることが、子どもたちにとって、家族にとって、そして何より自分自身にとって大切なことなのだ。
それは、私にとっては簡単なことではないけれど、深呼吸しながら、少しずつできるようになれるように、練習中。いつもニコニコ笑顔のお母さんなんて、できっこないことは分かっている。そうではなくて、笑顔でいられる時間を増やす練習。
イライラしたら、自分からのサイレンが鳴っていると思って、ちょっと休んでみる。今やらなくても、あとでやろう。できなくても、いいのいいの、それよりも大切なことは、この子たちと笑顔でいることだから。
そうして、日々が積み重なって、あっという間に季節は過ぎて、この子たちとの時間は思い出になっていく。
当たり前ではない、かけがえのないこの時間。いつか、愛おしく振り返る私が笑顔でありますように。そして、この子たちの心が、あたたかい記憶で満たされていますように。