憧れの坊主あたま
2019年の夏、乳がんが見つかった。
大学の職場検診の結果が再検査だったため、大学病院に検査の予約を入れた。一般的に、乳がんのイメージは「しこりの発見」だが、わたしにはそれが全くなかったので、なぜ再検査になったのかなあ。。という感じだった。
病院では、画像を見ながら、とても若い女性の先生が「細胞を取って調べます」と言う。どうやら、マンモグラフィーに写った「もやもやーっとした」部分が怪しいらしいのだ。先生は「この、もやもやーっとしたところに針を刺して組織を取ります」と言い、とんでもなく太い針で、組織を取られた。ぎゃあ、と言うぐらい痛かった。
そのあと「1か月後、ご家族を連れて結果を聞きに来てください」と言われ、ぼんやりと、ああ、これはクロだな。。と思った。
わたしは、どうやら、がんらしい。
どんな気持ちだったかな、と思ってその日の手帳を見てみると「がんだって。ほーん。」と書いてあった。ほーん。
2016年の冬に、がんで母を亡くした。ずっと病気ひとつしたことがなかった母だったが、かなりの病院嫌いでもあった。そのためもあって、残念なことに発見が遅れた。不調が続いていやいや病院に行ったところ、がんが複数転移していることが分かり、そこからは心の追いつく暇もなく、あっという間に、母はこの世を去ってしまった。最初の発見から逝去までたった五十日という短さだった。五十日前までは、一緒にカウンターに立って仕事をして、庭の花を愛でて、愛犬の散歩に行っていたのに。
母のきょうだいは7人いるのだが、うち6人ががんを患った経験がある。諸説あるにしろ、二郷家は典型的ながん家系と言える。克服して元気に暮らしているおじ・おばもいるため、がん=死とは思わなかった。それでも、やはり告知は怖かった。
告知のあとは、淡々と物事が進んだ。手術でがん細胞を部分切除し、取った組織を病理検査して、がんのタイプを特定し、治療方針を決めることになった。入院も手術も全く怖くなかった。人が驚くぐらい、手術への恐怖心がなかった。全摘手術ではなかったことも大きかったのだろう。
生まれて初めての入院だったので、個室をお願いし、たくさんの本とDVDとBOSEのスピーカーを持ち込んで、入院生活を謳歌した。入院は、はっきり言って、非常に楽しかった。上げ膳据え膳で、いつまで本を読んでいても、お昼にうとうとしても、誰にも怒られない。仲良しがたくさん訪ねてきてくれて、おしゃべりも楽しい。天国だった。
退院した日から、近所に飲みに出掛けた。その翌日には松本白鷗の『ラ・マンチャの男』を観に行き、(この会場で一番大きな生傷を抱えているのは、おそらくわたしだろう)などと思ってほくそ笑んだりした。そして、手術から1か月程で高見沢俊彦を観に行き、腕をぶんぶんに振りすぎて、傷口がぱかっと開いた。せっかく主治医が綺麗に縫ってくれたのに。そこからは、実はちょっと大変だったが、まあ、わたしは自分がそういうやつなのをよくよく分かっているので、あまり気にならなかった。
問題は、取った組織の病理検査結果だ。結果は想定していた中で一番悪いものだった。悪性度が高く、進行の早いタイプで、抗がん剤と放射線とホルモン療法十年のフルコースを選択せざるをえなかった。中でも、一番怖ろしかったのが抗がん剤だ。髪が抜ける。通常の生活ができないぐらい何か月も寝込むイメージもあった。髪が抜けるのも厭だし、働けなくなるのも困る。だが、やるしかなかった。そして、2019年の十一月から半年間の抗がん剤投与が始まった。
投与は点滴である。初めての投与から二週間程で、髪がバサバサと抜けた。手櫛でどんどん抜ける。最初はハムスター二匹分ぐらいの大きさの毛だったが、最後のほうは毎日仔犬の大きさぐらいの毛束が抜けてきた。髪というものは意外とたくさん生えているもので、それだけ抜けてもなかなかつるつるにはならなかった。
日増しに毛髪が薄くなる感じは、ものすごく怖くて、また、悲しかった。治療が終われば生えてくるとは言っても、またロングヘアになるまでは数年かかる。わたしは長い髪を結いあげるのが好きなのだ。気が塞いだ。
そんな時、ある方に「坊主あたまは周囲から見たら、意外にかわいいものですよ」と言われた。その方はかつて、奥様も同じ病気をされたらしく、本人は辛そうだったけれど、夫の自分から見たら可愛かったから、きっと二郷さんの周りの人もそう思ってくれるはずですよ、と言ってくださったのだ。わたしは心から救われた気がした。
しかもである。そういえば、わたしは、前から一度でいいから坊主にしてみたいと思っていたのだった!
その時から、気持ちが完全に切り替わった。まだらはげのようになった悲しい頭を、自分でバリカンで刈り、インドで買ってきたビンディー(インド人のおでこについてる、あれ)をおでこに貼ってみたりした。これが、意外とイケた。ビンディーを付けているだけで、「病気などによる気の毒な坊主の人」から、「ただの変わり者」になれるのだ。非常に便利だった。しかし、自分で刈っただけではいかにもガタガタな坊主だったため、こどもの頃に襟足や顔そりをしてもらっていた近所の床屋さんのおばちゃんに、つるつるに剃りあげてもらった。おばちゃんが、「愛ちゃん、一休さんみたいでめんこいよ!」と言ってくれたので、坊主のわたしはますます調子に乗った。馴染みのお店に飲みに行って、ウィッグを取ってつるつる頭で飲んだりするのも楽しかった。
その後、違う抗がん剤でまつ毛と眉毛も喪失したが、つけまつげをしたり、まばらに残った眉毛を完全に剃り落としてグラム・ロックごっこをしたりして過ごした。他にも副作用はたくさんあって、いろいろと辛かったのだが、それはまた別の時に話そうと思う。いずれにしても、わたしは治療を楽しみ尽くして過ごし、2021年、1回目の再発・転移の検査をクリアした。
多分、まだ、当分、死なない。