書くことが苦手なのに翻訳が好きになった理由
大学で翻訳に出会って、翻訳の勉強をする中でハマって、今では仕事にしたいと思うまでになりましたが、最初は翻訳は私には向いていないし、本格的にやることなどないと思っていました。
というのも昔から、苦手科目:国語/得意科目:算数・数学といういわゆる「理系タイプ」だったからです。中学受験の時も、大学受験の時も、普段の定期テストでも、ずっと国語が苦手でした。
特に書くことが苦手で、拙い日本語しか書けないことを自覚していました。(今でも自分の文章力のなさに呆れています)
そんな私がなぜ翻訳に魅了され、翻訳で仕事したいと思うようになったのか、自分でも少し不思議でした。
先日、大学で学んだことについて振り返る機会があり、大学での学びの中で得たものについて考えていた時に、少し自分の中で答えが出たような気がしたので、ここにメモとして残しておきます。
大学で学んだことはたくさんあるのですが、中でも通訳翻訳プログラム、教職課程を取ったことは大きかったです。それぞれから学んだこと、培った力を考えていた時、「翻訳」と「教えること」は似ているのではないかと思ったわけです。そしてその共通点こそが私が翻訳にハマった理由だろうな、と。
翻訳とは?
まず翻訳とは何かということですが、翻訳は単なる言葉の置き換えではなく、読み手や状況踏まえて、自分の言葉で原文に書いてあることを説明し直す作業です。翻訳をするにあたって必要な能力というのは色々あると思うし、日本語力、英語力が必要なのはもちろんですが、私は特に、検索力と粘り強さが重要かなと思っています。
もちろん語彙力、読解力などは必要ですが、検索力が必要となってきます。というのも翻訳は単なる言葉の置き換えではなく、辞書で言葉を引いて終わりということではありません。よく画像検索を私は使います。はっきりと意味がわからない単語がでてきた時、言葉の意味を辞書でひくだけでは不十分なことがあるからです。画像や例文を調べて、どういうニュアンスか、また、どういう状況で使われるのかを確認します。その上で、日本語なり英語なりで再度自分の言葉で説明しなおすイメージです。
そもそも、翻訳をする前にたくさん調べます。例えば、絵本や児童文学であれば、作者について調べ、作者のバックグラウンドや作風を確認します。また、その翻訳する本に関連する書籍を読みます。同じ作者が書いた本を読んだり、同じぐらいの年齢層に向けた本を読んでみたりします。また、小学生対象であれば、使いたい漢字があれば何年生で習う漢字かを確認してから使いますし、読み手が理解できる単語であるか検討します。例を挙げればきりがないほど様々なことを調べ、検討して、何度も何度も書き直しをします。
この終わりのない作業をするには粘り強さが必要です。調べて調べて調べまくって、どうやったら原文の伝えたいことが読み手に伝わるだろう、また、どうやったら原文の雰囲気を残せるだろう、と悩みます。このああでもないこうでもないと悩むことこそが翻訳の奥深さであり、魅力だと感じています。
教えるために必要な力
大学で教職課程を履修する中で学んだことを書いていた時に、翻訳に必要な力と教職課程で培った能力は似ていることに気がつきました。
「教える」ためには、その内容をまず自分がよく理解していなければならないし、それをうまく伝えられるだけの説明力も必要です。そして、「教える」ということは相手や状況に合わせて、適切な言葉を選び、表現を変え、一番伝わりやすい方法を探ります。
もちろん他にも必要な能力はあるし、培われたものもたくさんあるのですが、このあたりがまさに翻訳と似ているなと感じました。
極端な例ですが、同じことを伝えるにしても3歳児、小学1年生、中学生、高校生には違う伝え方をすると思います。また生徒のレベルによって教え方も変わってきます。対象者を考えて、言葉を選ぶ、というのは、翻訳でやっていることとそう変わらないのではないかと思いました。
もう少し具体的な話をしてみます。教育実習に行って身を持って感じたことですが、指示の出し方一つで、クラスの様子が変わります。簡単に授業崩壊させることもできてしまいます。
担当していた学年では3クラスあったのですが、授業の進め方、指示の出し方はそれぞれのクラスごとに変える必要がありました。もちろん授業内容/授業計画は3クラスとも同じです。でも、変えないとあるクラスではうまくいっても他のクラスでうまくいかないということが多々発生するのです。
どのクラスも同い年、ほぼ同じ学力、同じ人数。
ですが、クラスの雰囲気が違うだけで、全く異なる授業になるんです。
1組は皆大人しく、ほとんど手が挙がらない、発言する人がいない、答えが分かっていても自信が持てなかったり恥ずかしかったりで周りの様子を伺う人が多いクラスでした。それに対して、2組はムードメーカーが何人かいて、そのムードメーカーたちを中心にどんどん質問が飛んでくるし、何か少し投げかければ、答えてくれる人がたくさんいる賑やかなクラスでした。(内容は全て実際あったことですが、クラス名は仮です)
授業で問題を出したり、質問を投げかけたりする時、
個々で考える時間しか与えなかったら……
2組は勝手に答えてくれたり、たくさんの人が手を挙げてくれたりしてスムーズに進みます。でも、1組はなかなか手を挙げてくれる人がいなくて、こちらで指名しても不安そうでなかなかスムーズには進みませんでした。
クラス全体で答え合わせをする前に周りの人と話し合う時間を与えると……
1組は周りと話し合い、少し自信が持てるようになるのか、答えてくれる人が増え、多少スムーズに進むようになりました。でも2組では逆効果で、一瞬で教室が動物園に様変わりします。あっちこっちで大騒ぎ(笑)私の声が一瞬にして通らなくなります。指示が通らなくなると、こちらに注意を向けさせるのも一苦労です。
聞き手を見極めて、どういうアプローチをすればいいかという判断がものすごく重要だと痛感した瞬間でした。
またそれ以外にも同じ答え合わせをするのでも、さらっと前回授業の復習をしたいだけなら、クラス全体に「答え1番だと思う人〜?2番だと思う人〜?3番だと思う人〜?」と聞き、挙手してもらって確認するということができますが、一人一人の理解度をしっかり確認したいなら、満遍なくいろんな生徒を当てるとか、グループワークをさせている間に様子を見て回って、その後グループごとに発表してもらうとかするのが良いこともあります。つまり、状況や目的によって様々な手段が考えられるわけです。
相手や状況に合わせて、適切な言葉を選び、表現を変え、一番伝わりやすい方法を探る。このことこそが教えることの難しさであり、奥深さだと思うのです。
教えることが昔から好きだった理由
小学生の時から教えることが好きでした。中でも、クラスの中でも特に勉強が苦手な子に教えるのが好きでした。教えて感謝されて嬉しい、というそんな気持ちももちろんありますが、教えていて一番好きだったのは、なかなか伝わらなくて説明の仕方をあれこれ変えて工夫してようやくわかってもらえた瞬間!教えてすんなり理解してもらえるのはそれはそれで嬉しいのですが、勉強が苦手な子だと、教えがいがあってすごく楽しかったのを覚えています。例えば算数の文章題を教えるにしても、何がわからないか探り、どこの説明が必要なのか、同じ「解けない」でも人によってわからないところが様々なわけです。式の立て方がわからないだけ、式はかけるけどその計算ができないだけ、などということもあれば、そもそも問題文が何を言っているのかわからないというところからつまづいている場合もあるわけです。
同じ説明をしても伝わる時と伝わらない時があるし、ちょっと例えを変えるとなぜかすんなり理解してもらえる時もあるし、本当に不思議なものです。でもその工夫をしてなんとかして伝わった瞬間がとても心地よく、教えることが楽しかったんだと思います。
この教えることが好き、という気持ちは今でも変わりません。大学生になってからも個別指導や家庭教師のアルバイトをしていて、ずっとこの教える楽しさを感じていました。ここまでダラダラ書いてきましたが、教職課程で学んだことを振り返り、ふと教えるのが好きな理由に思いを馳せた時、『あっ。これだ。』と思ったわけです。
翻訳との共通点
翻訳で一番楽しい瞬間は何かというと、翻訳をする時に工夫が必要なところで、壁にぶつかりながらもあれこれ工夫して自分なりにわかりやすいと思える、納得のいく訳が書けた時です。例えば、文化の違いがあるから説明を補足必要する必要があるとか、字数制限があるとか、そんな時です。あれこれ考えて、これならまだ良いのでは?と思える訳を探すのが楽しいです。教えることが好きな理由とめっちゃ似てるじゃん!と自分で勝手に納得してしまったというわけです。笑
以上、取り留めのない長文のつぶやきでした。