【桓檀古記】倭人韓人による中国大陸支配の歴史書〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
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こんにちは、今回は[桓檀古記]という朝鮮半島の古文書についてお話しさせて頂きます。
宜しくお願い致します。
[桓檀古記]というのは、1909年に公表された大淙教という檀君教の一派(太白教徒)が隠し持っていた古文書だと云われています。
朝鮮総督府などの焚書に抵抗して朝鮮半島に伝えられた[桓檀古記]が公開されたことは、東洋史や日本史に限らず広く人類史に根本的な再構成を迫ることになりました。
桓檀古記の最初に書かれている凡例には、
1911年5月に太白教の宜川柱延壽という人物が
妙香山(みょひゃんさん)の檀窟庵(たんくつおう)において
「三聖紀全」「檀君世紀」「北扶餘紀」「太白逸史」の四書を合わせて一書にし、一然の[三国遺事]に引用された「古記」の名に倣って
「桓檀古記」と命名したとあります。
[桓檀古記]の内容は、朝鮮史の始まりは檀君桓因、桓雄、王険の一族が神市に建国したことによって始まります。この神市から青邱(せいきゅう)という場所に移動して王になったのが古代中国の三苗(さんびょう)の王、“蚩尤(しゆう)”です。
始皇帝のとき《檀君朝鮮の五加は秦王政に従った》とあり、本書では檀君朝鮮は元来中国の中原を支配していたことを主張しており韓民族による大陸支配の歴史を記した古文書です。
では[桓檀古記]を構成する4つの史書を詳しく見ていきます。
1つ目は「三聖紀全」です。三聖とは、桓因、桓雄、王倹の3者のことを表し、この書物は上下にわかれています。
上巻は安含老という人物によって撰述され、桂延壽の蔵本です。下巻は元董仲による撰述で白進士寛黙の蔵本です。
2つ目は「檀君世紀」という書物で紅杏村(現在の雲南省)の文貞公による撰述で「三聖紀全」下巻と同じく白進士寛黙蔵本です。
3つ目が「北扶餘紀」で上下にわかれ、共に休崖居士范橦による撰述で亨栻家の蔵本です。
4つ目が「太白逸史」という史書で李陌により編纂され、海鶴李沂の蔵本です。
「太白逸史」は次の8つの本紀と本訓から構成されています。
第一「三神五帝本紀」
第二「桓国本紀」
第三「神市本紀」
第四「三韓管境本紀」
第五「蘇塗経典本訓」
第六「高句麗国本紀」
第七「大震国本紀」
第八「高麗国本紀」
です。
現在の太白教の経典である「天符経」、と「三一神誥」は「太白逸史」の中に全文収められています。
【檀君朝鮮】
では、そもそも檀君朝鮮とはなにか、朝鮮と付くからには朝鮮半島の歴史だと思い込んでしまいますが、実は違います。
[三国遺事]と[桓檀古記]を比べながら見ていきます。
韓民族最古の正史とされるのは「三国史記」という書物ですが、この編纂者が信憑性に欠けるとして掲載しなかった伝承を集め、作ったのが「三国遺事」です。
[三国遺事]では檀君朝鮮について、桓因、桓雄、王倹についてのみ記し、王倹は桓雄の子であるとしています。
古代朝鮮の建国者を檀君王倹として、開国から約1500年間国を治めたのち檀君朝鮮は箕子朝鮮に国を譲ったと伝承しています。
それに対して[桓檀古記]では[三国遺事]には記載がなかった檀君朝鮮以前の歴史が記されています。
檀君朝鮮以前には神市時代と青邱時代という時代があり、桓雄と王倹の間には18代の王がいたとして18名の王名が記されています。
名前の語尾には全て「〜桓雄」と名が付けられているのですが、その18代目の居弗(きょふ)檀桓雄という人物が[三国遺事]の桓雄であり、その子供が王倹であるとしています。
では[三国遺事]の王倹による古代朝鮮(檀君朝鮮)の建国神話を見ていきます。
「魏書にいう、今から2千年前に檀君王倹という者がいた 阿斯達(あさだる)を都とした
国を開いて朝鮮と呼んだ 高と同じ時代だ 古記にいう 昔桓因(帝釈天)の庶子である 桓雄は地上世界に思いを巡らし 人間社会に行くことを欲していた そこで父である桓因は 桓雄に天符印3個を授けて 人間社会に行かせた 桓雄は従者三千を率いて太伯山(※現在の妙香山)の神檀樹の下に天下った ここを神市という 時に一頭のクマと一頭のトラが同じ穴に住んでいて 人間になることを願い 常に桓雄に祈っていたある時 桓雄は霊力のあるヨモギ一束とにんにく20個を与え〈クマとトラよ これを食べ日光を100日見なければ人の形になるだろう〉と言った クマとトラはこれを食べ こもると21日でクマは女身になった トラはそれが出来ず人になれなかった しかしクマの女と結婚するものはなく クマの女は檀樹の下に来るたびに子を授かることを願った そこで桓雄は人に化けてクマの女と交わり クマの女は孕み子を産んだ それが檀君王倹である 檀君は唐高の即位から50年の庚寅の年 平壌城を都とし朝鮮なる国を開いた やがて白岳山の阿斯達に都を遷した 次いで弓忽山(ゆみこつざん) 次いで今彌達(いまやだる)へと移した その国は1500年続いたと云う 周の虎王(武王)が己卯即位した 彼が箕子に朝鮮を与えて支配を委ねた 檀君は蔵唐京に移り後に阿斯達に隠れ戻り山神になった 没した時は1908歳だった」
長くなりましたが、これが「三国遺事」に書かれている大まかな檀君神話です。
古代朝鮮を建国したのは桓雄とクマの女性から産まれた檀君王倹であり、我々には5000年の歴史がある、というのが韓国人の拠り所となっています。
クマが21日で人間になったと本気で考えている人はいないと思いますが書き下し文を見ると
「時に一熊一虎有」とあり、ヨモギとにんにくを食べる箇所には「熊虎二族、皆得てこれを食し」とあります。
二族とあるので、熊と比喩された民族と虎と比喩された民族であることがわかります。
[桓檀古記]檀君世紀には「古記に云う、王倹の父は桓雄にして、母は熊氏の王女なり」とあります。
神話では熊の女性と桓雄が交わったとあったので、熊氏と桓雄や王倹の一族が同盟を結んだ事が考えられます。
では熊の民族・熊氏とはどのような民族なのでしょうか。
中国の史書[史記]には
「夏王禹(う)は黄河流域の治水に当たるため、家に帰らなかったので、その妻が訪ねたところ禹は熊の姿をしていた。」とあります。
この記述から夏王朝の王族は熊氏であったことがわかります。
熊の民族は王険を支持していたことから、一方の虎の民族とは王険と同族である蚩尤と戦った黄帝の一族ではないかと考えられます。
【檀君桓因とインドラ】
古代朝鮮の建国神話とされている檀君神話ですが、[三国遺事]では檀君桓因は古代インドの帝釈天のことであると明記しています。
大百科事典には帝釈天の説明として、〈サンスクリットではシャクラ・デヴァーナーム・インドラという。リグ・ヴェーダ以来、インド神話およびヒンドゥー教においてインド民族に親しまれていたインドラ神が、仏教神話に取り入れられ同化された呼称〉と解説されています。
つまりインドラ=帝釈天=檀君桓因であることがわかります。
檀君の“檀”はフェニキア人の神ダゴンの漢訳で“因”はインドラの漢訳なので檀君桓因は二重語で表記された単語です。
インドラは古代インド固有の神ではなく、ルーツを辿ると元来カッシュ(カッシート)人やミタンニ人などが崇拝していた神であり紀元前1500年以降にミタンニ・アーリア人がシュメールから主神のインドラ神をガンガ流域に持ち込んだのですが、その持ち込んだ民族の一派にナーガ族がいたことが推測できます。
檀君神話が古代朝鮮の建国神話になっているということは、これらの民族とフェニキア人の神ダゴンを古代インドに持ち込んだであろう民族の混血部族が檀君桓因の神話を古代朝鮮に持ち込んだことを示唆しているのかもしれません。
当時のフェニキア人の民族構成はフルリ人やアムル人(旧約聖書のアモリ人)を中心に後からエーゲ海から渡来したとされるアカイア人などが混血したのが紀元前12世紀頃のフェニキア人です。
[三国遺事]では一代だった桓雄は[桓檀古記]では18代の桓雄王がいたことが記されていました。
その14代目の桓雄王が蚩尤であり、蚩尤というのは古代中国の三苗(さんびょう)の王です。
蚩尤の姓は姜(きょう)で[山海経(せんがいきょう)]でも蚩尤は三苗の王と記されていて三苗とは苗族(ミャオ族)です。
そして苗族(ミャオ族)は後の倭人の一派です。
蚩尤といえば金属兵器で武装していたことで有名ですが、中国大陸の金属文明は殷以降なので蚩尤が夏・殷以前に金属を持っていたということは彼は中国大陸の人物ではなく当時金属を兵器として所有していたオリエント地方の人物ではないかと推測できます。
以上のことから、朝鮮半島の建国神話とされる檀君神話の舞台は古代朝鮮ではなく中国大陸を超えたさらに西の方であったことが考えられます。
日本の[宮下文書]や[ホツマツタヱ]などを始め、古史古伝の開闢(かいびゃく)史や建国史が古代日本列島の歴史ではないのと同様に、[三国遺事]にある建国史も秦王国の時代以前は古代朝鮮半島の歴史ではない、ということが[桓檀古記]を合わせて読むと理解出来ると思います。
[桓檀古記]によれば秦王国の時代、檀君朝鮮は秦の領土であった万里の長城の内部にあったことがわかります。
古代中国大陸に倭人が先住していたことや大陸内に朝鮮の領土があったことは中華思想にはあってはならない、あっても認めてはならない歴史なのです。
そもそも高句麗を始めとする鮮卑、匈奴の執拗なまでの華北侵攻というのは、祖地を奪回するための戦いだったことがわかるのですが、これらを全て野蛮な民族の侵略として扱っているのが中国側の正史です。
【核ゲノムと史書】
日本の古代史を学ぶ上で周辺諸国の古代史を知ることは必須ですが、古代朝鮮の歴史は現代の朝鮮半島の方々よりも日本人が学ぶべき歴史であると言えます。
なぜなら古代朝鮮人の人骨は現代の朝鮮半島の方々ではなく私たち日本人により近いことが核ゲノム解析や形態人類学などから明らかになっているからです。
現在の韓国南東部にある金海(きめ)礼安里古墳群から発掘された4世紀〜7世紀に築かれた集団墓地の人骨は、同時代の日本列島の人骨と類似していたことから、この辺りの時代までは半島と日本列島の核ゲノムは相似ていたことがわかります。
ではどの時代から日本列島と半島の遺伝子に大きな差が出始めたのか、DNAから現代の朝鮮人を見ると、日本人女性を母(mtDNA)に持ち北方シナやモンゴルなどの侵略者を父(Y染色体)に持つ混血民族であることがわかります。
史書を合わせて考えると三国時代の後半島がモンゴルに征服された時代にかけて、凄まじい勢いで征服者の男性遺伝子が半島に行き渡ったことがわかります。
つまりモンゴルの高麗侵攻が終わる1273年の時点で半島の遺伝子は、既に征服者の遺伝子に置換され現在の朝鮮人の遺伝子が誕生していたと考えられます。
このような事情により、私たち日本人は古代朝鮮史を始め古代インドや東南アジア辺りは海洋民族の倭人諸国として歴史を学ぶ必要があると思います。
古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて、ぜひ皆さんも調べてみて下さい。
最後までご覧頂きありがとうございました。
📖参考書籍📖
鹿島曻著書「桓檀古記」「倭人大航海の謎」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
三笠宮崇仁・赤司道雄著書「フィネガン古代文化の光」
長浜浩明著書「韓国人は何処から来たか」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
王敏著書「禹王と日本人」
ミスペディア編集部「面白いほどよくわかる朝鮮神話」
東洋文庫「三国史記」
吾郷清彦著書「日本建国史 全訳ホツマツタヱ」
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