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古代ユーラシアの覇者【騎馬遊牧民】

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は騎馬遊牧民の歴史についてお話しさせていただきます。宜しくお願い致します。


日本の古代史を理解するうえで、騎馬遊牧民について学ぶ必要があります。
日本列島からは遠く離れた民族の歴史ですが、日本の古代史にも大きな影響を与えています。
今回はキンメリア人、スキタイ人、サルマート人の歴史について見ていこうと思います。


考古学では人類の歴史で記録を持つ段階のことを文明と呼びます。そして歴史の記録をもっていたのは定着民であり遊牧民ではありませんでした。

そのため遊牧民について記録があったとしても、それは定着民から見た遊牧民の記録であり、歴史叙述の中では定着民が善、遊牧民が悪とされる傾向がしばしばみられます。

ユーラシア大陸の多くの民族は遊牧民に直接脅威をこうむった歴史的経験をもっているため遊牧民に対して強い憎悪や軽蔑の感情をもっています。

とはいえ、遊牧民が世界の歴史に与えた影響が大きかったことは皆さん周知の通りだと思います。

紀元前2000年頃のメソポタミア文明の時代、定着民の領域に侵入してくる未開遊牧民に悩まされていました。

その中には聖書にアモル人として登場してくる人々もいました。
アッカド王国の記録によれば《アモル人は穀物を知らず都市を知らずその襲い来たるや台風のごとくである》と記されています。

農業や都市生活を知らない人々は古代のヨーロッパやアジアにおいては、農耕地帯または都市の周辺にいながらもその故郷は、はるか遠くにあるように思われていました。

イギリスの歴史家エドワード・ギボン氏は13世紀中葉におけるモンゴル遊牧民の恐るべき征服戦争について次のように述べています。
《この野蛮な侵略の黒雲によってキリスト教世界は暗闇となった…スキタイ地方の羊飼いどもはキリスト教世界の都市を、学芸を、あらゆる文明社会の制度を破壊してしまったといってよかろう》と述べています。

このように定着民が善、遊牧民が悪という根強い観念が形成されていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

古代における草原地帯についてのヨーロッパ人の知識は、紀元前5世紀に書かれたとされるヘロドトスの[歴史]や、これと同じ頃のものでヒポクラテスの作とされる医学書の[空気・水・場所について]などの書物の中から知識を得ていました。




騎馬遊牧民の特徴となる馬ですが、馬の起源はユーラシアステップ地帯西部(ボルガ・ドン地方)であり、軍事用や民事用で騎乗が一般的になったのは、アーリア人によって馬が相応な数導入されてからです。

紀元前15世紀、14世紀のテル・ハラフ遺跡から出土したフルリ人の浮き彫りは騎馬兵士を表現したもので、紀元前14世紀、13世紀のシリアのラスシャラム出土のミケネ風陶片も隊列を組んだ騎馬兵士を示しています。

紀元前11世紀にはバビロニアのネブカドネザル1世が乗馬のことを語っています。

一方アジアの東では中国の安陽にある紀元前11世紀のものと云われる殷代の旧都から、1人の男性の骨と武器、硬玉装飾品、一頭の馬の骨と一匹の犬の骨が出土しています。
この男性は異国の兵士で騎馬遊牧民ではないかと云われています。


騎馬兵士の社会が出現して、それが多くの部族やその配下、草原で家畜をする人々を支配するようになり、騎馬兵士が広大な草原に執着すればするほど、彼らはより純粋な遊牧民になっていきました。

この新しい軍事形態は馬の大群に依存するものであり、馬を養うには新鮮な遊牧地を必要とし、肥沃な草原を少しでも広く支配することが軍事的に必要となります。

騎馬社会が広がっていた土地は紀元前1500年から800年頃にカラスク文化が栄えた土地にも広がっていましたが、カラスク文化の遺物とイランに定着した初期アーリア人の間には共通点はありません。

紀元前800年頃にはキンメリア人という古代の民族が登場します。

騎馬遊牧民は独特な社会形態を生み出し、近東やギリシアローマなどの古代文明よりも永く続きました。

この社会形態は部族制社会でその中の特定の遊牧部族が一時的に王族となり、封建的な方法で他の遊牧民を支配しました。

ひとつの遊牧王族は容易に崩壊し、崩壊した王族は臣下とともに新しい遊牧王族の臣下となることを繰り返していました。 

草原における歴史は規模の差はありましたが、この類の変化の繰り返しと遊牧民と文明民族との衝突の繰り返しで歴史が進みます。


南ロシア草原において、最初に騎馬遊牧勢力といえるものを作ったのは、ギリシア・ローマの文献がキンメル人と呼んでいる人たちです。彼らはコーカサス山脈の北側とポントス・カスピ海草原からハンガリーにかけて支配しています。

キンメリア人が近東の諸民族に攻撃を加えたことはアッシリアの文献で確認出来ますが、彼らの族長たちの名前から見て、キンメリア人がイラン系であったことは現在一般的に承認されています。

ただしその臣下にはおそらく他の部族、例えばトラキア人やコーカサス人もいたことが考えられます。
キンメリア人の起源は諸説ありますが、北部コーカサス文化に起源をもち、北に進んでポントス・カスピ海草原やダニューブ平野の一部を占領していたのではないかと云われています。

この辺りでは紀元前800年頃にコバン様式の新しい型の馬具が出土しています。

コバンとルリスタンの金属製品の間に様式上の関連があることによって、キンメリア人がイランにまで進入したことが考えられます。

一方ドニエプル川やドン川という河川付近にある墳墓から出土したものもキンメリア人のものとされていて、さらにドン川流域の地下横穴式墳墓もキンメリア人のもので、その後の時代にくる木槨墓(もっかくぼ)は紀元前900年頃またはそれ以降の初期スキタイ人のものであることが認められています。

木槨墓は中国では殷代にすでにみられ、周・漢代の墳墓の基調をなしたものですが、シベリア、モンゴル、アルタイ地方、朝鮮半島でも多く発見されています。

歴史の概説書でキンメリア人がその名を知られているのは、紀元前680年から670年に小アジアへ侵入したことによります。この事実はヘロドトスによれば彼らがスキタイ人に追われて逃げ出したからであるといいます。

しかし刀や斧などの出土品や遺物を見ると、ヘロドトスの記述とは違ってキンメリア人の移動はスキタイ人の侵入以前に始まった可能性があります。

キンメリア人の経路は、コーカサス山脈を越えてカスピ海沿いにメディアへ入ったのと、もうひとつがアルメニアに至るものがありましたが、アルメニアに入った方は後の8世紀にウラルトゥ王国の北辺にいてギミルライまたはガミルとしてアッシリア文献に登場しています。

新アッシリア帝国の王子センナケリブは、ウラルトゥとの戦いの中から父サルゴンに報告を送ってウラルトゥの王ルサスがキンメリア人によって手酷い打撃を被った旨を述べています。

キンメリア人はウラルトゥ王国の北部を占領していましたが、結局はアッシリアに対抗するためウラルトゥ王国と同盟し、そこから西へ進んでいます。

キンメリア人は紀元前695年に現在のトルコの中西部に存在したフリギア王国を倒し、その後のセンナケリブ王の治世に中部アナトリアを手に入れます。

そこからさらにリディアを劫掠してエーゲ海のギリシア人諸都市であるエフェソス、マグネシア、スミルナなどを侵略し、最後に南に向かい、当時のアッシリア帝国の一部であったキリキアを陥れました。

キンメリア人のうち、アナトリアに残留した一派は後にアルメニアの西方にあるカッパドキアに定住しました。

また別の一派はアッシリア帝国の東縁沿いに南下してザグロス山脈に達しましたが、そこでメディア人に吸収合併されたと考えられています。


【スキタイ人】
では次に先程から何度も登場しているスキタイ人について調べていきます。

スキタイ人についてはギリシアローマが残した記述を研究することから始まり、これを補足するものとしてはフン族を扱った後世の歴史家やマルコポーロなどのヨーロッパ人旅行者が中世のモンゴル人について書いた記録などがあります。

18世紀以来、これらのギリシャ人の記述はロシア草原における遺丘の発掘によって検証されるようになりました。

また近東における考古学的な調査によってアッシリア語やその他の記録が発見され解読されましたが、その記録の中で遊牧民の侵入について記されていた内容はヘロドトスが書いたものと一致し、それを補足するものとなりました。


タマン半島やクリミアの一部を除く南ロシアにおいて、スキタイ人は先住していたキンメリア人の領域を占有しています。

そこからドニエストル川より西へ越えることはなくしばらく時代が進んだことは、ドニエストル川を越えたベッサラビアやドナウ川(ダニューブ川)流域から後期のスキタイ人による遺物が出土したことにより明らかとなりました。

紀元前6世紀頃のスキタイ人は独自の芸術様式を持たず、出土している中で最古の様式は、南ロシアには先例がありません。

地下横穴墓をキンメリア人のものとするなら、その後に来る木槨墓(もっかくぼ)は初期のスキタイ人のものと考えることが出来ます。

この両種の墳墓形式はコーカサス地方やコーカサス山脈の東アジアをまわってダゲスタン地方にまで広がっています。

また、南コーカサスでの木槨墓はさらに古いことからこれらを残したのはヴォルカ草原から直接移動してきたスキタイ人で、このスキタイ人がメディア人とペルシア人をイランへ追い込んだのではないかと考えられています。

スキタイ文化に特徴的な銅・鉄・骨製の鏃(やじり)のことを三翼鏃(さんよくぞく)と言いますが、この遺物はスキタイの移動方向や活動範域およびスキタイ文化の分布圏を示す根拠とされています。

現在のアルメニアにあったテイシェバニというウラルトゥの町の壁に、三翼鏃が突き刺さっているのが発見されたため、この辺りまで侵略されていたと言われています。

ヘロドトスの書物が正しいとするなら、スキタイ人は衰退するアッシリア帝国の諸州を略奪しながらも、依然としてアッシリア帝国と同盟していたため、新バビロニアやメディアの攻撃はアッシリア帝国だけに留まらずスキタイ人にも向けられ、スキタイ人はコーカサス山脈を越えてポントス・カスピ海草原へ帰還しました。

この帰還した一派とは別にアルメニアのスキテネやサカセネ諸地方などに残ったスキタイ人もいます。
旧約聖書のエゼキエル書や新約聖書のヨハネの黙示録には神に逆らう勢力の主人として登場しています。

【サルマート人】
では次にイラン系遊牧騎馬民族のサルマート人について見ていきます。

サルマート人は中国北西部、新疆ウイグル自治区北部の盆地であるズンガリアという土地からハンガリーまで広がる草原を何度も通過または占領していましたが、紀元前4世紀頃には南ロシアに出現し、そこからさらに西進を続けること約700年、ついにローマ帝国の国境にまで到達しローマ帝国北東辺境の重大な脅威となりました。

後に東方から移動してきたフン民族に追い出され、南ロシアの故地を離れることになります。この時ゲルマン諸族の一派であるゴート人と連合して西ヨーロッパになだれ込んでいきます。

これがいわゆる民族大移動を引起し、ローマの力を著しく弱めました。


この大移動が始まる前にサルマート人の中で最も西方にいたのがサウロマート族という部族です。この部族は紀元前5世紀ごろにはドン川東方に住んでいましたが原住地はさらに東のヴォルガ川やウラル山脈辺りでした。

サウロマート族の一部はさらに東方の中国付近まで移動しています。

ウラル山脈の南端のチカロフ付近には紀元前5世紀〜4世紀の墳墓群が発見されていますが、この墳墓群によって南ロシアにおけるスキタイ支配期にサルマート人は初期スキタイ人よりもさらに簡単な方法で埋葬を行なっていたことがわかります。

墓は浅い穴で形は四角形、楕円形、円形のもので木材の構造物はなく、死体は棺に入れずに、なめし皮と毛皮で包まれているだけでした。武器、馬の装飾品、衣服、金属製の細長い飾り板、土器などが発見されています。

ギリシアからの輸入品は無く、ペルシア製の銀製カップと印章が発見されており武器の中にはスキタイ、メディア風の短刀もあり紀元前1千年頃に主流であったアキナケスではなく別種の短剣が出土しています。

サルマート人の遺物としては、長くて重い槍の穂や長い両刃の刀、リネンやなめし皮、骨、青銅、鉄の札で作られた鎧などがあります。

この種の鎧はスキタイ人には知られていましたが、あまり一般的なものではなく、この他には鉄製の重い鎧や青銅または鉄製の円錐形の甲などが見つかっています。

全体としてスキタイの遺物よりも多くの鉄が発見されていて、装飾は幾何学模様の明るい色彩が好まれています。

女性の墓には鏡、耳飾りなどが埋葬されています。この地域の西方およびドン川三角州の同種の墳墓にもこれと似た遺物が発見され、大量のギリシア製品も同時に発見されています。

また墓室には水平の梁(はり)を渡す建築技法が取り入れられてはいますが、この時期のサルマート人はまだ王墓を作るには至っていません。

サルマート人の初期の領域の東側に接していた諸部族連合のうち、コライズミア族とサカ族という部族がいますが、サルマート人の一部はこれらの部族に隷属していました。

彼らは中央アジアで発明された重装騎兵や革の鎧(あぶみ)を使用し始めた人たちです。

この馬具により馬の上から槍をふるう時に足場がしっかりとし、ギリシアの槍騎兵に似た接近戦闘が可能となりました。

この新しい装備と戦術をもってサルマート人は
ポントス・カスピ海草原のスキタイ王族を駆逐して
クリミア半島とダブルジャへ追い込むことが出来ました。
この戦術はゴビ砂漠の遊牧民や中国人にも採用され、何百年もの間に渡って定着、遊牧を問わず全イランの特色となりました。

サルマート人の一部族であるシラキは紀元前300年より少し前にクバン川流域を占領し、約500年間そこに住み着いていました。

他の諸部族であるヤジュグ、ウルグ、ロクサランという部族などは紀元前300年から100年にかけてポントス・カスピ海草原を占領しそれからドナウ川(ダニューブ川)を遡って行きました。

そこでローマ人と何百年かにわたって接触しています。
紀元前100年を過ぎるとアオルス族やアラン族が東方から西進してきて王族のサルマート人を打倒しました。

ポントス・カスピ海草原やハンガリーにおいてもトラキア人やケルト人、ゲルマン人などに徐々に隷属していき、サルマート人の歴史はギリシア、ローマの文献で分かる通り、最後にはフン族の侵入という大移動を迎えるに至ります。


今回はキンメリア人、スキタイ人、サルマート人の歴史について見ていきました。

ここらへんの歴史は日本の古代史を理解する上で無視できない知識となりますので、なんとなくで良いので頭に入れておいて下さい。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて是非皆さんも調べてみて下さい。

最後までご覧いただきありがとうございました。

📖の参考書籍📖
E・Dフィリプス著 勝藤猛訳「草原の騎馬民族国家」
護雅夫著書「古代トルコ民族史研究」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」「史記解」
宇山卓栄著書「民族と文明で読み解く大アジア史」

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古本屋えりえな
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