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【SFショートストーリー】多次元珈琲譚:消えぬ残像の佇まい

 東京のとある片隅で、世界は螺旋を描いていた。
 街角の喫茶店は木洩れ日の間にひそかに息づいており、コーヒーの湯気が空間をねじ曲げていた。
「時間が逆行するなんて、非現実的だよ」
 と、一人の客が言った。
 顔は不鮮明で良く見えず、名前は常に彼の記憶からこぼれ落ちて定かではない。
 彼の隣に座る女性は、片眼鏡(モノクル)を通してメニューを眺めている。
 彼女の眼鏡には奇妙な力があった。
 見るもの全てを可能性のある過去に変えてしまうのだ。
 彼女は静かに言う。
「時間が逆行ですって? いいえ、これは多次元の折り重なり。私たちはただの観測者なのよ」
 彼は首をかしげた。
 なぜか息苦しさを覚える。
 なぜならこの店は既視感で満ちていたからだ。
 ある瞬間は爽やかな朝の光に包まれ、次の瞬間は夕闇の静寂が訪れる。
 彼女がコーヒーを一口飲むたびに、彼の記憶は迷子になる。
「いったい僕は何者なんだ?」彼は問う。
「そうね、あなたはここにいる。だけど同時に、あなたは過去にも未来にもいるの。複数の君が重なり合ってね。並行次元、並行宇宙にだっているわ」
 店の外では、子供たちが蹴るボールが交差点を行き交う車を無視して跳ねていた。
 しかしそのボールは一度たりとも地面には触れない。
 それがこの地域の不文律だ。
 客は窓の外を見た。
「彼らは何を追いかけてるんだ?」
「ボールじゃないわ。彼らは遡りゆく時間の中で自分たちの無限を追いかけているのよ」
 彼は、彼女が正しいかどうかを判断する材料を持たないことを理解していた。
 だが、それが輪郭のあいまいな顔をした男にとって重要だった。
 喫茶店のドアが開いて、新たな客が足を踏み入れる。
 彼は歩行者としての記憶を持ちながら、補足者としての側面も持ち合わせていた。
 彼らはきっと別の物語に属する人々だ。
「これは始まりなのか、それとも終わりなのか?」
 彼が尋ねる。
 彼女の声は音楽的な笑いとともに響いた。
「それは観測者次第。終わりだって、始まりだって」
 そして彼らは閉じた時間の楽譜を紐解きながら、コーヒーを啜り続ける。
 外の子供たちはまだ時間とともに跳ねており、夜はゆっくりと日を追い越してゆく。

 地面にボールが触れることは、ない。

(了)

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