日記が僕の平凡な日常に彩りを与えてくれる
「何か良いことがあるかも…」
…何となくそんな気がして書き始めたこの日記も、早いことで1年。特段ステキな出来事があったわけでも無いけれど、たぶん僕の足跡は一歩ずつ記され続けている。
きっとこのままいけば僕の足跡は、1億年前の“始祖鳥”のように、遠い未来の人たちが「飛べなかった古代人」の化石として丁重に博物館に飾ってくれるはず。
何事もなく平凡に過ごしてきた僕の日記を辿ってみると、時に僅かな歩幅の違いに気づいたりもする。平均80cmで常に一定のピッチで進んでいたつもりだったが、案外横を向いて止まっていたり、ジョナサン・エドワーズのような美しい三段跳びで一気に前進したり、時には陽気なHipHopのようなスタッカートを挟んで軽快に地面を蹴ったりしていたようだ。
そして気がつくと、歩きやすそうな小高い轍の上から、いつの間にか足を踏み外して鬱蒼とした原生林に覆われた森の中を歩く僕がいる。
いつからなんだろう。
どうやら僕の目指していた“北極星”は、木星だったことに気づいてしまったらしい。以前から黄道近くをフラフラ彷徨っている気がしたが、このホシ(惑星)をずっと「道しるべ」に決めて歩いていた。
それでも、ただ書き続けていた…
書くことで過去の過ちや、淡い想い出などを心の奥深くから1つずつリマインドして貰えて、気づけば1つの「物語」として頭の中で綴られていくという、爽快な感覚が病みつきになっていた。
ある日、一年前の記事を読み返したら、全然思考回路が変わっていないことに気づいてしまい何ら成長がなかった自分にずいぶん失望したことがある。逆に「電車が混んでた」「よく歩いた」「美味しい肉を食べた」とかのたわいの無い“記録”に「そうそう」と案外共感することが多かったりもして、その時のちょっとした感情が何倍にも増幅されて蘇ったりする。
たぶん一生、僕のネガティブな思考は変わらなくて、ずっと白いキャンバスの上にステッドラーの真っ黒な鉛筆で変わり映えのしないデッサンをし続けているのだろう。
そして、たまに見つけ出した過去の出来事の“記録”が、夜空に上がる美しい花火のように、スペクトラム帯域を最大に広げ僕の物語に彩りを添えてくれている。
3年、いや5年後の僕がこの日記を見たら「ずいぶん若かったな」と思う時があるかも知れないが、それはきっと成長した証だろう。そんな記録と出会ったら僕のデッサンには、キラキラとした眩しい色が加わる気がする…
やっぱ、日記っていいな。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。