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あの時、笑わなくなったさなみへ

あの時、笑わなくなったさなみへ。

36歳の今、あなたは自然な笑顔を出せるようになっています。

誰かから促されたわけでもない
作り笑いでも無い
テレビを見て笑ったわけでもない

ただ、ただ、
内から湧き上がったような
ポロっと出た、
そんな笑顔で。

写真左がさなみです。

家族の前で、笑顔を出す自分を許せています。
今、少しずつ、本来の私を取り戻しながら
進んでいます。

笑わなくなったさなみ、とは

2024年11月の現在、36歳の私は、
今年の1月まで、
家族の前で「笑う」ことができませんでした。

「笑顔を出さない」自分を選んできたのです。
自分でもよくわからないうちに始めてしまっていて、
貫くことしかできなかった「笑顔を出さない」こと。

「家族の前で笑うことを自分自身に許せた」今だからこそ、
この記録をここに綴っていきたいと想います。

いつか誰かの背中を押せることを信じて。

“笑わないさなみ“の始まり

“笑わないさなみ“の始まりは
小学生の頃。

私の記憶としては
「ちゃんとしなきゃ」
と想ったことが発端のような気がします。

小学生の私は、いつからか
“夜眠る“ことが怖くなっていました。

“夜眠ること“が、というよりは
ただ“眠る“ということが
怖くなっていたように想います。

それはその時見ていたドラマの影響だった。
そのことに、大人になった今気づいた私。

“自分の知らないうちに親が死んでしまう“
ドラマの内容を、小学生ながらに
そのように解釈した私がいて、

眠る=自分の知らない時間が出来る
=親が死んでしまう
そのことが怖かったんだと想います。

夜の時間になると、
特に深夜帯に近づくと怖くなり
どんどん目が冴えて
悲しくなってくるのです。
涙が止まらなくなる自分がいたのです。

もちろん、何が自分の中で起きているかなんて
小学生の私自身は自覚してもいませんが。

ただただ、涙が止まらない日々が続くのです。

“ちゃんとせなあかん“

そんな私を見て、母が隣で寝てくれるようになりました。
子供用二段ベットの下で
母が毎回添い寝してくれるようになったのです。

そうすると“安心“して
眠れている私がいたのです。

でも、母のこんな声が聞こえてきます。
「はぁ…」
「また?」
それを拾っていた私がいたことを覚えています。

当時の母の気持ち,
二児の母親になった現在の私なら理解できるなぁと思います。

自分のベットで寝たいよな。
自分の子供が理由もわからず毎日泣いていたら、
「また?(何でよ?混乱)」みたいな感じになっちゃうよな。
私が横にいたらしっかり眠れなかったかもしれない。
(小さな物音でも起きちゃう母です)
寝不足だったよな。
私だって今2歳や4歳の子供たちと寝ていたら
夜中は何回か起きることもあります。
それが毎日だと、
疲れも出てくるよな。
ため息も出るよな。

“現在の私だから“理解ができるんです。

でも、小学生の私は理解出来なかった。

自分の今の状態を受け止めてもらえない
むしろ、うっとうしく思われている
私のせいでお母さんが機嫌が悪くなっている、困っている

そう感じたんだと思います。

“プツンと自分のスイッチが切り替わった“
そんな記憶があります。

いつ頃かはわかりませんが
「ちゃんとせなあかん」のスイッチが
入ってしまったような記憶があります。

「ちゃんとせなあかん」=「ちゃんとしなきゃ」
=「自立しなきゃ」
子供ながらにそう解釈した記憶があります。

自立しなきゃ

泣かないでいよう(お母さんが悲しむ)

歯を食いしばる

笑わない

子供ながらに考え抜いたであろう、こんな動機から、
私の“人生笑ってはいけないトレーニング“がスタートします。

“笑わない“→“笑えない“さなみ

トレーニング(?)を始めた頃は、
「笑わないぞー」「絶対笑うもんか!!」
自分で意気込んでやっていたように感じます。

“笑わない“という目標の奥に
“お母さんのご機嫌がコレならとれる!!“
“コレならお母さんが喜んでくれる!!“

“笑わない“という手段は
“お母さんを喜ばせる“ハンパなく革命的な方法だと、
その頃の私は思っていたのかもしれません。

“笑わない“というより“感情を出さない“
そうなっていたように思います。

感情を出さないようにするため、
小学生の頃の私は口数も減っていったように感じます。
「ムスッとしているさなみ」
いつ頃からかよく言われるようになったこのワードは
このタイミングで始まっているように思います。

喋ると感情も出ますから。笑
子供なりにいろいろ考えて
“笑わない“=“お母さんを喜ばせる“という目標をコミットするために
頑張っていたんだなと振り返ります。

ただ、それを貫きたいあまり
“笑いたい“ときに“笑えない“
そんな事態が起きてしまう機会も出てきました。

例えば、
リビングでテレビを見ている時
とってもおもしろいバラエティがやっている。
すごくすっごくおもしろいんだけど
“笑わない“と決めてしまったから
その場で笑えないのです。

おもしろいと感じるだって
たまにはあります。
おもしろいことを誰かが話してる
みんな大声で笑ってる
そんな場面でも、私は“笑えない“のです。

“笑わない“と決めているから。

だから、
おもしろいことがあれば、
その瞬間目を逸らしたり
分からないように寝転がって耳を塞いでみたり
吹き出しかけたら口を塞ぎます。

それでもよっぽど笑いたい時は
違う部屋にいって
テレビを見たりするようになります。
自分の笑いたいときに笑えるから。
おもしろい話を聴かないで済むから。
(聴いたら笑いたくなってしまうから)

“笑わない“さなみは、
“笑いたい時にも笑うことをしない“
“笑うことを選択しない“
“お母さんの前で笑うことを選ばない“

だから

“笑わずに済む“
“自分の笑いたいときに笑える“
そのためのあらゆる手段を考える小学生のさなみに、なるのです。

日に日に、
おうちにいるときは
自分の部屋に、ほぼ籠もるようになります。

だって、
一人でいる方が自分の好きなときに笑えるから。笑
扉をしっかり閉めて、誰にも見えないようにして。

目的から大きくずれていく事実

ここで一旦“笑えないさなみ“までを整理します。
テレビの内容の影響で眠れなくなる

眠れないさなみ

眠れない私のせいで
お母さんが困ってる、機嫌が悪いと思ってしまう。

ちゃんとせなっっ!!お母さんを喜ばせなっっ!!
そうや!泣かんようにしよう

歯をくいしばる感じ=笑わない
ムスッとしているさなみ・人生笑ってはいけないトレーニングの始まり

相変わらず頑張って?
“笑わないさなみ“にコミットし続けている私。

“笑わないさなみ“は“笑えないさなみ“へ

笑えない

笑える方法を探す

部屋にこもる
(一人だと好きに笑えるから→笑う姿を見せなければ)
話さなくなる

さて、
“笑わないさなみ“を始めた当初の目的は
“お母さんを喜ばせるため“です。

ですが、その想いとは裏腹に
現実は想いもよらぬ方向に進むのです。

お母さんがまた、困り出すのです。

お母さんがまた(?)困り出す。

おうちでは最低限しか話さない。
“笑わない“を越えて
「ムスッとした」顔つきでいるようになってしまう。

家族内で
どんどん閉鎖的になっていく私を目の前にして
お母さんは困り出すのです。

ただ、おうちではそんな姿勢の私も
外では、
友達のお母さん達、お母さんの学生時代からの親友と話すことが大好きで、
その人たちには何でも話していました。
(今思えば、お母さんと話せない<“話さない“を選んだのではあるが>分、
母親世代の方と話すことで解消していたのかもしれません。)

その話がその方々を通じてお母さんに入る。
お母さんは“又聞き“の状態で私のことを知るように
なっていきます。

「さなみは何にも話してくれへん」
いつからかお母さんが周りの方に漏らしていた言葉。

それが回り回って私にも
入ってくるようになりました。

「お母さんが困っている」
そんなことに気づいても、

“笑わない=お母さんを喜ばせる“
この根強く、根深く私に在る想いと
既に当たり前になった“笑わない“習慣を
私自身は変えることができず、
変えようとも思わず、
日々は過ぎていきます。

その中であることが起きます。

“罪悪感“を抱くお母さん

“笑わない““話さない““ムスッとしてる“
そんな私の姿を毎日見ているお母さん。

「育て方を間違えてしまった。」
その私の姿にこんな気持ちを抱くようになります。

この言葉は、
お母さん自身が、私や他の人に、
時折漏らすようになった言葉です。

自分を責めだした、お母さん。
“笑わない““話さない“さなみにさせてしまったのは自分だ
育て方を間違えてしまったと後悔し始めるのです。
(原因は把握できていないが漠然と)

中学3年生の誕生日。
その当時の私と母の関係性が
なんとなくわかるクラス便りの内容がこちらです。

外では笑う私
後悔のあるお母さんからの手紙

外では笑える、話せる、
でも、
おうちでは笑わない、話さない
その私を見て、後悔、罪悪感を抱くお母さん

この親子関係が当たり前になってしまう現実がおとずれるのです。

当初の私の思いとは
違う方向にどんどん向かっていることには
全く気づかずに。

怒りがこもった“笑えない“さなみ

育て方を間違えた
私は思いやれてない

そんなことを外に漏らすようになったお母さんに
少しずつ「怒り」も覚えるようになった覚えがあります。

今振り返ると
“ちゃんとせなっっ“とお母さんのためにやり始めたのに
“育て方を間違えた“って何だよ。
何でわかってくれへんの?

そんな悲しみからの怒りが出てきていた私。

怒りがこもった
“笑わない“さなみが生まれます。

“何でわかってくれない!!“
日常の出来事の中で、母に対するそんな気持ちが
どんどん積み重なっていた私。

笑わないために、
歯を食いしばって出来ていた「ムスッとした私」
それはいつからか
「睨みつけるような目つきのムスッとした私」へと
レベルが上がっていったように思います。

続けていたバレーを辞めたいとか
進学はここに行きたいとか

“こうしたい“ということを
受け入れてもらえなかった時、
その時の親の気持ち、状況
何も聞くわけもなく、理解なんてしているわけもなく
“何でわかってくれない“
“何で私だけ何もわかってもらえない“
ただこう想い、

さらに、
姉妹との関係の中で
ある一部分だけを切り取って
(全容を把握せず)
お姉ちゃんや妹は聞いてもらってるのに
何で私だけダメなの?
何で私だけ聞いてもらえないの?と想うようになり、

「私だけがわかってもらえないんだ」

怒りや諦めの世界を“私自身で“作り上げていったように思います。
誰もそうとは言ってないのに。

奥で繋がり合う親子

育て方を間違えたと後悔するお母さん。
“私だけわかってもらえない“と怒っていた私。

距離が離れていくように見える親子関係ですが
それでも奥の奥はぎゅっと引っ張り合いをしていた、
そんなふうに今なら思います。

“お母さんを喜ばせなきゃ“という想いは
変わらず私の中にはあって、

お母さんが、ここに行けと言ったから行く
お母さんが、私が資格を活かした仕事をしたら喜ぶからこの仕事続ける

そうしてほしいと、お母さんから直接言われてなくても
「こう言ってたよ」
「さなちゃんがこうしてくれているからお母さん喜んでるよ」
お母さん以外の人が良かれと思って私に伝えてくれた言葉を受けて
「そうか、そうしたら喜ぶんだな」と
自分で判断して行動していることもあったと思います。

困っているお母さんを喜ばせんと!!
当初のこの思いに
罪悪感を抱いてるお母さんを喜ばせんと!!
そんな気持ちも乗っかって

これまでの人生の出来事は
「お母さん」が主語で、ほぼ決まってきていたことに気づいたのは
本当に最近です。
(表で決めているのは自分、奥で決めているのはお母さん)

お母さんの想いに添うように生きてきた。
(お母さんの想いがそうなんだと勝手に思って生きてきた)
“主語がお母さん“の習慣がいつからか当たり前になって
もう、無意識的にそう行動するようになっていた。

そんなふうに振り返ります。

自由にやってみてください。

35歳の昨年。
ここまで語ってきた全てのことに気づく
きっかけになる出来事が起こります。

“自由にやってみてください“
ある方から言われたこの言葉。
その時の私に
雷のように落ちたイメージがあります。

“管理栄養士“として個人で健康のサポートをしたいと想い
コンサルの先生についてもらいながら
チャレンジをしていました。

34歳の時からチャレンジを始め、
約1年ほどお世話になっている中で
当初は意気込んで前向きにやっていましたが
中程からどーんと落ちていく私が出てきていました。

何をしようとも喉が締め付けられる感覚があって
息が苦しくなるのです。

その時の私の状態を鑑みて
先生はたくさんの対策方法を考えてくれ、
あれやこれやと試していましたが
何をしても改善せず…

その時、先生からこの言葉を言われます。
“自由にやりたいようにやってみてください“

先生自身は私のためを思って言って下さった言葉です。
先生が良いと思って提示していたことが
私を制限していると考えて下さり
その言葉を投げて下さいました。

でも、その時の私は
“突き放された“気持ちでいっぱいになったのです。

もうあなたのことは知らないよ。
面倒見てらんないよ。

そう言われた感覚でした。(言われてないけどそう感じた)

その瞬間、涙が溢れたことを思い出します。

自由にやることが怖い私

その時、私はあることに気づきました。

“自由にやることが怖かったんだ“

1~10まで道を作ってもらって、
そこに添うように進むと良いと考えていたんだと思います。
むしろそのやり方でないと上手くいかない。

行動全てに対して
先生に正解不正解を求め
いつ頃からか目標が
“先生のために“成功したい
になっていました。

先生の考えに添って進む。

それは、
“お母さんの想いに添うように生きる“
私の中で根付いていた生き方に
ピッタリはまっていた状態だったんだなぁと、
現在は分かります。

“自分で“ではなく
“先生に頼って行動する“
“先生がいないと行動できない“

そんな状態でそこに在った私。
自由にやってください
=命綱を切り離された

そんなことを感じて
(その時は全く意味がわかっていませんが…)
全力の悲しみから涙が溢れて止まらなかったんだと思います。
(命綱を切り離された=死んだも同然)

“お母さん“が主語の私に気づく

“自由にやってください“
この言葉に大きな悲しみを感じた私。

そこからまた、あることに気づきます。

“管理栄養士“という資格を取得する動機が
お母さんのためだった、ということを。

私は会社員をしながら
この資格を受験し取得しています。

短大で栄養士を取得し、
栄養士を持っているなら管理栄養士も取らないと、
といった思いで勉強受験しました。

表面のこの動機の奥に、
「管理栄養士を取得したらお母さんが喜ぶから」
という大きな動機があったことに
このとき気づいたんです。

“管理栄養士を取得してほしい“
そうお母さんには言われたことはありません。

でもお母さんのお友達からは
こんなことを聴いた覚えがあります。
“資格を活かして仕事をしている私がいることを
お母さんがとても喜んでいる“

そのことを聴いて
“栄養士よりさらに上の資格をとって
それを活かして仕事をしたら
さらに喜んでくれるかもしれない“
そう自分で解釈し、勉強しました。

このことに気づいたとき
目次の「奥で繋がり合う親子」で書いたように
“これまでの人生の出来事は
「お母さん」が主語で、ほぼ決まってきていた“ことを自覚したのです。
(表で決めているのは自分、奥で決めているのはお母さん)」

お母さんの目から自由になる

お母さんが主語。
つまり私は、お母さんのせいにして人生を過ごしてきた。

それを自覚したとき
自分の奥でなんだかスンッと
“それは嫌だな“と思えた気がします。

大人になっても
親とぎゅっと引っ張り合ってる
“依存している“というワードが
単純に嫌だなって感じたこともあると思います。

誰かに言われて浮かんだワードでもないけど
その事実は嫌だな、そう思いました。

また、
“自立しなきゃ“と思って
やってきていたことが
“全く自立できてない現状になっていた“
そんな事実も嫌だったんだな、と振り返ります。

そしてこの時、
自然と私の奥で納得(?)出来たことは次の内容です。


2023.10.27にコンサルの先生に送ったLINE

このタイミングで
お世話になっていたコンサルの先生に
“辞める“ことを告げている私がいました。

そして私は
ある場へ参加することを決めました。
“私を知るための対話の場“へ。

そこに何をしに参加したのか。

“お母さんの目から自由になりたい“
その言葉が私から出てきました。

誰に促されたわけでもなく
そこに向き合うことを
私自身で決めることが出来たのです。

もう大丈夫だ。

“私を知るための対話の場“
ここでたくさんの仲間に関わっていただき
私自身と向き合っていきました。

“私を知る“=自己理解=“私を大切にする“

“笑わなくなったさなみ“
その事実にもここで向き合いました。

この記事に綴った事柄は
この場(私を知るための対話の場)で
私自身で言葉にし、理解を深めた内容です。

対話を通して
私自身が感じた想い
私自身に起きた事実を知り

それを認め、包み
また、認めてもらい、包んでもらい
たくさんの仲間の視点から
感じたことをまっすぐに伝えてもらい、受け入れる
一つずつ向き合って積み重ねる日々の中で
私自身の視野がはるかに拡がり、
お母さんのことを理解できる私にも出会えました。

私自身が二児の母親になっていたからこそ
当時の母の気持ちが痛く理解できたのもあります。

「お母さんも私もそっくり」
やってることも、感じていることも
そっくりそのまま受け継いでいる。

その視点に目を向けると
“怒りがこもった笑えないさなみ“が抱いていた
“私だけわかってもらえない“と怒る気持ちは
スーっと下がっていったような感覚があります。

“私を知る“=自己理解=“私を大切にする“
ここにも書いたように、
「お母さんも私もそっくり」
ということを理解して
なお、お母さんに対して怒るのは
“私を大切にしていない“=“私を否定する“
そのことと一緒になると感じたのです。

“お母さんの目から自由になりたい“
お母さんの想いではなく
私の感じたことを大切にする
“私“が主語で生きる

そう決めた、その私を欺かない。

私自身を包むことで
お母さんをも包む。

お母さんを包むことで
私をも包む。

それを経て
2024年1月4日、このときが訪れます。

“笑えた“さなみ

お正月の挨拶に実家に帰ったこの日。
姉や妹達も一緒に集まりました。

姉が何気なく
「3人で写真撮ろう!!」と言ってくれました。

その時、
自然と笑顔がでた私がいたことを覚えています。

「もう大丈夫だよ笑っていいよ。」
そう私の心の奥から聞こえてきたような感覚で、
「笑ってやるもんか!」
と歯を食いしばる私はそこにはいませんでした。

自然と笑顔が出た私

「さなが笑ってるー!!」
姉から溢れた言葉。
「お母さんにもその写真ちょうだいっ!!」
お母さんからの言葉。

その会話が聞こえてくると、じーんと来た私。
ある時から少し距離をとっていた妹とも、
一緒に笑えているという事実も、
この上なく嬉しい私がいました。

姉がこんなに溢れた言葉をかけてくれたのは
私が家族の前でも笑ってこなかったからだと思います。

“笑わないさなみ“を始めてから
お母さんの前だけでなく
家族の前でも
“笑わない““話さない“をしていた私。

『“笑わない“→“笑えない“さなみ』にも綴ったように
ムスッとするしかなかった私は
家族の前でさえも笑えないし
部屋に籠もるしか無かったのです。

だから家族の前で笑わないことも
表情や感情を出さないことも、(怒る感情のみ出している)
もう当たり前になりすぎて怖くなっていた。

だけど、それを越えて
“笑えた“私のことを受け入れてくれたんだなぁと
一緒に喜んでくれたんだなぁと
むしろ、
まだ100%嬉しさを表せれない私の代わりに
喜んでくれたようにも感じます。

とっても感謝しています。

また、
姉が「写真を撮ろう」と言ってくれたことも
感謝している私がいるなぁと思います。

“私を知るための対話の場“での積み重ねを
SNSの投稿に載せていたことを見て
何か感じ取ってくれていたのかも知れません。

それまでは「写真を撮ろう」なんて
話題が起きませんでしたから。

姉にはとても感謝しています。
みんなで、
笑顔の私を待って、出迎えてくれた
そのように感じられて幸せな私がいます。

“笑えた“この事実は私にとって
“奇跡“だと思います。

そうしようとも、全く考えてない
むしろ諦めていた
″想像もしていなかった未来″です。

“笑えたさなみ“を越えて

2024年11月23日、
この記事を書いているさなみは
お母さんと向き合うチャレンジを重ねています。

“笑えない“さなみが
“笑えた“さなみになる。

それからも
“私を知る“ことを続け
偶然(?)昨日また一つの大きなチャレンジに向き合いました。

今日、今も向き合っています。

“私と向き合って!!“
私を越えて
“お母さん自身と向き合って!!“

と、届けるチャレンジです。

家族みんなで
より良い人生を生きるチャレンジです。
納得して選んで生きていくためのチャレンジです。

このチャレンジは
家系のルーツや流れも越えると思っています。

人生のほとんどを
「お母さん」を主語に
「人」を主語に
つまり、
人のせいにして生きてきた私は

「私」を主語に
「私が決めた」道を歩んで
私が関わるみんなが
よりよく生きる
私も含め、それぞれが納得して人生を選んでいく

そのためのチャレンジを重ねています。

自分自身を最も信じて。

これまで何かがあると
「私はやっぱりダメなんだ」
「もう消えてしまったほうが良い」
そんなふうな
私自身から湧き出る
“最悪の事態を回避しよう“と引き戻して
そこから抜け出さなかった、私自身を守ってきた
そんな私は、

「大丈夫だよ、ほんまに大丈夫」
何があっても
その言葉が湧き出るようになるほど
私自身が前を向いて私を励まし、支えるように守っています。

私自身の人生を納得して生きる
そのために“私を知る“を積み重ねています。

それがいつか誰かの背中を押せることを信じて。

私の関わるあなたが
納得した人生を送っていける、
みんなが納得した人生を選んでいける。
その世界を目指して。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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