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迷子、池袋にて


仕事で飲食に関わっていると、芝生の綺麗な公園の中につい先月できた小洒落たカフェの、まずいホットドッグとレモネードを飲みながら、採算とか客単価の事なんかを考えてしまう。土曜日の11:40、梅雨の合間の抜群に晴れた1日なのに、だ。

そのうち値段(が高い)と量(がやたら多い)の関係性だったりとか、あぁあるあるとしか言えない流行りの装飾で凝り固まった店内の、細かいディテールのツメの甘さにイライラしだしたりして。

そうこうしているうちに今日の目的だった芝居も見終わって、四人でフラフラ入った駅前地下2階の高級純喫茶(と言ってコーヒーもカレーも中華丼も値段は500円だ)は良かったな。
天井が低い店内は赤茶色の絨毯が敷き詰めてある。店の真ん中をデカイ水槽が横断していて、その中に銀とオレンジの品のない魚がたくさん泳いでいた。
おばさんらが空いたティーカップを端によけお冷で居座ってるし、おじさんらはパソコン広げて仕事しているし、おじいさんはスポーツ紙をずっと読んでいた。
かくいう僕らも芝居のパンフレットを回し読みしながらポツポツ感想を語らい、ネクタイがやたら小さい中性的な細っこいお兄さんに、コーヒーを飲んだ後に水を二回も注がせた。

あの居心地の良さを何て呼んだら良いんだろう。
それを人工的に再現できないことがわかっている気もするけど、だからかあの心地よさは少し切ない。

僕はカッコいいものを求めすぎているのかもしれない。それなのに自分が定義する居心地の良さが、くせになってしまっている。僕の好きな場所たち、時に対極に存在する、カッコよくてかわいくて、新しくて懐かしい、僕の好きな場所たち。

洗練された場所作りがしたいわけじゃないのに、それを頑張った場所に対してはすごく厳しいし、物や時間に懐古的なくせに、生産性がないとか言う。
じゃあ何がいいのかと言われると、すごく難しい。難しいというかよく分からないんだ。だからいつも気がついたら1人で押し問答しながら途方に暮れている。割り切れない気持ちをうまく消化できずに、みっともなく悪態をついたりして、どうにかやり過ごそうとしている。

喫茶店の水槽に泳いでいる熱帯魚と思しき魚は、色だけ見ると腹部の色素が抜け落ちた金魚だ。見れば見るほど品のない魚たち。
でもずっと見ていられる、見ていることを許されている気がする。
油とヤニと時間が染み付いた店内で、僕だけがひとり迷子になっていた。


#エッセイ #日々 #生活 #日常

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