評価という数字
見出しの水彩スケッチは私が描いたものだ。まだ途中ではあるけれど。
自分も一応絵や小説をかいていた人間で(鬱やらなんやらで今はほとんどしていないが)、だから気持ちというか、心理は分からなくはない。でも最近SNSが急速に拡大して、そこでの評価という名の数字を気にしすぎている作家が、とても多いように思う。
以下怒られそうな文言もあるかもしれないが、頑張っていない作家はいないということなんて知っているという前提の上で、癪に障らないところまででも読んでもらえたら嬉しい。
そもそも創作をする人間とは
往々にしてつくらなければ生きていけないたちの人々だ。楽しいから、苦しみを吐き出すため、惰性、色んな種類の創作家を目にしてきたが、「飽きたのでやめます」と言い出した人を見たことはないし、「やめろと言われたのでやめます」は想像もつかない。
とにかく好きなのか嫌いなのか、つくるということをやめられないし、やめている自分を想像できない。私ももっと本格的にできなくなったらきっと苦しいのだろうな、と思う。創作活動に興味のない状態が続きすぎて、怖くなる日もあった。
苦しむ理由
物を生み出すのに苦しみが伴うのは当然だろうが、そのあとの苦しみのほうがよほど堪えていそうな人がネットにはたくさんいる。
要するに評価が思ったようにもらえないのだ。
「努力相応の数字がつかない」「仲のいい人が反応しない」「人気のジャンルばかり伸びて悔しい」、人はさまざまでも大体似たようなことを言う。
・努力相応の数字がつかない
これ、わりと当たり前だ。見た側に伝わるのは努力や時間ではない、出来と見栄えである。そしてその評価基準は個人の主観によって簡単に左右する。
自分の感性が人に通じない、響かないというのは確かに悲しい。美味しいと思った食べ物を誰とも共有できないのは寂しいのだ。
本当に誰にも評価されなかったなら下積み不足か営業が上手でない可能性もあるけれど、「頑張った作品ほど評価されたい」と言う人ほど、下から見上げるともう十分なほど愛されている場合はある。要するに自分で勝手に理想というハードルを上げて、もっと大きな数字が見たい、恵まれたいと思ってしまっている。
死後ようやく評価された画家の話なんてどこにでもありふれているのに、数時間、数日で目の前の素人の指にハートを押されなかっただけで虚しいと言い出すのは、少し欲張りになっていると思う。
・仲のいい人が反応しない
これはもはや仲がいい人と自分自身が思っているかを疑ったほうがいいだろう。「評価をくれる人」と認識してはいないか、一度確認したほうがいい。
そして「評価をくれるから好き」だと思っているのなら、きっと縁を切るべきだろう。相手に失礼であるのは前提として、そのままこの先も対人関係や作品に対する認識が歪みかねないからだ。
・人気のジャンルばかり伸びて悔しい
これはお手上げである。仕方ない。
閲覧者の絶対数がそもそも違うのだから、作品の数字で張り合おうとしても仕方ない。小学生の喧嘩くらいしょうもない。
人気を張り合わなくても、あなたがその作品を愛していてかつ仲間がいるなら、それだけで素晴らしいことだと思う。
総括して思うこと
ありきたりだが数字として捉えるから良くないのだろう。
作家は、我々は、インターネットに慣れすぎたのかもしれない。画面の向こうにいるのは、そのボタンを指先でタップしたのは、クリックしたのは、確かに生きて感性を持つひとりの人間なのである。
彼に彼女に届いたのだ、そう思えれば「1いいね」はたったひとつではなくもう一人の理解者になる。これはどんなに恵まれた大きな事実だろうか。
そう思うからこそ「評価の低さが悲しい」という人ほど、きっとこれからも作品を大事に丁寧に仕上げることができる。唯一無二の理解者が現れるのはそう遠い日ではないはずだと、私は願いたい。
ここまで読んでくれてありがとう。
タラコ