ひとりのひとつ
職場の後輩である武田宏治君は、非常に真面目で勤勉で、見た目も宜しく、非の打ちどころがない青年である。敢えて非を挙げるのならば、まだ若いので収入がさほどでもなく、同居人が居ることであろうか。
その同居人は女性ではなく、つまりは男性で、だからと謂って彼は同性愛者ではなく、寧ろ保護者的立場で共に暮らしているのである。このような献身的態度を示せる二十代の男を、普通に行動していてなんの努力もせずに見出せると思っているのならば、それは夢見がちにもほどがあるし、愚の骨頂と云っても間違いではない。
それほどまでに武田君はハイスペックな青年なのだが、職場の女性にはまったく興味を示さず、私生活でも女性の影は見当たらない。
武田君に女が居ようと居なかろうとわたしには関わりのないことなのだが、彼の同居人が煽ってくるのだ。
「麻衣子はプライベートだとそんなカジュアルな、色気もへったくれもない服を着てるけどさ、ほんとはどんなのが好きなの?」
「どんなのって、今着てる服が好きだけど」
「んー、云い方が悪かった。デートとかに行くとしたら、そのままの恰好なのか?」
「そんな訳ないでしょ。化粧だってちゃんとして、服装だって……」
「化粧も手抜きしてんのかよ」
「だって、友達の家に行くくらいならさあ……」
「あー、なるほど」
「仕事の時はちゃんとしてるよ。それを毎日毎日、毎日毎日してるんだから、休みの日くらい手抜きしたっていいでしょ」
「判った、判った。それで十分、可愛いし」
「馬鹿にしてない?」
「してない、してない」
「で、武田君はなんで居ないの?」
「ケーキ買いに行ってる」
「また?」
「うん」
「毎回はいいのに」
「それは自分で云えよ」
「云える訳ないでしょ」
「なんでさ」
「あんた、ひとの気持ちを考えたことある?」
「……一応、あるよ」
「その間が恐いわ」
「大丈夫」
「そうかなぁ」
「でさ、うちに来るのは日常の延長なのは判ったけど、デートとかなら違うんだな」
「当たり前じゃん」
「ほぉぉぉう」
「何よ、その反応は」
「実は、スペッシャルなものを用意してあるんだよね」
「何よ、恐いな」
+
「じゃじゃーん」
「ナニこれ」
「いいっしょ」
「……うん。ってか、これ、ハルミ君が用意したの?」
「そう」
「女の子のアドバイスもなしに」
「うん。おれ、高校卒業してから他人と関わることなく過ごしてるから」
「……あ、そう」
「麻衣子のいいところは、そうしてスルー出来る能力だよな」
「突っ込みにくいじゃん」
「そこがいいんだよ」
「ありがとう」
「で、これに着替えてみて」
「いいけど、部屋、出てってくれる?」
「見てちゃ駄目?」
「おまえ、馬鹿かよ」
+
「はい、もういいよ」
「おー、いいじゃん。可愛い」
「あんた、スタイリストとかになったら? これなら抵抗なく着れるし、お洒落だし」
「ひとと関わらなく出来るならやるけど」
「それは無理だね」
「知ってる」
玄関のドアが開く音がした。
「あ、帰ってきた」
「ちょっと待って」
「ナニが」
「恥ずかしい」
「なんで」
「こんな恰好で会ったことないし」
「裸じゃないんだからいいじゃん」
「あんた、雑すぎ」
+
「あ、川上さん、遅くなって申し訳ありません」
「いやー。なんか毎回ケーキ買いに行かせちゃってごめんね。っていうか、わざわざ買いに行かなくていいからね」
「…………」
「手、ぶらーんとさせてるけど、落とす前にこっちに貰おうか」
「え、ああ」
「おい。前、見えてるか?」
「は?」
「麻衣子、作戦は大成功だぞ」
「そうなの?」
「こいつの顔つき見てみろよ。ヤバい薬で飛んでるみたいだ」
「いや、それは……」
「宏ちゃん、起きてるか? 麻衣子に見惚れて気ぃ失ってるんじゃねえぞ」
「何云ってるんだよ、意識は確乎りしてるよ」
「そうかねえ。じゃあ麻衣子のこと、確乎り見てみろよ」
宏治は目を逸らした。
「いくらなんでもそれは失礼だろ。ちゃんと見ろよ」
宏治は目を逸らした。
「こいつ、マジで馬鹿だな。麻衣子、こんな奴はやめといた方がいいぞ」
「ち、違います。直視出来なかったのは、あまりに可愛らしかったからで、とても言葉に出来なくて、いえ、その、年上の方にそんな、申し訳ありません」
「あたふたし過ぎ。大丈夫かよ。馬っ鹿だよねえ、なんでこんなに不器用なの? 麻衣子もぽかんとしてるじゃん。宏ちゃん、はっきり云いなよ。ぼくは麻衣子が好きですってさあ」
「いや。いい、いい、やめて。武田君が可哀想じゃない。やめてあげてよ、もう。ハルミ君、お巫山戯が過ぎるよ」
「麻衣子、その躱し方は不味いよ。保護者枠に行ったら駄目だって」
「不味くてもなんでも、もういいから。武田君、今日は何を買ってきてくれたの?」
「あ、今日はフランボワーズのタルトがあったので……」
「馬鹿じゃねえの」
「は?」
「ケーキの種類とかどうでもいいだろ。頭使えよ、頭いい癖に。ちゃんと云え、馬鹿」
「何を」
「麻衣子が好きだって、ちゃんと云えってんだよ」
+
武田宏治は幼馴染である森川春洋のお母さんが大好きだった。
とてもきれいで、やさしくて、いいにおいがした。
自分の母親も優しくていい匂いはしたけれど、ハルミのお母さんは特別な匂いがしたのだ。まるで天国に咲く花のような、月に植物が生えていたならその花のような。
儚げで美しく、触れてはいけないと思えるほどに。
宏治少年は憧憬の思いでそのひとを眺めた。
その女神に、毎日会えるのだ。その幸運を、宏治少年は神に感謝した。
優しく微笑みかける。
優しく話しかける。
優しく触れてくる。
優しく触れてくる。
このことが、幼い宏治を煩悶させた。
あれは友達のお母さんだ。物凄く年上のひとだ。おばさんだ。お母さんと同じひとだ。否、お母さんとは違う。あのひとはとてもきれいなひとだ。うつくしいひとだ。やさしいひとだ。
ぼくはおかしいのかも知れない。病気なのかも知れない。
あのひとは美しい。
あのひとは素晴らしい。
ぼくは
あのひとが
大好きだ。
+
ハルミの母親が亡くなり、父親も病の床についた。この夫婦はもともと互いに体が弱く、子供を為すことなど論外だったらしい。
だったら子づくりなんかするなよ。女性にどれだけ負担が掛かるのか知らなかった訳はないだろうが。愛する女を殺す気だったのか。子供なんか居なくたって、幸せな家庭は築けただろうに。
どうして、なんで、彼女の体を痛めつけてまで子孫を残そうとしたのだ。
彼女が生きていなくてはすべてが無意味になるのに、最も身近に居たあの男は、何故それに気づかなかったのだろう。妻のすべてを守り、慈しみ、何より健康を管理するのが夫の役目である筈だ。
彼はそれを怠った。
最大の罪である。
彼女をなくした。
それは、
おまえの所為だ。
+
この指輪を受け取って慾しいと云われた時、彼女の指輪を自分のものにしようと思った。しかし、死にゆく彼が望むことにそれは反すると思い、彼女の指輪はハルミに渡した。
彼のサイズに合わせた指輪を嵌めた時、奇妙な感覚に包まれた。
俯いて指を見つめるハルミに彼女の姿が重なる。
淡い色の彼女は微笑みながら顔をあげ、音のない声で「ありがとう」と云った。
慥かに云ったのだ。
ぼくに、ぼくの目を見て、慥かに云ったのだ。
+
就職をして新入社員研修担当に、川上麻衣子と謂うひとが就いた。見た目も雰囲気も好みではなかったが、どこか憎めない。不用意にこちらへ踏み込んでこない感じは好感が持てた。
とても気さくなひとで、ざっくばらんと謂う感じだが、無遠慮な言動はしない。ちゃんと気配りが出来るひとなのだろう。よく観察してみると、周囲にうまく馴染めず、ぎこちないところもあるようだった。
ひょんなことから個人的にもつきあうことになり、接する毎にハルミの母親を思い出した。いつも笑って可笑しなことを云い、それを自分で気づいておらず、そこが可愛らしくて堪らなかった。その面影が、そこにある。
ハルミのお母さんも体が弱く病に臥せりがちなのに、性格的にはとても明るく、他愛のないことでけらけら笑い、巫山戯てばかりいた。物事を愉しむことに貪慾で、それで命が削られても構わないといった風情であった。
見た目は彼女とはまるで違う。しかし、雰囲気が、仕草が、やることなすこと、すべてがあのひとの面影を忍ばせる。思い出よりも鮮明に。このひとはもしかしたら、彼女の生まれ変わりかも知れない、と思ったりもした。それにしては美のレベルが違い過ぎるのだが。
職場の環境で、という以上に彼女とは親しくなった。何故かハルミの方が彼女と親密になってしまい、密かにやっかむことが多々ある。
子供の頃から感じていたが、ハルミのように傍若無人な人間が普通に受け入られる理由がよく判らない。にこやかなだけで言動は支離滅裂に近いのだ。しかも彼はひと嫌いである。心を許したひとにしか交流を認めない。
その彼が、彼女に心を開いた。
彼女もハルミを好しと認めた。
それを妬むぼくは、とても醜い存在だ。
ハルミは彼女に浮ついたことを話し掛ける。
ハルミは彼女に意味ありげなことを語る。
ハルミは彼女に優しげな言葉を投げ掛ける。
何を云っているのだ。
何をしているのだ。
おまえが云うことか。
蔑む自分が疎ましい。
そうではないのだ。彼女は彼女に似ていて、暴走する感情を制御するのにかなりの精力を傾けねばならない。
ぼくは過去の思いに囚われ過ぎて、雁字搦めになっている。
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