秋の夜、黒い帽子を買いに走る
瞬間、世界が静止した。
瞬間、心臓が早鐘を打つ。
目が合った、と思う。
気のせいかもしれない。いや、きっと気のせい。それでも、私は確かに彼(彼女)の姿を見た。その艶めきを見て、私は思わず積年の思いが詰まったような声をあげてしまったのだから。
悪いことをしてしまった。だって、彼(彼女)はいつだって臆病だ。だからずっと姿を現さなかったのに。驚かせてしまった。証拠に、彼(彼女)はとても怯えた様に姿を隠してしまった。私はこんなにも彼(彼女)に出会って興奮しているというのに、彼(彼女)にとって私は死神のように見えていたのだろう。
私は彼(彼女)に会いたくてしょうがなかった。同時に、会いたくなくてしょうがなかった。私たちの世界は決して交わってはいけないのだ。戦争。強い思いは戦争になると誰が言ったのだろう。出会ってしまえば、世界が交わってしまえば、こうなることは目に見えていたのだ。こうと決まれば私は死神らしく、徹底抗戦の体制を敷こうではないか。
さあ、戦争をしよう。
以上『自宅でついにゴキブリを見た女の日記』より
ええ、ついに出てしまいました。今の家に越してから二年。ついに奴を見てしまいました。ぬらぬらと滑ったように下品に光る、黒い奴を。触覚を蛇の舌のように、チロチロと動かす様を。
今夏、奴らの足音は聞こえていました。幼体の死体を目にしたり、卵鞘のようなものを目にしたり。それでも、幼体は死体だったし、卵鞘のようなものも普通のものに比べてすごく小さくて、奴らのものではないと思っていました。いっそのこと一度姿を見ればはっきりするのに、と思いつつも絶対に出て欲しくないと思っていた矢先、シンクの下の配管と床の間に入っていく奴を目撃。私は鈴虫の鳴く秋の夜の暗い中、ブラックキャップを買いに走りました。黒いアイツが、鈴虫であればよかったのに。鳴けよ。りんりんと。鳴けってば。
本当は配管と床の隙間を埋めれば良いのですが、なかなかそう簡単にいきません。何で埋めるかとか、どうやって埋めるかとか、業者に頼むかとか。いろいろと考えなくてはいけないことが多く、それまで奴を野放しにするわけにはいきません。私は帰宅してすぐにブラックキャップをキッチン回りと洗濯機の下、冷蔵庫の後ろに設置しました。ついでに、袋の口が空いていた米を廃棄し、新しいものを購入しました。米を捨てて米を買う。ほんと馬鹿か。
死について普段から常に考えている私ですから、見つけられただけで殺される虫について思うことが無くはありません。人間と虫の命って違うものなんだろうか。人間の命だって、虫と同じで、人間よりも強いものに見つかったら、ぷちっと潰されてしまうものに変わりないんじゃないかと思います。それはそれとして、人間が人間を踏みにじることはあってはならないししたくもないし、そもそも法律が許しませんが。そして衛生害虫であり不快害虫である奴らをそのままにしておけば食中毒や伝染病の危険性があるので駆除しないわけにもいきませんが。そのままにしておいた例として、私は祖父母の家を追憶します。祖父母の家は日本でも温暖な地域で、奴らが生息しやすい上、祖母が片付けを一切できない人だったので、祖父母の家は奴らの繁殖地と化していました。一日で最高何匹見たと思います? もう10年近く訪ねていないので細かいことは覚えていませんが、2,3匹ではないことは確かです。帰省の度に見なかった年はありませんとも。
つまるところ、現状からの戦線の後退は許されません。キッチン一匹で済んでる今のうちに駆除しなければいけません。一匹いれば三十匹いると思えと言いますが、今はまだ初期段階にあるのは間違いないのですから。さて、私の武器はブラックキャップ。アース製薬の製品はどんな生物兵器にも劣らぬと信じています。頼む、頼むから効いてくれ。