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不機嫌の性質と効用について

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の中で主人公ウェルテルが書簡に書いたことである。途中、ウェルテルが不機嫌について語っている箇所があり、興味深かったので、取り上げることにした。この記事では、若く繊細な心を持つウェルテルの不機嫌について鋭い考えを知ることができ、読者はこれについて実生活や将来に照らし合わせながら深く考察する機会を与えられるであろう。

不機嫌は自分でなんとかできるのか

ある日、ウェルテルが彼の想いを寄せるロッテ嬢、シュミットという名の男、そしてその愛人と思われるフリーデリーケと散歩をしていた時のことである。散歩中、ウェルテルがフリーデリーケと親しく話をしていると、シュミットの顔が目に見えて曇ってしまい明らかに不機嫌な雰囲気を醸し出していたのである。

この時ウェルテルが感じたことを書簡に綴った文章を引用する。

「人間が互いに苦しめ合うくらい、馬鹿げたことはないんだ。ことに若い人たちがいっさいのよろこびに対して最も開放的でありうる人生の春にさ、せっかくの日を2日なり3日なりしかめ面をして台無しにし合う、そうしてずっと後になって初めてああバカなことをしたと悔やむなんて実に愚劣極まりない。」

散歩から帰ってきて、夕食の場でウェルテルは腹に抱えていたことを口に出した。

「われわれ人間はいい日が少なくって悪い日が多いとこぼすが、僕が思うにそれはたいてい間違っている。もしわれわれがいつも、神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていられたなら、たといいやなことがあっても、それに堪えるだけの力を持つことができるだろう

これに対してある登場人物がこう返すのである。自分の心の持ちようは自分の力ではどうすることもできないし、体の調子が悪ければ何事に対しても不機嫌になってしまうではないかと。

これに対し、ロッテ嬢が返答する。万事は自分自身の心がけ次第であり、ロッテ嬢自身それを感じていると。彼女はむしゃくしゃして機嫌が悪くなりそうなときは席を立ち庭へ出て、あちこち歩きながら対舞曲を歌うと、気持ちがすぐ良くなるのだと。

これを援用するようにウェルテルがこう語る。

「『それなんですよ、ぼくのいいたかったことは。不機嫌というやつは怠惰と全く同じものだ。つまり一種の怠惰なんですから。ぼくたちはそもそもそれに傾きやすいんだけれど、もしいったん自分を振い起す力を持ちさえすれば、仕事は実に楽々とはかどるし、活動している方が本当に楽しくなってくるものです』」

するとシュミットは自分で自分が自由になるものじゃない、感情というものはそのように支配できるものではないと反論した。

これに対し、ウェルテルはこう答えた。

「『つまり問題は不快な感情でしょう、こいつは誰にしたってありがたくない。それに自分の力は、それを試してみるまではそれほどあるものか、誰にもわかりはしませんよ。だって、そうでしょう、病気になると、方々のお医者のところをかけずりまわる、そうしてなんとでもして丈夫になろうと思って、どんなに苦しい節制でも、どんなに苦い薬でもいやがるということはない』」

なぜ不機嫌が害悪なのか

同じ食卓である青年が、ウェルテルが不機嫌は悪徳であるということについて言い過ぎではないのかと指摘をした。これに対してウェルテルはこう返答する。

「『どういたしまして。自分をもはたの人をも傷つけるものが、どうして悪徳じゃないでしょうか。お互いに仕合せにすることができないだけでももうたくさんなのに、めいめいが時にはまだ自分から自分に与えることのできる楽しみまでも、その上なお奪い合おうというのですか。不機嫌でいてですね、しかも周りの人たちの喜びを傷つけないようにそれを自分の胸だけに隠しておおせるような、それほど見上げた心がけの人がいるんなら、おっしゃってみてくださいませんか。むしろこの不機嫌というものは、われわれ自身にたいする不満じゃないんですか。また一方、この不満はいつもばかげた虚栄心にけしかけられる嫉妬心と一緒になっているんですよ。仕合せな人間がいる、しかもぼくらが仕合せにしてやったんじゃない、さてそういう場合に我慢ならなくなってくる、そういうわけじゃありませんか』」

「『ひとの心を左右する自分の力を頼りにしてですね、ひとの内心から湧き上がって来る素朴な喜びを奪ってしまうなんていう人間は許しがたい。この世のどんな贈り物も、どんな親切も、今言ったように暴君によってやきもちまじりの不機嫌のために、ダメにされてしまった楽しい自己満足の一瞬間を償うようなことはできないのです』」と続けた。

終わりに

「若きウェルテルの悩み」のほんの小さな箇所を取り上げましたが、筆者自身ハッとさせられるものがあったので読者の皆さんとも共有したいなぁと思いました。「神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていられたなら」という言葉には筆者自身自分のことを見つめ直さなければなぁと感じました。また不機嫌が悪徳なのかという議論においては、不機嫌な状態は自分だけでなく他人にも悪影響を及ぼしうるということで、なるほどと思うことがあり、これは夏目漱石の「私の個人主義」の中で示されている考えに通じるものでもあり、同じような話は多くの偉人の本でも垣間見ることができます。

参考:ゲーテ 高橋義孝訳(1951)『若きウェルテルの悩み』新潮文庫。

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