見出し画像

人生を変えるには、「師匠」と「戦友」が必要だ!ワンピース・ルフィとコビーに学ぶ本気の命の燃やし方

人生を変えてくれるような「師匠」がほしいな〜と、よく耳にします。

そして、人生をキラキラさせるような「友情」がほしいよ〜とも、よく聞きます。

この「師匠」と「親友」!

どちらも現代では失われつつある遺産ですが、ぶっちゃけあったら人生超たのしそう。その二大巨頭。

そしてこの2つは、実はバラバラに存在するのではなく「ワンセット」な関係なのだろうと思うのです!


だから、「師匠」を探していると「親友」もついてくる。

逆に、「親友」を探していると「師匠」もついてくる。

そういうニコイチな関係になっているのではないかと思うのです。

このことを今日はお伝えしてみたいと思います。

そして!そうしてできた「親友」のことは、「戦友」と呼びます!

人生を「共に戦う仲間」です。

生きるのに必要なのは、本気です!

本気とは燃えることです!

そしてそのために不可欠なのが、「師匠」と「戦友」のニコイチな関係なんです!

ちょっと長くなりますが、人生を変える「師匠」と「戦友」のお話です。



「学生が終わるとなかなか親友ができないよね〜」って、よく聞く話ですよね。

社会人になり、大人になってから出会った人とは、なぜか学生のころほど親密にはなりづらいと感じている人は多いのではないでしょうか?

会社の同僚でもいいし、なにか習い事の仲間やサークル活動でもいい。

ある程度は仲良くなれても、なにか目に見えない薄い膜があるような。

薄皮一枚、はられているような。

そんな絶妙な距離が保たれてしまうのはなんでだろう?と、感じたことはないでしょうか?


逆に、学生の頃はどうして親友ができやすかったのでしょうか?

理由はいくつかあると思うんです。

たとえば、学校は年中通して「イベント」の連続です。

体育祭でも文化祭でも、合唱コンクールでも卒業式でも。

一緒になにかを作り上げる経験によって、仲が深まる。

そんなきっかけが、学生の生活にはたくさんあります!


大人になると、なかなかこうした「一緒にやってる感」「トゥギャザー感覚」ってのが感じられないのかもしれませんね。

じつは毎日、同じ職場で「一緒に」仕事はしているのに、ふしぎです。



あと、もうひとつ!

学生のころは、「選択肢が少ない!」というのも言えるかと思います。


とくに小・中の義務教育期間は、もう学校しかいくところがありませんからね。

「登校or不登校」というのは、かなり不自由な状態です。

大人には「出社or休み」の他に「転職」というカードが常にありますが、子供には「転校」の自由はほぼないような空気がまだまだあります。

しかし、この不自由で縛られた生活が、逆説的に「仲の良さ」を生み出しているのだと思うのです。

こうした環境は不登校児や、家庭と学校以外に逃げ場所がない、などの問題を引き起こす原因にもなりますが、

「仲の良さ」においては一役買っているポシティブな側面は見逃せません。


「結局、自分はここで生きていくしかないんだ」

と、クラスメイトの誰もが多かれ少なかれ、心の中では思っています。

それがいい方向へ転ずれば、学校という時間と空間を、「自分の居場所」として大切にしようとするはずです。


この「居場所作ろうぜ!」のパワーが教室の外にまで波及していった結果、日本全国に小学生による無数の秘密基地ができあがるのだと思います。

秘密基地は全少年少女のロマン!!

在学中に成し遂げるこの支配からの卒業!!

そこに無限の創造性があります。駄菓子屋のクリエイティビティです!


たとえば僕は、学校という場所はいつも嫌いな場所でした。

理由はたくさんありますが、とにかく授業は退屈だし、何時間も座っているのは苦痛だし、窓の外には面白いものがたくさんありそうだし、なにか理由を見つけて抜け出せないかな〜?といつも悶々としていました。

でもそんなぼくでも、給食の時間はたのしかったのを覚えています。

給食がおいしかったからではありません。

仲のいい友達と、机を並べて「はしゃいでいい時間」だったからです。


自分の好きなやつと、好きな話題をひたすらしゃべって、向いに座っている女子を笑わせたり、給食のアイテムを交換しあったりするという、大人になってみればなんてことない行為がとにかく楽しかった。

だから席替えは死活問題でしたね。

できれば相性のいいやつに囲まれていたかった。

だって自分には「この教室しか居ていい場所がない」んだから。

相性のいいやつと近くにいれると、それだけで楽しい気持ちになれました。


でももしも、あのときに「ランチはそれぞれ好きなお店にいって食べていいよ」と言われていたら、もしかしたら仲良くならなかった友達がたくさんいたかもな〜とも思います。

やっぱり、「オレたちにはこの教室しか行き場がない!」「だからこの時間を面白くする以外に楽しさはやってこない!」という、ある種の背水の陣。

その不自由こそが、スパイスです。

それがお互いに「この時間を盛り上げるぞ!」という気合いになっていたのは、間違いないだろうと思います。

その「この場所でやっていこう!」という暗黙の同意がじつはそれぞれの中にあって、それが結束を生み、なぞのエネルギーを生んでいたんだと思うんです。

よそ見を減らせば減らすほど、集中力は高まりますから。

背水の陣は、人の命を圧縮して輝かすのです。


だから、あの給食の時間を一緒に盛り上げようとしていた友達とは、二十歳すぎても仲が良かったし、大人になって離れていても、どこか「大切な存在」として記憶されています。

「あの不自由を、一緒に生き抜いた同志」

という感じが、ずっと残っているんです。


しかし、大人になってからの生活では、こういった「親友」とよべる存在。

体の深いところで安堵感とともにつながっている「誰か」というのが、なかなか得られなくなる。

そんな経験が、誰にでもあるのではないかと思うのです。


それは、仕方のないことなのでしょうか?

大人になるとは、そういうことなのでしょうか?


僕は「違う」と、ハッキリと思います。

大人になっても、「深い仲」になることはできます。


しかしそのためには、学生時代とは違った形で、自分自身を追い込む必要があるのだと思うのです。

大人になってからできる「親友」は、自らを追い込んだもの同士としてでしか出会えない。

そんな法則があるのだと、僕はいま実感しています。


学生時代の「不自由」さ。

そこにヒントを見出しています。


そうなんです。

大人になると、誰もが手に入れられてしまう「自由」

この「自由」こそが、「深い関係性づくり」のストッパーになってしまっているように感じます!

だから、大人が人生において大切な誰かを得ようと思ったら、意図的に「自由」を捨てていって、「不自由」に自分を縛りあげる!

という、ある種の逆説的な選択が必要なんです。

その選択を、「自由」のもとに自ら率先して行うのです!

背水の陣に、自分自身を追い込んでいくんです。


選択的「不自由」のススメ。

古くは仏教の言葉で「縛解一如(ばっかいちにょ)」として伝えられている教えです。

「しばる不自由」と「ほどく自由」は、表裏一体であることを知っていた先人たちの叡智です。

自らを縛ることで、あえて「自由」を捨てていった先に、真に「自由」を感じられる景色がある。

このことを、なんとしてでも伝えたい。


こうしてできる「かけがえのない友」のことを「戦友」と呼ぶのだと、ぼくは師匠から教わりました。


令和のいま、大人の男女がほしいのは「お友だち」じゃない!

鬼滅の刃の鬼殺隊のような、「行き場のなさに同行してくれる戦友だ!」と。


思い返してみれば、学生時代の「親友」って、みんな「戦友」だったと言えませんか?

つまり、辛い時期や苦しい時期を、ともにくぐり抜けた仲間です。

それは部活の練習の日々だったかもしれないし、プレッシャーのかかる行事だったかもしれません。

「ここしか行く場所がない!」という学校において、さらに「これをやらないと立場がなくなる!」と自分を追い込んだ結果、同じような苦境に立たされているもの同士ではげましあったり、助けあったり、存在そのものに勇気づけられたり。

そのときは無我夢中で走っているので気がつきませんが、振り返ってみるとキラキラと輝く思い出がそこにはあるのです。

そんな体験が、関係性にたまっていった結果、その人はあなたの「戦友」になるのです。

「戦友」っていうのはキラキラしてるもんです。


だから、大人になっても「戦友」はできます。

そしてそのためには、「自分自身が追い込まれていること」がカギなんです。

安心安定・生涯保証を求めるような人生態度には、「お友だち」はできても「戦友」はできません。

キラキラした信頼感ってのが生まれませんから。

そこには「苦楽を共にすること」が、どうしたって必要なのです。

「あ、こいつ信頼できるな!」ってのは、頭で考えるものじゃない。

本能的に、直感でピーン!と感じてしまうものですよね。


だからたとえば、毎日同じオフィスで仕事をしていても、そこにいる人が

「あ〜どっか転職先さがそうかな〜」

とか

「あ〜早く帰ってモンハンやりて〜」

とか

「自分のキャリアアップのために誰よりも早く実績をあげてやる!」

なんて思っていると、その職場では戦友は生まれないでしょう。

「苦楽を共にする」気がありませんから。


やっぱり「なにがなんでもこれに賭ける!」「これがなきゃ自分の人生はないのと一緒!」という態度じゃないと、戦いは燃えてきませんよね。

人生は命をかけた戦いの連続。

命は燃やしてこそキラキラ輝くんだと思うんです。


でも、じゃあその「なにがなんでも!」って、どうやったら見つかるんでしょうか?って話ですよね。

だってそうですよね?

それがないから、大人になると安心安定が欲しくなるわけじゃないですか。


この問題は、「ワンピース」に置き換えてみるとわかりやすいかもしれません!


ルフィが「海賊王に俺はなる!」と言えるのは、その「なにがなんでも!」がルフィの中にあるからですよね。

でも、ほとんどの人はルフィにはなれない。

なぜかといえば、「なにがなんでも!」をたった一人で貫く力がないからです。


ルフィは素敵だけど、やっぱりあんなキャラクターは人類全体をみてもごく少数なんであって、大多数はおそらく「ウソップ」や「コビー」だと思うんです。

これは、ぼく自身を振り返ってみてもそうです。


ほとんどの人は、世間になんと言われようと自力でそれを貫いてしまうような「なにがなんでも!」の軸を、持って生まれてきていません。

だから、ルフィのようにいきなり冒険に出発できない。

だけど!だけどですよ!

じつはルフィほどはっきりはしていないけど、誰もが「実はこれだけは捨てたくない!」というものを持っているんだと思います。

でもそれを、いろんな親からのリアクションとか、友達や先生、または会社やネットの反応など、さまざまな自分を取り囲む人生環境の中で「ないこと」にして、こっそりどこかにしまっているんです。

いや、むしろ土に埋めてしまっているかもしれません。

要は、「なかったことにして忘れようとしていること」ってのが、大なり小なり誰の中にもあるはずなんです。

それを見つけること。

つまり思い出すことが、大人になってからできるかどうか?

これがめっちゃカギなんです!

そのことをぼくは師匠からよ〜く教わりました。


そして実際、悲しいかな、「ないことにして忘れたフリ」を長いこと続けていると、いつのまにか本当に「忘れたくなかったことを忘れてしまう」ようになります。

この、ある種の「記憶喪失」が、多くの人にリアルに起こっているように感じます。

そういう人は、月曜日、火曜日、水曜日と……

電車に乗って職場に行くことに、自分の腹の底から納得してコミットできません。

僕にも経験があるんです。

なぜ自分が今これをやっているのか?

それを、生まれてからいずれ死ぬまでの人生ストーリーとして語れなくなってしまうんですね。

こうなると、人生は苦しい。

なんだかむなしさを抱えたまま、時間がすぎていきます。

なんだかソワソワして落ち着かなかったり、これをやっていていいんだろうか?という迷いがむくむく湧いてきます。

不安や考えごとが止められなくて、深い息ができません。

そういう気持ちは、ビジネスで大金を稼いでも、お寺で座禅組んでも、滝に打たれてみても、占いにハマってみても、マイホームを手にれてみても、100万フォロワー達成しても、じつは満たされないでずっと追いかけてくるものだと思うんです。

自分自身の生き方や働き方に、納得がいってないんですね。

燃えていない自分自身を、どこかで知っているのです。


それが、ワンピースでいうところの「コビー」の姿でした。

ルフィに出会った頃のコビーは、女海賊アルミダの船でこき使われていた。

「自分なんてこんなもんですよ」

「仕方ないじゃないですか」

「ぼくは弱いんですよ、勝てるわけないですよ」

そんな言い訳を繰り返す、弱気に満ちていました。


しかし、アルミダ相手に一歩もひかないルフィを見て、ずっと「ないこと」にしていた自分の「これだけは捨てたくない」気持ちを、唐突に思い出すのです。

そして、勇気をふりしぼってこう叫びます。


「おれは、海軍大将になる男です!!!!!」



このとき、歴史が動きました。

マジです。

コビーの歴史は、この時に変わったんです。

女海賊にこき使われて、やりたくもない仕事をやって、好きでもない上司を担ぎつづける人生が、ここで終わったんです。

そして始まりました。

「海軍大将になる」という、無謀とも言える挑戦のストーリーが。


このとき、コビーはすべてを失いました。

家も仕事も同僚も上司も。

しかし、ひとつだけ手に入れたものがあります。

それは「戦友としてのルフィ」です。

それこそが、なににも変えがたい人生の財宝だったのです。

お腹が震えてきませんか?

めっちゃ怖いけど、なんかブルブル、躍動してくるものがありますよね。


コビーのストーリーはあくまで漫画ではありますが、実人生を生きるぼくらも多くを学べると思うのです。

実は、この「戦友」という財宝を手に入れるためには、足りないものなど何ひとつありません。

ただ「覚悟」をすればいいだけ。

腹の底からのコミット。

それにより、目の前の偽りの関係性を失うことにすら同意すること。

それだけでいいのです。

お金もスキルも、ほんとうは必要ありません。

ただ、勇気だけがあればいいのです。

そしてその勇気のカケラは、誰もが生まれながらに必要な分はもらっているはずなのです。

つまり、自分の運命を切り開く力は、過不足なくすでに与えられギフトされていると。


それを、コビーのようにいきなり「海軍大将に!!!」なんて言えなくてもいい。

日常のなかでちょっとづつ、でも確実に明晰に整理して、見出していくことはできます。

たとえば明治の幕末の志士達のことなんかを学ぶと、そのために実にさまざまな学問を修めていたことが分かります。

社会は複雑ですし、常に動き続けています。

また、自分自身というものも複雑で、変化しつづける生き物です。

一朝一夕では、それらの中でのバランスを見出すことはできません。

なので、社会の複雑さと、自分自身の複雑さ。

それらを丁寧に学びながら、一歩づつ結びつけていく学習というのが、どうしたって必要です。

「これっきゃない!!!」を見つけることは、それ以外の選択肢をバッサリと切り捨てることですから。


それを続けていくと、やがて自分にはこれしかない!の「背水の陣」の覚悟がお腹の底に宿るのだと思います。

「決断」というのは、自分や社会について学べば学ぶほど、その精度が高まります。

必要なものと、そうじゃないものとの取捨選択が、できるようになります。

そうしていって、やがて「そうか!自分の人生はこのためにあったのか!」という一本の軸を見出すことを、「志を立てる」と言ったわけです。


論語で有名な孔子も「30にして立つ」なんて言ってますし。

やっぱり30歳くらいまでいろんな勉強をして、世間で働いたり恋したり様々な経験を積んでいって、自分の道がはっきりしてくるというのは、現代にも言えることなんじゃないかと思います。


ちょっと話を戻しましょう。

それでですよ!

「コビー」の話から僕らが学ぶべきことで、見落としがちなことが一個あります。

でも、それこそがミラクルに大事だったりするんです!


それは……


ルフィに会わなきゃコビーは一生あのままだった!


ということです!

コビーに火がついたのは、あくまでルフィのおかげなんです。

ルフィの火が、コビーに飛び火したんですよ。

つまり、ルフィの背水の陣に、コビーも影響されて、伝染して、開花したんです。

このプロセスが、めちゃくちゃ大事です!


だって、ぼくらのほとんどは「コビー」なんですから。

自分で火をつけられないんです。

火をもらわないといけないんですよ!


ということは、

「これっきゃない!!」「なにがなんでも!!」を燃やし続けるルフィ的な人物に出会えるかどうか?

それこそが運命の分かれ道だと言えそうじゃないですか?


火をつけてくれる、すでにめっちゃ燃えてる人に、

会えれば勝ち!会えなきゃ負け!

一度、それくらい人生をシンプルに捉えてみるのはアリだと思います。


これは誰でも経験がありますよね。

盛り上がってる人のそばに行くと、なんか自分もやる気になってきちゃうし。

お祭りなんかにいくと、その場の活気をもらってウキウキしてきちゃうもんですから。

人間はやっぱり、周囲の影響によって、上がったり下がったりするもんなんですよ。


だからまず、自分が「コビー」であることを自覚したら、燃えている人を探して火をもらいましょう!

この燃えている人のことを「師匠」と呼びます!


「師匠」っていい日本語ですよね。

ヨーロッパとかだと、ギルドの「マスター」と呼ばれる存在。

つまり、その道の「達人」のことです。

達人は、その道において「背水の陣」でずっと燃えてきたから、マスター=師匠になっているんです!

そういう人から、火をもらうのが、人生の大事なポイントになります!


ただし、「師匠」を見つけても、その師匠とまったく同じ人生を歩むわけじゃないというのもポイントですよね。

江戸時代とか前近代の「師弟制度」だったら、弟子は師匠のようになることが正解だったでしょう。

畳職人には受け継がれてきた技があり、歌舞伎役者には守られてきた芸の道がありました。


しかし、現代の「師匠探し」は、そういった技術を学ぶこと=スキルセットの習得の他に、

「そもそも自分は、人生どうなれば納得して死ねるんだ?」

を見つけるお手伝いをしてくれる師匠を探す!

という視点が、大事だと思うんです。


だって、今は江戸時代や中世ヨーロッパではありませんから。

世の中、動きまくってます。

いろんな発明が日進月歩です。

総理大臣も大統領も、大企業の社長さんも、近所のチェーン店も、数ヶ月単位でぐるぐる変わってゆきます。


その中で、人生の足場となる「教え」や「習慣」を躾(しつ)けてくれる師匠がいると、こころづよいものです。

さらに、自分の人生の目的を定めるお手伝いまでしてくれるとサイコーです。

師匠の炎をもらいつつ、自分の道を見出していくんです。

そういう「師匠」ライフの復活に、明るい未来の到来をマジ予感しています!


こうして「師匠」が見つかると、ようやくそこで「背水の陣」のスイッチが押せるようになります!

そう、「コビー」の覚醒です!


ルフィ(師匠)と出会う→火をもらう→自分の「これだけは!」がハッキリする→その他の選択肢を捨てる勇気をもつ→「海軍大将になる!!」と宣言する→昨日とは違う人生スタート!!

この順番を忘れずに!


ルフィである師匠の火をもらったあなたは、ついに自らの「忘れられない!これだけはどうしてもあきらめられない!」を思い出し、勇気を出してコミットすることを選択しだすのです。

そしてそのとき、あなたには「戦友」との出会いが待っています。


まずは、目の前の師匠が最初の「戦友」となるでしょう。

次に、同じ師匠から学ぶ仲間も、同様に「戦友」となるはずです。


なので結論は、


「師匠」と「戦友」はワンセットなんじゃないか!?



これが書きたかったー!


そう、つまりそういうことです。

「師匠」と「戦友」って、現代のとくにZ世代とよばれる子たちにおいては、潜在的に求めてる子が多いと思うんです。

頼れる社会のレールが失われて、部活もサークルも制限されている世代ですから、縦のつながりも横のつながりも失われつつある。

これは民族レベルの重大な危機です。

モデルケースがなければ学習は停止しますし、なんとなくの算段で太刀打ちできる時代ではすでにありません。

守られている安心感と、チャレンジしていい承認があってはじめて、人は自らの課題に果敢にトライし、弱さすら克服して成長することができるのです。

そのすべての基盤が、ほとんど崩れ去りつつあるように感じます。

そんな時代に、できることはなにか?

自らに問いかけずにはいられません。


不安定な時代では、現状維持はジリ貧です。

しかし、どう動けばいいのか?は、教えてもらってはじめて分かるもの。

たくさん失敗し、傷つき、痛みから学んでふたたび立ち上がれる環境こそ、人には必要です。

親身に面倒を見てくれる「師匠」と、切磋琢磨できる「戦友」がいるかいないか?は、これからつづく数十年の人生の行先を大きく左右してしまうでしょう。

そのためのきっかけをつくることは、とても有意義だと感じます。


なぜなら、「師匠」と「戦友」って、バラバラには手に入らないんです。

2つ同時にいかないと、関係性は手に入らない!

ワンセットで生まれる関係性だからです。


師匠は縦ラインの関係性。

戦友は横ラインの関係性。

そして、縦ラインができると、おのずらか横ラインも現れるし、逆もしかりです。

このクロスしたラインが出来上がってはじめて、人生はたのしく燃えられる状態を取りもどすのではないかと思うのです!

チャリンコを爆走させ秘密基地をつくるような勢いの復活です。


「師匠」がいて、「戦友」に囲まれる生活。

結局、それが一番ほしいんじゃないの?と、とくに下の世代には伝えたいし、背中で見せたい。

ひとりの大人として負いたい責任です。

これを令和に復活させないことには、人間が健康的に生きられる未来なんてやってこないんじゃないかと、ぼくらはもっとヒリヒリしていい世代でしょう。

昭和・平成の失敗を、令和世代に引き継がせるべきではありません。

明晰な切り捨てと更新の意識を、大人として持っていたいと僕は思います。

そのためにも、師匠からまだまだ学びたいと思っています。

そう感じている今日この頃でした。


つづくぅ!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?