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人間は「文化=culture」を「耕す=cultivate」して文明をつくる生き物だ。

「人間の価値」とはなんだろう?

「わたしの人生に意味はあるんだろうか?」という問いは、「人間が生きることに意味はあるんだろうか?」という問いの上にあると思う。

人間はなぜ生きるのか?

見るからに難問だが、あえてシンプルな答えを出してみたい。

それは「文明をつくるため」だ。


人間の価値とは何か?

それは「文明をつくる唯一の生き物である」という点に収束する。

人間には価値がある。

なぜなら文明を創るからだ。

そして文明とは、「文化」を「耕す」ことにより、より良きものになっていくのだと思う。


「文化=culture」の語源は、「耕す」のラテン語「colere」に由来するらしい。

同じく「colere」から派生した言葉には、「cultivate(耕す)」「agriculture(農業)」などがある。

なぜ「耕す=colere」が、「文化=culture」という意味に派生していったのか?

それは、文化に「心を耕す」という側面があるからだと言われている。


ホモ・サピエンスが数万年におよぶ狩猟採集の生活をやめてから数千年。

現在の文明社会は、「農耕」社会の発展型である。

「農耕」とは、自然の生産量を一定量に保つ技術のことだろう。

そのおかげで資本の蓄積が起こり、都市が生まれ、戦争が生まれ、国家が生まれ、ロケットが生まれ、インターネットが生まれた。

もし人類が農耕をはじめなければ、目の前の文明はまったく別の姿になっていたことだろう。

「農耕」、つまり「耕す=cultivate」という行為は、文明のはじまりに位置する技術だ。


おなじく「文化=culture」も、「文明」の土台にあるものだと言えるだろう。

そもそも、「文化」と「文明」の境目があるのか?ないのか?その定義はあいまいなものだ。

辞書を引くと、「文化=精神的なもの」「文明=物質的なもの」という定義がみれる。

しかし、よい「精神」とは、よい「物質」がなければ育たないだろうし、逆もまたしかりだろう。

「精神」と「物質」は、本来的に分けられるものではない。

だとするなら、「文化」と「文明」も分けられるものではないだろう。


そもそも「culure」の訳語としての「文化」とは、明治期には「文明開化」の略語としても用いられていた。

また「culture」は「文学教化」という言葉にも翻訳され、「教育」や「学問」という意味を指し示すこともあったという。

「教育」や「学問」は、たしかに「文明」のはじまりになくてはならないものだろうし、「人の心を耕すもの」だろう。

そういう意味で、「文化=culture」と「耕す=cultivate」は、ともに「文明」の礎としての匂いを感じさせる。


「文化=culture」や「耕す=cultivate」

そこからはじまる「文明」。


「文明」とは何か?

それは、「人の棲む世界」だと思う。


自然というのは美しいけれど、そのままでは人は棲むことができない。

人は動物でありながら、自然そのものではない。

自然に手を加えることで、ようやくその棲み家を得る。

「文明化」とは、人が「人の棲む世界」をつくる行為だ。


そして「文化」という言葉が「文明開化」という意味も含んでいるのだとすれば、「文化」とは「人の棲む世界を耕すことなのだ」とも、理解できるのではないだろうか?


「文化」という言葉で、連想できるものはたくさんある。

あらゆる芸術、料理、言葉、技芸、さまざまなこと。

音楽、絵画、映画、文学、美容、スポーツ、料理、ファッション、会話、子育て、哲学、踊り。

色とりどりな、人の営みをひっくるめることのできる巨大な風呂敷が「文化」だ。


しかしこうした「文化」は、ことごとく食うことができない。

文化は人の胃袋を満たすことがない。

それどころか、衣服としての保温機能も、住居としての保護機能もない。

「文化」は、生命機能を維持するという観点では、なんの役にもたたない。

最低限の衣食住を用意するだけなら、「文化」などいらない。

ゆえに、動物に「文化」はない。

「文化」をもつのは、人間だけである。


「不要不急」なんて言葉が、コロナ禍では取り沙汰された。

けれど「不要不急」を避けてみて僕らがわかったのは、「不要不急」こそが人間を人間たらしめているという実感ではなかっただろうか。

「不要不急」のない、判で押したような生活では、人間は一瞬でタイムカードの奴隷と化す。

たしかに合理的に計算されたカレンダーは、社会秩序には欠かせない道具だ。

しかし、そこからどうしようもなくハミ出してしまう「不要不急」な方向にこそ、本来の人間性の発露があるのではないか。

そして「文化」とは、まさしく人間の「不要不急」な側面のことだ。


「不要不急」な「文化」のないところに、人は棲むことができない。

海の魚が、淡水に住めないのと一緒だ。

「文化」のない場所で、人間は息をすることができない。

そこに人間の営みが根付くことはないだろう。

「文明」という「人の棲む世界」には、「不要不急」な「文化」がいる。


そして「文化=culture」は、能動的に「耕す=cultivate」されなければ、枯れてしまうものでもある。

生まれながらに「安心安全便利」な「文明」に暮らす僕らは忘れている。

僕らが、「文明」をつくる主体者であるということを。

「文明社会」は、どこまでも人工的な産物だ。

だから文明の質は、そこに生きている人間の質にモロに影響を受ける。

「文明」は「耕す=cultivate」されなければならない。

それができるのは、唯一人間だけだ。

僕らは、僕らの棲む世界をみずからの手で耕していく存在なのだ。

このシンプルな自覚が、人間に活力を呼び戻す。


魚は、自分の棲む海の水のことを気にしない。

でも、それは魚が「魚」だからだ。

人間はそうじゃない。

人間は、みずからが棲む世界を、みずから創り出す生き物だ。

そこが本質的にどの動物とも異なっている点だ。

動物でも機械でもない人間は、文明を文化的に耕すことで人間たりえる生き物だ。

ぼくはそう思う。


僕らはみずから文明をつくる。

みずからの棲む世界をつくる。

生まれた世界に不満を抱き、それを改良したいという意志をもつ。

自然の中に法則を発見し、組み合わせを変え、新たな秩序の発展をアシストすることができる。

それが万物の霊長たる人間の力だ。


「文明をつくる」

やっぱりこれが、人間の根源的な欲求だ。

それがなければ動物と変わらないじゃないか。

そうでなければ機械か何かか? 冗談じゃない。

文明を創らざるして何が人間か。

日々の営みの工夫の連鎖にときめきを感じるのが人間だ。

知性を、感性を、意志を使おう。もっと!

そうして文明の肥料となって死んでゆけば、その人はもう星の英雄だ。


人の棲む世界は、人間みずから勝ち取るしかない。

それは古くは自然との戦いだった。

今では、人間が作り出した道具、システム、産業構造、仮想空間との戦いへと、様相は変わってきている。

だけど、その本質は変わらない。

「人の棲む世界」とはなにか?

それはどんな場所で、どんな匂いで、どんな色で、どんな笑い声で、どんな景色で、どんな手触りで、どんな人の営みに溢れているか?


それを決定していくために、「心を耕す文化」がいる。

文明は人の棲み家であり、文化は人を育てるものだろう。

文明人よ、今日もみずからを耕そうではないか。








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