教育
土曜の朝、この土日は何をして過ごそうかと考えながらパンをもしゃもしゃ食べていたときの話。
点いていたから見てたってくらいで、何ともなく見ていたテレビから流れてきたのは、様々な事情で義務教育を9年間受けられなかった方の話。
ちょっとうろ覚えだけど、たしか冒頭で紹介された方は漢字がほとんど読めていませんでした。【標準】「つうじょう…?」といった。彼は小学生のときに大きな病気を患い長期入院、そのまま中学校も馴染めずほぼ不登校となり、義務教育半ばのまま大人の年齢になってしまったのでした。
僕個人の感想ですが、彼は全く悪くないと思うし、学校に行きづらくなったりしたのも仕方がないのかなと思いました。全然勉強についていけないのに同じクラスで友達と勉強なんかできっこないし、もし遅れた所からやるって決めたとしても、かなりの根気が必要だし、教育側の支援も必須、それに当人のプライドだって傷つくことでしょう(これは当人のパーソナリティ次第ですが…)。
前置きはこのくらいにして、ここで事案発生。
まぁ朝なので家族と一緒にその番組を見てたわけなんですが、ある男が一言。
「今どき教材なんかインターネットにいくらでもあるんだから自分でやればいいのにな。」
それは僕を含めて兄弟を育ててきたと思しき男の言葉でした。正直、人を育てる人の言葉ではないなと思いました。この状況の人間の現実を見て、自力でやれとはなんと残酷かと…。
個人的に僕は、人は独りじゃ大きく変わることはできないと思っています。そもそも人だけじゃなく、この世のあらゆるものが、“そのもの”以外のものとの関係性の中で変化すると考えています。まぁこの世のあらゆるものは否応なく他のあらゆるものと関係を持つことを余儀なくされるので、当然のことといえば当然なんですが…。ただ、それらすべてが常に恣意的に行われているものではないからこそ、それを恣意的に行うのが教育じゃないかなって思うんです。自然にしてほっとけばなるようになる変化を、「このようにあれ!」と思いながら施すのが教育だろうと思うわけです。
このとき、恣意的に変化を促す、すなわち教育を行う側は、変化していくもの、教育を受ける側に寄り添っていることが必要だと思います。意図しない方向、意味のない方向に行かないように。
そうすると、じゃあ教育側は受ける側に永遠にすべてを捧げ続けないといけないかというと、それはまた違います。教育側は変化そのものだけでなく、この先己だけで変化していける能力もまた育てるべきだと思うからです。ただこの能力の獲得は受ける側の意志(やる気)が重要で、教育側が尽くすだけでは難しいことがありそうです。
…長いし難しくなった。
要するに、あの発言に僕は、現実的な変化の過程を無視したとてつもない無責任さを感じずにはいられなかった、という話です。
僕には高1の弟がいます。幸いにも病気とか不登校ではなく、学校にしっかり通うことができ、義務教育を終え、高等教育へと足を踏み入れていったわけですが、どうやら彼は、変化の施しを得なければ自分を変えられない段階で立ち止まっているようです。
ただ例の発言の主はそれを分かろうとしませんでした。高校生になれば勝手に自分で変わるようになるんだそうです。もしそれに気づかずに変わらないなら終わりなんだそうです。ふーん。
自分の子どもってそんな簡単に終わりにさせちゃっていいんですかね…?仕方のないことなのかしら…?めんどくさいので面と向かって真っ向から全否定なんかしませんでしたが、ちょうどそれを聞いたくらいから、疑念と哀しみが僕の中に渦巻き始めました。そうして育てられてきたのかと…僕はある意味運がよかったんだなと…。
実際に子を持ったり生徒を持ったりしたわけではないので教育については口先ばかりの小僧でしかない僕ですが、せめて自分が関わる未来ある人に対しては、無責任ではいたくないなと思う今日この頃です…。