「教える」ことを考える
今日もお疲れ様です。あひるです。
今日は時間給を取り、午後は私的な事務仕事を片付けていました。
手続だの投票だのを終えて帰路につくと、ちょうど小学生たちが下校する時間で、小さい人たちがめいめいにはしゃぎながら歩いているのをたくさん見かけました。最近こんな時間に外にいることがなかったので、新鮮な気持ちと懐かしい気持ちで、ほほえましく眺めていました。
そんな小学生たちを見ていたのは自分だけではなかったようで、自転車に乗った老齢の女性が、彼らに優しく声を掛けていました。
「おかえり。」
なんと心遣いにあふれた声掛けなんでしょう。これが田舎の良さといえるものかもしれません。
しかし、その後の展開に自分は愕然としました。
小さい人たちは、なんの挨拶も返さず、走り去っていったのです。
自分は真っ先に、これが教育の敗北か…と思いました。
これだけ科学技術が進歩して、単純なことはすべてコンピュータやAIがやってくれる時代となり、これまで以上に人間が人間として他者とコミュニケーションを取っていくことが必要とされる局面にあるというのに、最も基礎的で、最も大切なことが、”当たり前にできるべきこと”として徹底されていない。この状況にとても悲しく感じました。
家庭や学校でそういった指導をしていないのだろう、などとは思いません。きっと”当たり前にできるべきこと”として、当たり前に指導や教育をなさっていることと思います。
しかし、話して聞かせているかどうか、と、できるように創っているかどうか、というのは決定的に違うものであると思っています。
自分は現場を知らないので仮定の話しかできませんが、もし現場で、決まっているルールとして「挨拶をされたら返しましょう」という指導がされているのであれば、その発展性のなさを残念に思います。挨拶をし合うというワンシーンを考えるだけでも、「なぜ挨拶されたら返すのか」「なぜ知らない人とやり取りをする必要があるのか」「そもそも人と人とは」と、多様に人間のコミュニティの在り方や人間そのものの在り方について考えを巡らせることができて、その中で「なるほど、だから挨拶をした方がいいんだ」という気付きを得ることだってできるはずです。ルールをルールとして、何かの公式みたいに教えてしまうと、指導者の前では発揮できても実際には使うことのできない能力に育ってしまうのではないかなぁと思っています。
まぁ相手は小学生。突然不意に走り出すし、なんか泣くし、意味の分からん奇行をバンバンかます宇宙人みたいな存在であるとは思います。しかし、そういった人をちゃんと人間にするために、一緒に「なぜ、どうして」と寄り添って考え、わかるようにわからせるのが理想ではないでしょうか。
教育はその個人の価値観の形成に大きく影響するものであり、今後の人間社会の変化発展の行く先を決める重要なファクターといっても過言ではないと思います。付け焼刃というか頭ごなしというか、取り繕ったような心を持った人間を育てるのではなく、己の頭で考えを巡らせて、社会を生きる人間としての心を創り、取るべき行動・在るべき姿がその心から湧き上がり、体を成す。そういう人間を育てられるようになることを願うばかりです。