珈琲屋にて・その2
うだるような暑さの昼下がり。予定の時間までの少しの暇を持て余した僕は街の小さな書店で、好きな作家の新作短編集を買って喫茶店で時間を潰そうと考えた。しかし、書店からほど近い行きつけの喫茶店に足を運ぶも、扉にぶら下げられている定休日のプレート。無念。その喫茶店は僕が特に気に入っている場所の一つだったため、僕は肩を落としながら炎天下の中を戻る他なかった。
それでも「喫茶店で涼みながらコーヒーを飲んで読書する」という魅力には抗い難く、大分離れた場所にある喫茶店を目指すことにした。降り注ぐ日差しはますます強くなってるような気がする。日光から伝わった熱が身体の中にこもっている。一刻も早く、「喫茶店で涼みながらコーヒーを飲んで読書したい」欲求に駆られて僕は道を急いだ。
その喫茶店は地元でも比較的有名で、良い雰囲気と美味しい食事を提供してくれることは僕も知っていたし、何度か実際にそこで良いひとときを過ごしたこともあるが少し気乗りがしなかった。それは物理的な距離も原因であったが、それ以上に行くとこを躊躇わせる理由があった。それはただ単純に、そこの娘さんとは顔見知りだったというだけだった。(たぶん他人から見ればなんてことのない理由なのだけれど)そのときの僕は妄想じみた欲求に囚われたので、それはさておくことができたのだった。
その喫茶店は少し古びた日本家屋の外観をしている。上等な庭を通り抜けて引き戸を開ける。店内から冷えた空気がコーヒーの香りを纏いながら僕の身体の脇を通り抜けていった。汗ばんだ身体を冷やすため、手のひらで顔を仰ぎながらカウンター向こうの女性に一人客であることを告げる。茶色に染めた髪を後ろで結んだ、色の白い女性店員は恐らくアルバイトの子だろう。若さのエネルギーに満ちた声で「すぐご案内しますのでそちらにかけてお待ちください」と弾むように言った。上品な玄関で、僕は到底そこには似つかわしくないようなボロボロのスニーカーを脱いでスリッパに履き替える。それから黒々とした木製のベンチに腰掛けて案内されるのを待った。空調はしっかり効いていたが、それでも直射日光に晒された僕の身体はなかなか冷えてはくれず、ズボンに汗じみを作りながら待っていた。程なくして、アルバイトと思わしき彼女が僕を呼んだ。「どちらでも、お気に召した席にどうぞ」上機嫌の声で彼女は店内を見渡した。僕も同じように店内の様子を伺う。左手の洋室はアンティーク調のテーブルや椅子が並べられていて、壁際には観葉植物に囲まれて本棚が見える。そこに並んでいた本がどういったラインナップなのかは見えないが、「喫茶店で涼みながらコーヒーを飲んで読書する」欲求をこじらせかけていた僕はその本棚たちにとても心が惹かれた。しかし、それ以上に廊下を挟んで向かい、右手の和室の雰囲気に僕は惹かれてしまっていた。結局僕はその和室の席、窓際のいわゆる縁側に設けられた二人がけの席に腰を落ち着けた。
恐らく十畳ほどの広さのその部屋には、僕の座る席の他にいくつかのちゃぶ台が並べられていて、中年から初老の女性客が各々のグループを形成しながら机を囲んでいた。どことなく手持ち無沙汰な気持ちの僕に、やがて頭をきれいに丸めた男性が注文を取りにきた。僕は彼の姿に見覚えがある。確か、彼は彼女の父親だったっけな、ということはこの人が店主なんだろうな。店主は落ち着いた声で、ゆっくりと、丁寧にメニューを読み上げ、それからこれまた過剰なくらい丁寧に一つ一つ説明してくれた。Aランチはぶっかけそばです。山かけがついてますので、ご飯でもそばでもお好きな方に合わせて召し上がってください。付け合せはお肉か魚が選べます。お肉であれば、手羽先の甘辛煮。魚料理はサーモンのマリネになっております。Bランチは当店オリジナルのカレー。スパイスから作るオリジナルのカレーになっておりまして、辛いものが苦手な方でもお召し上がりになられます。Cランチはハンバーグ定食になってます。こちらはパンとライスが選べます。パンは地元のベーカリーから毎朝仕入れてますので柔らかく、香りも良いですよ。
#1
僕はAランチを、付け合せは魚料理を選んだ。カレーは大好物だったし、ハンバーグの欲求にも抗いがたい気持ちだったが、知り合いの親御さんの手前、なんとなく大人ぶってそばを選んでしまった。料理を待つまでの間、あらためて店内を見回してみる。古風な家具に取り囲まれた室内は、以前の自分の言葉を使うなら、そこには"それらしく見せるための意図"を感じることも可能だった。しかし以前別の場所で感じた嫌な感覚はなかった。(それが知人の店であるというバイアスがかかっていたかどうか、という点については否定できないが)今なら手持ちのハードカバーをコーヒーの脇に置いて、それを写真に収めてSNSで公開したって構わない気持ちだった。そんなことをしたって笑い話で済ませられるような、そんなおおらかな気持ちだった。
一体どういうことなんだろうと店内を見渡しながら沈思黙考した。部屋を照らすために取り付けられた電球が見せるフィラメントのシルエットは細かく震えている。年季を感じさせるアンプ内蔵のスピーカーは本来の用途でなく、サイドテーブル的に扱われていた。キッチンのそばには全く何に使うのか検討もつかないような、人の背の高さほどのガラス器具が置かれている。そういったカフェの原理的機能に貢献することのない家具たちは、言ってしまえば見栄のためだけの設備だったが、不思議と嫌味な感じがなかった。かつて僕は別の珈琲屋で、そういう見栄のためだけの家具に囲まれて、強烈な自己嫌悪に襲われながら逃げるように店を出たことがあった。今は全くそういう予感すらない。以前の珈琲屋にとっては大変不条理であろう、僕の自己矛盾に戸惑いながら考えを巡らせ続けるといくつかのことに気づいた。
まず、窓から外を眺めると上品な庭が見える。よく手入れされた庭木は真っ白な光を受けて、快心の出来といった様子で真緑の葉を輝かせていた。同じく緑々とした光の粒をばらまく芝生の中で、人工的でゴム質の青色をしたホースが細長い身体を横たわらせている。室内に目を向けると、まだらに染みを作った畳の部屋の中央に、量販店で見るような洗濯カゴとそこに無造作に押し込められたブランケットが鎮座していた。壁を見やれば、そこに空調のリモコンが、その日に焼けたプラスチックの外身で年季の長さを見せつけていた。僕の目の前、縁側には床置きの小さな本棚があって、そこに並んだ本たちも日に焼けながら誰かに手にとってもらうのを待っているような、あるいはそれすら諦めてしまった様子だった。ならんだタイトルは古典ミステリだったり漫画本だったり雑多が極まっていたが、どことなく持ち主の人柄を感じさせる。店内のあちこちに置かれたものは見栄以上の意味を見出だせないものもあれば、生活のため、喫茶店という仕組みを維持していくための"意味"を感じさせるものもある。そういう無意味と意味の調和が室内に満ちていて、それがこの店を好ましく思わせる一因ではないかと仮説を立てた。それはカッコつけようとして、カッコつけきれない子どものような可愛らしさかもしれないし、現実を割り切りながら可能な限りケレン味を見せる大人のかっこよさかもしれない。いずれにせよ、僕はこの喫茶店をこれまで以上に気に入り始めていた。
#2
僕の後ろの席で、初老の女性の組がウィッグを染めるとか染めないとか話していた。僕はウィッグをそうした風に扱えることを知らなかったので、好奇心から無作法にも聞き耳を立てていたけど、店員が注文を取りに来たため、話は中断されてしまった。メニューを復唱した店員が去った後、会話が再開したものの話題は二人の共通の知人についてのものに変わっていた。
彩りよく盛られたサーモンのマリネやかけ蕎麦、小ぶりな茶碗の白飯は空腹な若者には少々物足りない量だったが味は抜群に良かった。食後のアイスコーヒーを楽しみながら、先程購入したハードカバーの短編集を読んでいると、不意に後ろの席、初老の女性は「私たちの身体は肉塊に包まれてるでしょう?」と言葉を発した。晴れ渡る昼過ぎの喫茶店には似つかわしくない「肉塊」という単語が、あまりにも自然に発せられたことに驚いて、僕の読書に対する意識はすぱりと途切れてしまった。窓の外に目をやりながら、コーヒーを飲むふりをして(マグカップはすでに空になっていた)彼女たちの話に再び聞き耳を立てた。期待に胸を躍らせながら続きの話を待ったが、「その先生はね、私たちのそういう肉塊を剥いだ中にある魂の色とか、輝きを見てくれるのよ」といった風なことを喋っている。「瞑想をすることでね、魂を磨くことができるの」「私の夢はね、こういう宇宙的なお仕事の手伝いがしたいのって言ったの」「もうずっと朝から晩までセッションをしてるのよ」多分そういうことを言っていたが、僕には話の四分の一も理解できなかったと思う。
あくまで個人的なことだが、スピリチュアルなことを信じていない僕は、行儀の悪い盗み聞きをやめて、あらためて読書に専念することにした。しかし、空々しい彼女たちの会話(正確には一人がもう一人に向かって一方的に喋り続けている形に近かった)が聞こえるたびに僕の意識はそちらに割かれてしまう。「そんなわけあるかい、お母さんや」彼女がスピリチュアルな論を説く都度に僕は心の中で反論していた。肉塊を剥いだ中にあるのはまた肉塊だよ。魂に色なんかないよ。私の魂の色はね、すごく強い人と同じなんだって。そんなの適当に喜びそうなこと言ってるだけだよ。騙されてんだよ。強い人ってどんな人だよ。ほら、なんて言ったっけ、アパホテルの女社長がいるでしょ、その人とおんなじ色なんだって。思わず現実の僕が吹き出してしまいそうになった。お母さん、よもやお母さんの写真が入ったペットボトルを作る気じゃないだろうな。
僕はいい加減ばかばかしくなって、小説に集中することにする。その小説はエッセイだか自伝だかの体をしていたが、実際のところイデアに満ちたものだった。筆者の体験は現実と観念の境目を行き来していて、分かりやすいまとまりがあるものではなかった。衒学的な様が少し鼻に付きかねなくて、人を選ぶかもしれないなとも思った。それでも僕は夢中になりながらページを捲っていく。ふと現実感のないその短編たちを読み耽っていると、ぼくも先の彼女らとそう大差ないところにいることに気付いた。空々しさで言えば同程度かもしれない。むしろ現実に直接影響を与え得ないという点から考えると、より胡散臭いのは僕のように思える。嘘っぱちの話を読みながら、形のないものに思いを馳せている僕と、魂の色だか形だかについて力説しながら現実世界を善く生きようとする彼女とでは、僕のほうがよっぽど世間から疎まれ嫌われる存在に思えた。いつの間にか彼女たちは席を去っていた。
#3
いつの間にか空調が弱まっているのか、部屋の中はじわりと熱を蓄えていた。額ににわかに浮かぶ汗で僕はそのことにようやく気付けた。それから不意に懐かしい匂いがした。「匂い」というと正確ではないかもしれない。それは匂いというより空気の動きだった。縁側に置かれたサーキュレーターが意識しないと気付けないくらいの音で回り続けている。それは僕の方を直接向いたものではなかったけど、しかしほど広い室内で空気の循環を生み出していた。サーキュレーターが作る空気の動きは、それまた意識してようやく気付ける程度のものだったけど、ともあれ、僕に懐古させるような含みを持っていた。
『ある土地で過ごすことって五感を全部使って記憶していくことだから、あまりにも何気ない刺激ですべての記憶を思い出したりすることがあったりします。思い出は景色に宿るのかもしれない』
これは以前、僕がツイッター上で投稿した文章だ。今見るとあまり上手くまとめることができなかったなと後悔してしまう。ところで今回覚えた懐かしさはこれによるものだったと言えるだろう。
懐かしさの正体を捉えたあとに、今度はなぜ僕はその懐かしさを「匂い」として認識したのか、そういう疑問を覚えた。少し考えて、少なくとも僕の人生では懐古を促すものとして「匂い」がよく活躍していることに気付いた。記憶は五感と結びついている。例えば昔よく聴いていた音楽をあらためて聴くことで、それが呼び水となって様々な記憶が蘇り、微笑ましい気持ちになったり、頭を悩ませたりすることがあった。呼び水になり得るのは音楽だけではなくて、コーラ味を謳った化学調味料の味だったり、彩度の薄い灰色の空だったりしていたが、特に鮮明に記憶を呼び起こすのは「匂い」だった。季節の変わり目に漂う匂いや、夕方の住宅街で漂う匂い、グラウンドに落ちた汗の匂い、それを流し落とすためのシャンプーの匂いも、あらゆる時間あらゆる場所で漂う匂いがたびたび僕に昔のことを思い起こさせていた。
つまり因果が逆転してしまったわけで、突発的な懐古を起こしてしまった僕は、それを無意識下で「匂い」によるものと結論づけていたのだ。実際に僕の記憶を呼び起こしたのは、空気の動きの知覚、五感で言うところの「触覚」によるものだった。この事実は少なからず僕を驚かせた。「触覚」が記憶と結びついていることを自覚したのは恐らく初めてだった。それから僕は「触覚」と結びついている記憶を探ることに夢中になっていた。こうしてみると「触覚」が物事を記憶することは極めて稀なことのようだ。記憶を探れど探れど呼び起こされるものはなかった。やっとのことで「触覚」の記憶があるとしたら、高校生のころ初めて触れた同級生の乳房の感触かもしれないな、なんて思うとすごくバカバカしくなって懐古の作業を止めてしまった。いつか同じようになだらかな空気の動きを感じて今日のことを思い出す日が来るだろうか。
蛇足
喫茶店を後にした僕は、文具屋に立ち寄ってノートを一冊買おうと目論んだ。喫茶店で体験したことを後で文章に起こせるようスマートフォンにメモを取っていたのだけど、データとして言葉を紡いでいくことは、その時々が持っている熱が失われていくような行為に感じた。そこで(いかにもな話ではあるが)アナログな手法で文章を残せるようにしようと考えたのだ。
文具屋(正確には書店の文具コーナー)でノートの類が陳列された一角の前に立つ。普段使うのは大抵ルーズリーフなので、こうして普通のノートを吟味するのは久しぶりだった。企業努力の賜物か、最新のノートたちは様々な機能をウリにしている。僕は、ノートに限らず、そういった多機能文具を見ると、少年心を刺激され無性にワクワクする。しかし、そうした童心を押さえつけて、今回はできるだけ素朴なものを買おうと思っていた。思考を言語に変換するという極めて原始的な作業には、余分な機能は必要ない気がする。ただ純粋にノートを最初のページから順番に埋めていくようなやり方が良かった。結局、A5サイズのシンプルなリングノート(今思うと少々中途半端な大きさだったなと後悔している)を買って、こうして文章を書き留めている。
生活の中で生まれる取り留めのない考え、そしてそれは多くの場合で生きていくには無為なものを、こぼさないように書き留めていければと思う。