見出し画像

一日の中のどこかに一人の時間が欲しいのです

飲み会の途中で入る個室トイレの安心感。先ほどまでわいわい人と話していた自分とはうって変わって、わたしは無になる。使っていた顔の筋肉が休まるようにゆるまり、全身の力が抜けてダラァっとする。トイレ内に小さく流れるBGMをボーッとききながら、「世界一周!豪華客船の旅!」と書かれた謎のポスターをじっと見つめてみたり。

決して飲み会がつまらないわけではない。早く帰りたいとか、そういうわけでもない。それでもひとりになった瞬間に降りてくるあの謎の安心感に、心が持っていかれる。
あれは一体なんなのだろう。詰まったものが流れていくデトックスのような数分間に、何度救われたことか。どんなに楽しい飲み会をしていても、どんなに心を許した友人とお酒を飲んでいても、無になった瞬間にズドンと感じる安心感の重たさに、自分の身体がいかに張り詰めていたかを知る。

わたしは、一日のどこかに一人の時間がないと死んでしまう。死んでしまうとは大分おおげさだけれど、ずっと他人と一緒にいると、わたしの中にある何かが死んでいく感覚がするのだ。ほんの一瞬でもいいから、とにかく自分一人になれるヒトトキがないと、わたしを保つバランスが崩れてしまう気がしてならない。
その日を共にするのが、心から信頼をしている大好きな友人だったとしても、またはここまでわたしを育ててくれた大切な家族だとしても。その関係性にかかわらず、ひとまず一旦、別々の時間を過ごす時間が欲しくなってしまう。わたしはどこまでも根暗なのかもしれない。

あまりおおっぴろに言葉にしてこなかったけれど、以前このような話を誰かにした際に、「その感覚は全然わからない。むしろ四六時中だれかといたいし、一人は嫌」という回答が返ってきたもんで、ひっくりかえりそうになった。
その人曰く、一人でいるのはなんとなくさみしいから、とりあえず誰かといれば安心できるそうなのだけれど、まるでわたしと性質が真逆なもんだから、ひどく驚いたもんだ。でもその瞬間、わたしが一人でいることで保つバランスを、この人は他人といることで保っているのかもしれないと咀嚼して、やっと納得ができた。

その話をきいた帰り道に、そういえばわたしには、「とりあえず会うか」という誰かがいるのだろうかと想像をしてみてみた。
その答えは数秒であっさりと出たが、「とりあえず」を理由に会いたいと思う人がまったくいなかった。会う理由は「とりあえず」ではなく、「会いたいから!」なのだと気づいたとき、わたしはいかに自分が0か100かの二択しかとれない人間であるかを痛感する。みんなにとっての「とりあえず」は1~99のどこかの数値であるのだろう。その中間をとれないわたしは、わがままなのだろうか。

なんとなく飲みたい気分の日はあるものだけれど、そういえばあまり自分から人を誘わないかもしれない。その日タイミングよく友人からお誘いを受ければ顔を出すものの、自分から「会いたい」と連絡することはごくわずかであると最近気づいてしまった。暇だから誰かと飲みに行くというのを、いつの日からか全くしなくなってしまった。本当の意味で会いたい人が限られたというのはもちろんだが、なんだかわたしは一人を望んでいるようにも思える。
これだけを読めば、誘われるのを待つだけの受け身に聞こえるかもしれないが、そうではないのだ。
誘うのだ、こちらだって会いたい人もたくさんいる。飲み会は好きな方だ。いろんな人に会いたい、もっと知りたい世界がある。だけど。

それとこれとは話が違うのだ。やっぱり一人の時間が欲しくなる時もあるのだ。人に会えば会うほど、一人が必要になるのだ。
何を言っているかわからないと思うけれど、つまりそういうことなのだ。

なんだか、考えればきりがなくなってきた。
自分が一人でいるのを好むのはもちろん、話す相手も一人である方が、意味のある会話ができるのではないかとまで考えてしまう。10人が集い同じタイミングで会話をするよりも、目の前にいる一人と語り合いたくて仕方がない。
うまく言葉にできないのがもどかしいのだが、人が増えれば増えるほど、「会話」ができなくなる気がする。誰かが話したことに対して、ひとりは喜び、ひとりは傷つき、ひとりは全くなんとも思わず、ひとりは聞いてさえいなくて。ひとつの話題に対して感じる色が、10人いれば十色あるのであれば、じゃあその輪の中にいる自分は何色なのか、何色であるべきなのか、この色を誰と混ぜあってどんな新しい色を作ればいいのか、立ち往生である。
考え尽くした結果、大体は何もわからずにもやもやして帰宅する。家の隅っこで体育座りで反省会をしても、あの場にいた人が多ければ多いほど記憶がぼんやりするものだから、もやもやは晴れない。つくづく、集団の中にいる自分は下手くそすぎる。

たとえばそれが、わたしと相手の一対一であればまた話はちがう。相手が放つ言葉を受け止め、自分なりの色を混ぜて相手に返すことができる。パズルのピースがぴったりハマる相手とだったら、宇宙にだって行ける気がしてしまう。頭の中に繰り広げられるコスモに飛んで、きっと、まだ見ぬ新しい星を観測できる。なんちゃって。

思うに、きっとわたしは、相手を通して自分を見つめているのだろう。そこにいる他人という鏡を通して、一人では探れない何かを見つけようとしているのかもしれない。人が人として生きていくには、必ず他者が必要だというけれど、それは自分一人では掘ることのできない心の奥底を見つめるためなのだと、わたしは思う。会話をしないと、何も生まれない。相手がいないと、話もできない。心の中で自分だけと話す世界は、あまりにも色を知らない。
大人数になればなるほど会話ができなくなるのは、その人の内面を覗くことができずもどかしいからなのかもしれない。向き合いたい相手の心が見えない、向き合いたかった自分の何かが見えない。そんな感じだ。
そんな時、これはそういうタイミングなんだなと思ってその時間を撫でるように楽しむ方向にシフトチェンジしてみたりもする。大人って、便利だ。

結局、目の前に現れる人は、いつだって自分に必要な存在だ。幸せな時には幸せな人が来るし、何か足りないと気づければそれを補う誰かと出会える。なんでいまこの人がこのタイミングに?どうして調子がいいのに、ネガティブなことばかり言う人がそばに来るの?なんて時には、気づいていないなにかを忠告するためだったりもする。人の登場に意味を見つけられるのも、やはり己だ。
そうやって知らず知らずのうちにお互いを整え合うことで、生きていくんだろう。
自分本意な人生を歩む、全人類。
コミュニケーションこそが、本当の意味での支え合いだ。

その他人との関わりで得たものを、わたしは一人になることで調整したいのかもしれない。渦中から外れて一人になった時に、外側から世界を見つめてはじめて、そこで回っていたものに気付くように。
一人で世界を客観視したいのかもしれないと、わたしは気づく。
自分の世界を整えるために、一人の時間が欲しいのだ。さっき感じた感情を、自分に落とし込みたいのだ。あなたと出会って知った自分をアップデートしたいんだ。きっとそうだ。多分、そうだ。
あの人のあの言葉を、受け止めたい。前からわたしの中にいた何かが新しいものを拒もうとする時もあるけれど、新鮮なそれをゆっくり噛んで味を知って、消化したいだけなのである。わたしの一部になるのだから。

結局、全員が他人なのである。この世の中に存在する自分以外の人間は、他人以外の何物でもない。残酷に聞こえるかもしれないが、それが幸せの根源だと思っている。個体が別々であるからこそ、違いがあるからこそ、それぞれの人生だ。
たとえば私たちがアリだったとして、それほど周りと変わらぬ身体に、決められたルーティーンをこなすだけの生物だったとしたら、感情なんてあったって、なんの意味も持たない。成長なんて、あってないようなものだ。
自分と相手の間には、なにをどうしたって越えられない壁はたしかにあって、それはきっと越えなくてもいいものである。他人である線引きができてこそ、自分の人生が歩めるものだ。
他人の領域に踏み込みすぎて共感に食いちぎられ、自分が潰れてしまうこともあれば、領域から何十歩も後ろに下がって手をとりあうことをしないでできる不要な溝だってある。人との関わり合いのバランスは難しい。

しかし、一番やっかいなのは他人ではなくて自分の取り扱い方であることを忘れてはならない。自分がどう言う人間で、どうしたらご機嫌がとれて、本当はなにを求めているのか。心の中に何色を持っていて、何色をつくれて、何色の世界を見ているのか。
時にはひとりになって、そこにあるはずの自分の世界を客観視してみるのも悪くない。わたしのような不器用な人間は、一日の間で訪れる隙間時間をつかってやっと、主観を抜け出して自分を見つめられるようになるのである。他人は自分の鏡だが、自分がいなければ鏡には何もうつらない。まずは自らをそこに存在させなければ。

あえて人と接せず一人でいるからこそ見える景色が確かにあるのだということを、わたしは今ここで伝えてみようと思う。
孤独を噛みしめ、自分を確立したその先にある景色は、居酒屋に貼られている「世界一周」のポスターを飛び越えて、宇宙規模で壮大なものであるはず。なんだかそんな大それたことまで考えちゃっているのだ。

一人の時間に、ひとつまみの休息を。
一人の時間に、ひとさじの反省を。
整えた最高の自分で、大切なあの人に会いに行こう。

#エッセイ #コラム

いいなと思ったら応援しよう!

saku
いつも応援ありがとうございます。