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音楽史・記事編142.フランドル楽派、宗教改革と音楽史(ルネサンス中期)

 中世の1250年頃にはポリフォニー音楽が始められたとされますが、1400年頃から始まるルネサンス音楽では従来のモノフォニー様式から美しい3度、5度、6度の純正和声によるポリフォニー様式がブルゴーニュ楽派により広まり、さらにルネサンス期においては多くのフランドルの作曲家によって純正音律によるポリフォニー様式へと音楽が進化し、イタリア・ローマに伝承され、ローマではパレストリーナによってポリフォニー様式によるミサ曲が作曲されローマ典礼が定められミサ曲の作曲は全盛期を迎えることになります。

〇世界帝国の出現・・・たまゆらの世界帝国、40年後には分裂
 フランドルはフランスなどの列強に囲まれる中、ブルゴーニュ王は政策的に王女マリーの許婚をハプスブルク家の大公マクシミリアンとし、ブルゴーニュ王が亡くなると王女マリーはハプスブルク家のマクシミリアンに助けを求めます。マクシミリアンはブルゴーニュ公としてマリーとともにフランドルを収め、嫡男の誕生によりハプスブルク家はフランドルを手に入れます。マクシミリアンは、その子フィリップと長女マルグリッドをスペイン王家の王子、王女と二重結婚させ、この二重結婚では相互相続が取り決められ一方の家が断絶すればその領地は丸々その一方の家のものとなるものであり(1)、結果としてハプスブルク家はイベリア半島とイタリア南部のナポリを手に入れます。またマクシミリアンの孫のフェルディナンドはハンガリー王家との二重結婚によりハンガリーを手に入れ、ハプスブルク家は結婚政策によって奇跡的に領土を広げ、マクシミリアンの孫のカール5世の時代にはオーストリー、ドイツ、ボヘミア、ハンガリー、イタリア北部の神聖ロー帝国領の他、スペイン、フランドル、ブルゴーニュ、イタリアのナポリなどヨーロッパにおけるフランス、イギリス、北欧以外のほとんどの地域を領有し、さらに世界中のスペインの植民地を手に入れ、そしてポルトガルの王女を妻としたカール5世はインド洋周辺のポルトガルの植民地も支配し、太陽の沈まぬ世界の大帝国となります。

〇フランドル楽派の多くの作曲家がフランス、イタリアにフランドルのポリフォニー音楽を伝える
 ブルゴーニュ楽派の巨匠デュファイやダンスタブルによって純正和声によるルネサンスのポリフォニー音楽が始まり、世界帝国となり政治経済の中心地となったフランドルではオケゲムやジョスカン・デ・プレなど多くの作曲家が現れポリフォニー音楽は成熟し、フランドル、パリ、ローマなどの教会がルネサンスの音楽家の活躍の場となり、フランドルの対位法を広げたとされます。ジョスカン・デ・プレやスペインのモラレスはローマ教皇庁に勤務し、フランドルのポリフォニー音楽やフランスのシャンソン、オランダのマドリガルなどの音楽がイタリア・ローマに伝わったものと見られ、ベルギーのティンクリストフはナポリで活躍しベル・カント歌唱法を創始し、同じくベルギーのヴィラールトはベネツィアのサン・マルコ教会の楽師長となりオルガン音楽と合唱音楽を伝え、さらにイザーク、ゲーディメル、ゴンベール、アルカデルトなどがイタリアやフランス各地にフランドルの音楽を伝えています。フランドル楽派の最後には大家オルランド・デ・ラッソ(ラテン語ではラッスス)に至ってフランドル楽派の対位法音楽の極点を築き、さらにオランダに生まれたオルガンの大家スヴェーリンクによってフランドル楽派は終わりを告げます。フランドル楽派の隆盛はその地方に出た優秀な楽人が弟子から弟子へと技術を伝えたからであり、これらの人々はイタリア、フランス、ドイツから招かれ作曲技術を広めています。フランドルの対位法音楽は全ヨーロッパに広まり、フランドル一派の独占するところではなくなったとされます(2)。この時期にフランドルからこれほどの作曲家が排出された背景には、世界帝国となったハプスブルク家の当時の中心地であったフランドルが経済的に潤っていたためであろうと見られます。

〇宗教改革・・・激動するヨーロッパ
1508年、マクシミリアン、ローマ皇帝の戴冠をうけずに皇帝マクシミリアン1世となる。以降、ローマ教皇による皇帝戴冠は行われなくなり、政教分離がなされる。
1516年、マクシミリアン1世の孫のカール、スペイン王となりカルロス1世となる。
1517年、マルティン・ルターの宗教改革が始まる。
1519年、既にスペイン王となっていたカールは、選帝侯選挙でフランス王フランソワ1世を破り、神聖ローマ皇帝カール5世となる。
1524年、南ドイツでドイツ農民戦争
1525年、カール5世、イタリアのパヴィアでフランスのフランソワ1世軍を破る。
1529年、オスマン・トルコによってウィーンが包囲される。(1次ウィーン包囲)
1546年、カール5世、南ドイツのシュマルガルテンでプロテスタント勢力と戦う。
1555年、アウグスブルクの宗教和議により諸侯に宗教の選択権が認められる。
1556年、カール5世退位し、皇帝位を弟フェルディナンドに、スペイン王を息子フェリペに譲り、ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分裂する。
 ハプスブルク家のカール5世は世界帝国の皇帝となりますが、ドイツでは宗教改革が起こり、フランスとは神聖ローマ帝国皇帝位を争い、さらにイタリアで覇権を争い、さらにオスマン・トルコにはウィーンを包囲されるなど生涯戦乱は絶えずかつてのローマ皇帝のように戦地を転々としていたとされます。1516年マクシミリアン1世の孫のカールがスペイン王となり、1519年に行われた神聖ローマ皇帝選挙に立候補します。周囲をハプスブルク家に囲まれたフランス国王のフランソワ1世は危機感を感じ、神聖ローマ皇帝選挙に参戦し、このため7人の選帝侯の選挙で争われた皇帝選挙は未曽有の金権選挙となったようです。ハプスブルク家は資金確保のためにアウグスブルクの金融王フッガー家の助力を得ますが、フッガー家はローマ・カトリック教会の免罪符の販売利権を独占しており、もともと免罪符は十字軍派遣の資金確保という大義名分があったものの、やがて公共工事等の資金集めのために免罪符が販売されるようになったともされ、ついには皇帝選挙のための資金確保に利用されたようで、ルターはこの免罪符販売をカトリック教会腐敗の元凶とみなしたとされます。
 皇帝選挙に敗北したフランス国王フランソワ1世はイタリアでも神聖ローマ軍に敗れ利権を失い、あろうことか敵の敵は味方と言わんばかりの考えでイスラムのオスマン・トルコのスレイマン太守と手を組み、1529年のオスマン・トルコのウィーン包囲の背後の楯となったとされます。ちなみに、ウィーン包囲に先立ちパリを訪れたオスマン・トルコの使節団がパリの王侯貴族をコーヒーでもてなし、ここからパリでコーヒー文化が定着したとされ、ウィーンでもトルコ軍が残したコーヒー豆からコーヒー文化が生まれたとされています。

〇世界帝国ハプスブルク家がオーストリアとスペインに分割される
 カール5世は世界の皇帝となったものの世界帝国は、ヨーロッパにおける戦乱に次ぐ戦乱に疲弊し長くは続かず、とうとうわずか40年でオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分裂することとなります。1556年カール5世は退位し、ローマ皇帝位を弟フェルディナンドに譲りオーストリア・ハプスブルク家を継承し、スペイン王は長男フェリペに譲渡し、スペイン領はスペイン・ハプスブルク家に相続されます。

〇フランドルの音楽とウィーン楽派、ベネツィア楽派、ローマ楽派の誕生
 皇帝カール5世は美しいフランドルのポリフォニー音楽を奏でる聖歌隊を戦地にも帯同したとされ、この聖歌隊がウィーン少年合唱団の起源となり、フランドルの大家ラッソはイタリアからさらにミュンヘン宮廷に仕え、ウィーン楽派の始祖となったと考えられます。ラッソは1571年ローマ教皇グレゴリウス13世から黄金拍車勲章を授与されますが、その200年後の1770年にはモーツァルトがローマ教皇クレメンス14世から史上2人目の栄誉ある黄金拍車勲章を授与されます。また、フランドルの美しく豊かな和声にあふれたポリフォニー音楽はイタリアに伝わり、イタリアのベネツィア楽派、ローマ楽派を生み、パレストリーナ等の多くのミサ曲やモテット、マドリガーレ等の世俗歌曲の名曲が作曲されて行きます。

【音楽史年表より】
~1497年(作曲年不明)、オケゲム(~72歳)、レクイエム
ポリフォニーで書かれた現存する最古のレクイエム(死者のためのミサ曲)で、ルネサンス時代の他のポリフォニー・レクイエムと同様、今日のカトリック教会の典礼で使用されるものとは楽章構成等が異なる。(3)
1498年、オッターヴィオ・ペトルッチ
ベネツィアで史上初の音楽印刷出版業を開業する。(4)
1505年頃作曲、ジョスカン・デ・プレ(57歳頃)、聖母マリアのためのモテトゥス「アヴェ・マリア」
ベネツィアのペトルッチから出版される。ジョスカン・デ・プレはフランドル楽派最大の音楽家であり、ルネサンス時代の最高峰に位置する作曲家であり、ミラノ大聖堂、ミラノ宮廷、ローマ教皇庁、フェラーラ宮廷やフランスの国王宮廷、フランドル宮廷などに足跡を残す。(3)
~1505年(作曲年不明)、イザーク(~55歳)、宮廷歌「インスブックよ、さようなら」
ドイツ語の歌詞による美しい旋律のため、やがてプロテスタントのコラール「おお、この世よ、さようなら」(第312番)や「すべての森は憩い」(第361番)に改作され、イザークの名を不朽なものにならしめた。イザークはフランドルに生まれたフランドル楽派を代表する作曲家だが、1480年頃からはイタリアのフェラーラやフィレンツェのメディチ家のオルガニスト、インスブルックのジギスムント大公や神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世に仕え、1497年には宮廷作曲家となった。その後、妻の出身地のフィレンツェで余生を送った。(3)
1517年10/31、マルティン・ルター(34歳)の宗教改革始まる
アイゼナハに学んだルターは、さらにエアフルト大学に進学するが、突然アウグスティヌス会の修道士に転進、後にヴィッテンベルク大学神学科教授となる。ところが1517年10/31、罪に科せられる劫罰の免除を金銭によって解決するような免罪符販売を推進するローマ教皇とマインツ大司教の政策に反対する95ヶ条の論題を、ヴィッテンベルク城内教会の扉に張り付けたところから、全ドイツ、全ヨーロッパを揺るがす大問題を提起する結果となる。後にいう宗教改革の発端となる。ルターはエアフルト大学では音楽理論と実践の徹底的な教育を受ける。ルターは音楽を愛し、自ら歌い、ある程度作曲もできた。フランドル楽派の多声音楽、特にジョスカン・デ・プレの作品を高く評価する。音楽の教育的、倫理的な力を強く信じ、会衆全体が礼拝の音楽に何らかの形で参加することを望んだ。人文主義的な教養の一部としてラテン語を重んじる一方、会衆のための歌においては徹底して母国語を重んじる。こうして伝説的な聖歌やドイツ民謡の改作によって、新しいコラールが数多く生み出された。ルターによって基礎付けられたプロテスタント・コラールの伝統はハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレストリーナ等の作曲家を経て、バッハにその頂点を極めることになる。(5)
1556年10/25、神聖ロー帝国皇帝カール5世が退位
カール5世がブリュッセルで退位を表明する。19歳で皇帝につき足掛け30余年の在位は、世界帝国の栄光であった。皇帝位は弟フェルディナンドに譲り、スペイン王は息子フェリペに渡す。これによりハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に系統分裂する。同時にカール5世のたまゆらの世界帝国も崩壊する。(1)
1560年頃作曲、ラッソ(ラテン語ではラッスス)(28歳頃)、7つの懺悔詩篇曲集(モテット集)
1572年のサン・バルテルミーのユグノー大虐殺に対して思いを悩ますフランス国王シャルル9世のために書かれたとの説もあるが、実際はバイエルン公アルブレヒト5世のために1560年頃に作曲される。1584年ミュンヘンのアダム・ベルクから「5声のダヴィド懺悔詩篇曲集」として出版される。ラッススはフランドル楽派最後の大作曲家であり、パレストリーナやバードらとともに16世紀後半を代表する音楽家である。フランドルに生まれ、イタリア各地で活躍した後、アントウェルペン(現アントワープ)に移り、さらにバイエルン公アルブレヒト5世に仕える。(3)

【参考文献】
1.菊池良生著、神聖ロー帝国(講談社)
2.堀内敬三著、音楽史(音楽之友社)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)
4.ブノワ他著・岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)
5.樋口隆一著・バッハ(新潮社)

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