見出し画像

音楽史年表記事編72.モーツァルト、大司教と決裂、コンスタンツェと婚礼を挙げる

 1781年3月、モーツァルトはザルツブルク大司教コロレドの命により、ウィーンに向かいます。これまでも皇帝ヨーゼフ2世からの自身に対する慈悲を感じていたモーツァルトでしたが、ウィーンの宿泊先のドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)では下僕並みの扱いを受け、皇帝から直々に作曲の委嘱を受ける作曲家としては耐え難いものと感じられたようです。これまで食事の席次としては、オペラを作曲する音楽家として最低でも上座の末席を与えられていたモーツァルトでしたが、ウィーンのドイチェスハウスでは全くそのような配慮はなかったのでした。4/3にはケルントナートーア劇場でモーツァルト自身の指揮によって大編成の管弦楽により交響曲第34番ハ長調が演奏されます。宮廷楽団のメンバーからはモーツァルトへのドイツ語オペラ委嘱の噂が聞こえてきた可能性があり、恐らく5月には正式に宮廷劇場監督のローゼンベルク伯爵からドイツ語ジングシュピール作曲の委嘱が来たと見られ、これは皇帝ヨーゼフ2世の意向によるものと思われます。それでも、コロレド大司教は亡き女帝マリア・テレジアからの下命通りのモーツァルトへの扱いを続けていました。マリア・テレジアの旧臣たちは、皇帝ヨーゼフ2世のあまりにも急激な改革に反感を持っていた可能性もあります。そして、5/9にはモーツァルトは大司教と決裂し、6/8にはアルコ伯爵から足蹴にされ完全にザルツブルク宮廷との関係を断つことになります。モーツァルトはウェーバー家に寄宿し、そこでアロイジアの妹のコンスタンツェに出会います。
 このようにして音楽史上初めてのフリーランスの作曲家が誕生したわけですが、モーツァルトにはオペラ以外に皇帝ヨーゼフ2世が宮廷内で楽しんでいたハルモニーと呼ばれる管楽合奏のためのセレナード第11番変ホ長調K375の作曲依頼が来ます。12月にはヨーゼフ2世直々の希望でイタリア人のクレメンティとのクラヴィーア競演も行っています。また、クラヴィーア教師としての収入も得るなど、フリーランスの作曲家としては順調に仕事をこなし収入も得て、オペラ「後宮からの誘拐」の作曲をしながら、オペラのヒロインと同名のコンスタンツェとの仲も深まったようです。
 モーツァルトの父レオポルトはアロイジアの一件以来ウェーバー家を嫌っていましたので、お人好しのモーツァルトがコンスタンツェの母親にうまくやられるのではないかと心配し、コンスタンツェとの結婚に猛烈に反対しました。そして、予想通りモーツァルトはコンスタンツェの母親から結婚契約を結ばされていたのでした。
 モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとオペラ「後宮からの誘拐」を初演し、その19日後には父レオポルトの同意を得られない中、シュテファン大聖堂でコンスタンツェとの婚礼を挙げることとなります。

【音楽史年表より】
1781年3/12、モーツァルト(25)
モーツァルト、ミュンヘンからウィーンへ出発する。(1)
3/16、モーツァルト(25)
モーツァルト、ウィーンに到着する。モーツァルトはザルツブルク大司教の父ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード侯爵邸であるドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)に宿泊する。(1)
4/3、モーツァルト(25)
ウィーンのケルントナートーア劇場でモーツァルトの交響曲第34番ハ長調K.338が演奏される。2管編成(ただし、Fgは6本)、Vn40、Vla10、Vc8、Cb10の大編成で演奏される。コロレド大司教がモーツァルトに許した唯一の公開演奏会となる。(1)
5月初旬、モーツァルト(25)
モーツァルト、ドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)を出てウェーバー家に寄宿する。(1)
5/9、モーツァルト(25)
モーツァルトと大司教が決裂する。帰郷命令を無視したモーツァルトを大司教が激しく罵り、腹を立てたモーツァルトは辞表を出すと言い放つ。(1)
5月もしくは6月、モーツァルト(25)
モーツァルト、宮廷劇場監督オルシーニ・ローゼンベルク伯爵からオペラの作曲を依頼される。(1)
6/8、モーツァルト(25)
モーツァルトは父レオポルトに頼まれてモーツァルトの説得にあたった大司教の侍従のアルコ伯爵と最後の話し合いを持つ。モーツァルトはこのアルコ伯爵をも怒らせてしまい、伯爵はモーツァルトを戸口に追い出し、その尻を足蹴にした。こうして、モーツァルトとザルツブルの関係は完全に断たれることになる。(1)
7/30作曲を開始、モーツァルト(25)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
3幕のドイツ語ジングシュピールの作曲を開始する。(2)
10/15以前作曲、モーツァルト(25)、管楽器のためのセレナード第11番変ホ長調K.375
第2稿ではオーボエ2本が追加される。第1稿、第2稿ともにベルリン国立図書館に所蔵される。(3)
12/15、モーツァルト(25)
モーツァルトが年俸400フローリンという高給でヴュルテンベルク公女のクラヴィーア教師に就任する話が持ちあがったが、実現しなかった。(4)
12/24、モーツァルト(25)
皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトを宮殿に呼び、ちょうど来訪中だったイタリア人音楽家ムツィオ・クレメンティとクラヴィーアの腕を競わせた。結果はモーツァルトの完全な勝利で、皇帝はこれに大いに満足したらしい。皇帝はモーツァルトに早くから注目し、その才能を高くかっていた。(1)
1782年4/10、モーツァルト(26)
4/10付の父レオポルト宛ての手紙によると、この頃モーツァルトは彼の良き理解者となるゴッドフリート・フォン・スヴィーテン男爵を通して、バッハを中心とするバロックのレパートリーに親しむようになった。毎週日曜日の12時にモーツァルトは現在ウィーンの国立図書館となっているスヴィーテン男爵のサロンへ通っていた。ここではヘンデルとバッハだけが演奏され、モーツァルトはバッハのフーガ等を持ち帰り筆写し、収集している。スヴィーテン男爵は1777年まで20年以上にわたって外交官を務め、外国赴任中にバッハやヘンデルをはじめとするバロック音楽の楽譜収集を行い、とりわけ最後の赴任地であったベルリンではバッハの息子エマヌエルや弟子たちを通じてバッハ作品の貴重な楽譜を収集した。(1)
4/12、モーツァルト(26)
ウィーン宮廷に50年間君臨した宮廷詩人の巨匠ピエトロ・メタスタージョが死去する。その後、皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽長サリエリの口利きで、ベネツィア出身のロレンツォ・ダ・ポンテを宮廷詩人に任命する。(5)
4/20頃作曲、モーツァルト(26)、クラヴィーアのためのプレリュードとフーガ ハ長調K.394
毎週日曜日スヴィーテン男爵のサロン(宮廷図書館)でバッハやヘンデルを演奏していたモーツァルトは楽譜を自宅へ持って帰ることを許されていた。このプレリュードとフーガはバッハやヘンデルを気に入ったコンスタンツェのために作曲された作品。(1)
5/29完成、モーツァルト(26)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
完成する。(1)
7/16初演、モーツァルト(26)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
ウィーンのブルク劇場で初演される。(1)
8/4、モーツァルト(26)
モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーがモーツァルトの父レオポルトの同意を得ないまま、シュテファン大聖堂で結婚式を挙げる。モーツァルトの父レオポルトはマンハイムでのアロイジア・ウェーバーとの一件以来ウェーバー家を嫌っており、コンスタンツェとの結婚にも当然大反対であった。レオポルトはお人好しの息子がやり手のウェーバー夫人にはめられたのではないかと疑っていたが、実際ウェーバー夫人は娘のコンスタンツェと交際を続けたければ、3年以内に必ずコンスタンツェと結婚し、もしそれが履行できなければ、彼女に300フローリン(約300万円)を支払うという結婚契約書を結ばせていた。(1)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
4.西川尚生著・作曲家・人と作品 モーツァルト(音楽之友社)
5.最新名曲解説全集(音楽之友社)

SEAラボラトリ

作曲家検索(約200名)、作曲家別作品検索(約6000曲)、音楽史年表検索(年表項目数約15000ステップ)で構成される音楽史年表データベースにリンクします。お好きな作曲家、作品、音楽史年表をご自由に検索ください。

音楽史年表記事編・目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?