音楽史・記事編141.プラハのドゥシェク夫人とモーツァルト
ザルツブルクからプラハに嫁いだソプラノ歌手ヨゼファー・ドゥシェクは、プラハで大ヒットしていた歌劇「フィガロの結婚」の作曲者モーツァルトを、貴族たちとともにプラハに招待し、来訪したモーツァルトと妻のコンスタンツェを別荘ベルトラムカ荘に招き歓待します。モーツァルトはプラハの興行師ボンディーニから次シーズンのための新作オペラの委嘱を受け、再度プラハを訪問したモーツァルトはベルトラムカ荘で歌劇「ドン・ジョバンニ」を完成させ、プラハ旧市内のスタボフスケー劇場で初演し大喝采を受けます。
〇モーツァルト、ザルツブルクで「アンドロメダのシェーナ」K.272を作曲する
1777年、プラハに嫁いだソプラノ歌手ヨゼファー・ドゥシェク夫人がザルツブルクに夫とともに里帰りし、モーツァルトはドゥシェク夫人のためにパイジェッロのギリシャ神話に基づくオペラ「アンドロメダ」の歌詞をそのまま使った大規模なアリアK.272を作曲しています。オペラの一場面であるこのアリアは吉田秀和氏の「モーツァルト、その生涯」によれば・・・危うく怪獣の生贄となりかかったアンドロメダが、英雄ペルセウスによって救われる。ペルセウスとアンドロメダは結婚しようとするが、王様の許しが得られず、ペルセウスは自殺しようとする。それを聞いてアンドロメダがこのアリアを歌う・・・あなたが死の国へ行くのなら、私も道連れにしてください・・・。モーツァルトはこのアリアをアンドロメダのシェーナと呼んでいました。シェーナとはオペラにでてくるような劇的なアリアのことで、モーツァルトはこれ以降、オペラなどで劇的アリアの名作を次々と作曲して行きます。
〇歌劇「フィガロの結婚」とプラハへの旅行
モーツァルトと宮廷詩人のダ・ポンテはフランスのボーマルシェのフィガロ3部作の第2作「フィガロの結婚」のオペラ化を進めます。第1作の「セビリアの理髪師」はすでにパイジェッロによってオペラ化されウィーンでも人気を得ていました。しかし、第2作の「フィガロの結婚」はその内容から貴族の堕落と無気力、それに対する庶民の健全な道徳性は社会的に影響があるとみなされ、フランスでは国王ルイ16世はその演劇上演を禁じており、ウィーンでもフランスにならい皇帝ヨーゼフ2世は演劇上演を禁じていました。ダ・ポンテはヨーゼフ2世を説得し、オペラはなんとか上演にこぎつけます。このような状況で1786年にウィーンで初演された「フィガロの結婚」はさほどの反響はなかったものの、プラハでの上演は大成功を収めていたようで、モーツァルトはプラハからの招待を受けます。なお、ウィーンでは3年後に再演が行われ、ようやくこの歌劇の真価が認められ、1814年のナポレオン戦争後のウィーン会議では、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」とともに公式演目となり連日上演が行われ、ヨーロッパ中から集まった来賓をもてなしたとされます。ボヘミアではフランス革命前夜のこの時期、自由・平等・博愛の啓蒙主義は浸透しつつあり、フス戦争以来の革新的思想が根付いており「フィガロの結婚」は大いに受け入れられたものと見られます。モーツァルトとダ・ポンテによる音楽はどのような悪人でも貶めるようなことはなく、人間としての尊厳を守り、貴族から庶民まであらゆる登場人物に対等に名曲を歌わせ、まさに博愛精神に満ち溢れた音楽による啓蒙思想の実現という面があり、プラハではフィガロ一色に染まっていたようです。モーツァルトはプラハの識者愛好家協会から招待されたとされていますが、ザルツブルクの同郷のヨゼファー・ドゥシェク夫人の影響があったものと見られ、ドゥシェク夫人は別荘ベルトラムカ荘をモーツァルトの宿舎として提供しています。
〇プラハ交響曲の作曲、初演
モーツァルトはプラハからの招待に応えるため、新作のプラハ交響曲を作曲し、プラハで初演しています。モーツァルトはウィーンに出てきてからセバスティアン・バッハの対位法の影響を受け、独自のポリフォニー様式で作曲するようになっています。この交響曲では大胆な実験を行うように作曲が行われ、管弦楽における声部は対等に扱われ、特に木管楽器は弦楽器と対等に主旋律を演奏し、展開部ではいくつもの主題声部が複雑に交錯し、これほどの対位法技法を使った音楽は音楽史においても初めてのことであり、さすがのモーツァルトも日頃は頭の中で組み立てていた対位法を、この交響曲では記譜により対位法の整合性を確かめたとされます。モーツァルトはドゥシェク夫人やプラハの支援者への感謝のためにこの斬新な新作交響曲を作曲したものと見られます。
〇歌劇「ドン・ジョバンニ」初演
モーツァルトは宮廷詩人のダ・ポンテと組んで3つのオペラ・ブッファ、「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」を作曲しています。これらはいずれも音楽史における傑出したオペラですが、その中で「ドン・ジョバンニ」はもっとも劇的な構成となっており、スペインのドン・ファンを主人公にし、オペラ冒頭からドン・ジョバンニの決闘場面が現れドンナ・アンナの父親は刺し殺され、ヨーロッパ中の女性を追いかけまわした挙句に最後には石の亡霊により奈落に落とされるというこの時代のオペラとしては異色の台本からなり、ロマン派オペラの先駆けのようにも感じられます。モーツァルトはプラハで歌劇「フィガロの結婚」で大成功を収め、プラハからの委嘱により「ドン・ジョバンニ」を作曲していますが、プラハを訪問するヨーゼフ2世の姪の大公女の歓迎オペラのために委嘱されたことからも、モーツァルトへの新作オペラ委嘱には皇帝ヨーゼフ2世の後押しがあったとも考えられます。モーツァルトは「フィガロの結婚」と同様に、登場人物には博愛の精神でそれぞれの役割を与え、極悪人であるドン・ジョバンニであっても最後まで貴族として尊厳をつらぬきます。モーツァルトが「ドン・ジョバンニ」初演のためにプラハを再訪した時、オペラは未完成でしたが、モーツァルトはドゥシェク夫人の別荘ベルトラムカ荘で作曲を行い完成させます。
〇ドゥシェク夫人のためのソプラノのためのレチタティーヴォとアリア「私のうるわしき恋人よ、さようなら-留まってください、ああ、いとしい人よ」K.528
このアリアの作曲経緯はモーツァルトの息子カール・トーマスの手記によって伝えられています。ドゥシェク夫人のために新しいアリアを作曲するという約束をなかなか実行しないモーツァルトに業を煮やしたドゥシェク夫人はモーツァルトを部屋に閉じ込める、しかしモーツァルトは半音階を多用したこの難しいアリアをドゥシェク夫人が初見で歌えなかったときは譜面は渡さないと条件を付けたとされます。
〇ベートーヴェンとドゥシェク夫人
1796年ベルリンを訪問した25歳のベートーヴェンはプラハに立ち寄り、ドゥシェク夫人のためのアリア「おお、不実なる者よ」Op.65を残しています。おそらくベートーヴェンが尊敬していたモーツァルトが話題に上ったことと思われます。1798年にはベートーヴェンはウィーンでコンサートを開いたドゥシェク夫人の慈善演奏会に名バイオリン奏者のシュパンツィヒとともに出演し、バイオリン・ソナタOp.12のうちの1曲を演奏したとされます。
【音楽史年表より】
1777年8/15作曲、モーツァルト(21歳)、レチタティーヴォとアリアおよびカヴァティーナ「ああ、私は前からそのことを知っていたの-私の目の前から消えておくれ-ああ、この波を越えて行かないで下さい」(アンドロメダのシェーナ)K.272
チーニャ=サンティの「アンドロメダ」第3幕第10場の台本による。ザルツブルク出身のソプラノ歌手ヨゼファー・ドゥシェク夫人のために作曲される。1777年ドゥシェク夫人は夫と共に故郷に帰っていた。後年モーツァルトはプラハのドゥシェク夫妻の別荘ベルトラムカ荘に滞在し、歌劇「ドン・ジョバンニ」を作曲する。なお、オペラ「アンドロメダ」は1774年のカーニバルにミラノの宮廷劇場で初演されたパイジェッロ作曲によるオペラ・セーリアである。(1)(2)
1786年4/29初演、モーツァルト(29歳)、歌劇「フィガロの結婚」K.492
ウィーンのブルク劇場で初演される。原作はフランスのボーマルシェの三部作「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「罪深き母」の第2作をロレンツォ・ダ・ポンテが台本化したものによる。皇帝ヨーゼフ2世の義弟にあたるフランス国王ルイ16世はここに描かれている貴族階級の堕落と無気力、またそれと対照的な市民階級の健全な道徳観がもたらすであろう社会的影響を考慮して上演を禁止し、またヨーゼフ2世もドイツ劇団によるこの戯曲の上演を禁じた。オペラ上演にめぐまれないモーツァルトと名誉挽回の機会をうかがっていたダ・ポンテは劇場総支配人および皇帝ヨーゼフ2世を説得し上演を果たす。(2)
1787年1/8、モーツァルト(30歳)
モーツァルトは妻コンスタンツェと何人かの友人を連れてプラハに向かう(第1回プラハ旅行)。プラハでは前年の12月に「フィガロの結婚」が上演されて大評判となり、同地の識者愛好家教会から招待を受けたのであった。(2)
1/19初演、モーツァルト(30歳)、交響曲第38番ニ長調「プラハ」K.504
プラハの国立劇場(ノスティッツ劇場)にて初演される。この演奏会では交響曲の演奏に続き、モーツァルトがクラヴィーアの即興を3曲演奏したが、その最後の曲はプラハで大人気であったフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ」の主題による変奏であったという。また、この年のプラハ訪問において、交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」も演奏された記録が残っている。更にプラハではリンツ交響曲のクラヴィーア用編曲譜の予約が74部にのぼり、交響曲も高い人気を得ていた。(2)
1/22再演、モーツァルト(30歳)、歌劇「フィガロの結婚」K.504
プラハで作曲者自身の指揮で歌劇「フィガロの結婚」K.504が上演される。モーツァルトはプラハの熱狂的な聴衆に迎えられた。(1)
2/6作曲、モーツァルト(31歳)、6つのドイツ舞曲K.509
プラハのパハタ伯爵はかねてより依頼していた作曲が一向にはかどらないことにしびれを切らし、モーツァルトを実際の定刻より1時間早く招待し、五線紙などを用意した机の前に彼を招じ入れて、食事が始まるまでの1時間でこの舞曲を作曲してもらったといわれる。(3)
2/12頃、モーツァルト(31歳)
モーツァルト、ウィーンに帰着する。(2)
1ヶ月足らずのプラハ滞在中にモーツァルトは1000フローリン(約1000万円)という大金を稼ぎだしただけではなく、プラハの劇場興行師パスクワーレ・ボンディーニから、秋のシーズンに上演する新作オペラ作曲の依頼を受けた。(1)
10/4、モーツァルト(31歳)
モーツァルト、妻コンスタンツェとともにプラハに到着する。この時、「ドン・ジョバンニ」は序曲と第2幕のフィナーレを含む約1/3が未完成であった。オペラの初演は当初、結婚したばかりのザクセン侯アントン・クレメンスと皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジア大公女のプラハ訪問を歓迎する祝賀公演として、10/14に予定されていたが、モーツァルトの作曲が間に合わなかったことや、ヨーゼフ2世がプラハで予定されていた祝賀をキャンセルしたことなどが理由で延期となり、この日は代わりに「フィガロの結婚」が上演された。(3)
1878年10/29初演、モーツァルト(31歳)、歌劇「ドン・ジョバンニ」K.527
プラハ国民劇場(現在のスタボフスケー劇場)においてモーツァルトの指揮で初演される。ドン・ジョバンニ役にはルイジ・バッシ、レポレッロ役にはフェリーチェ・ポンツィアーニ、ドンナ・アンナ役にテレザ・サポリーティなどボンディーニ一座の人気イタリア人歌手が出演した初演は大成功をおさめる。(4)
1787年11/3作曲、モーツァルト(31歳)、ソプラノのためのレチタティーヴォとアリア「私のうるわしき恋人よ、さようなら-留まってください、ああ、いとしい人よ」K.528
ヨゼファー・ドゥシェク夫人のために作曲される。なかなか約束を実行しないモーツァルトに業を煮やしたドゥシェク夫人がモールァルトをベルトラムカ荘に閉じ込めてしまったというエピソードが残される。この曲の作曲事情についてモーツァルトの息子カール・トーマスが次のように語っている・・・「モーツァルトはドゥシェク夫人のために新しいアリアを作ることを約束していたのだが、例によってなかなか書きあげない。そこで彼女はある庭に面した一室に彼を閉じ込め、作曲しおえるまで出さないとおどかした。モーツァルトはどうしてもアリアを完成せざるをえないはめとなったが、彼一流の仕方で彼女に仕返しをしたのであった。それは彼女が初見で正確に読みこなせなければ楽譜を渡さないというものであった。かなり複雑で意欲的なこのアリアはすぐれた歌手であったドゥシェク夫人にとってもかなりむずかしいことであったに違いない」。(3)
1796年2月半ば~4月半ばに作曲、ベートーヴェン(25歳)、ソプラノのためのシェーナとアリア「おお、不実なる者よ」Op.65
ベートーヴェンはイタリア語の声楽曲をサリエリに師事し多く作曲するが、この作品は1795年ウィーンで着手され、1796年プラハ滞在中に完成している。ベートーヴェンが校閲した筆写譜にはフランス語で「シェーナとアリア、プラハにて、1796年」とあり、さらにイタリア語で「レチタティーヴォとアリア、作曲ベートーヴェン、クラリ伯爵夫人に捧げる」と記されている。また、ベートーヴェンがドゥシェク夫人のために作曲したイタリア語のシェーナという記録からヨゼファ・ドゥシェク夫人のために作曲された作品であると推定されている。(5)
1798年3/29、ベートーヴェン(27歳)
ベートーヴェン、ウィーンで行われたヨゼファー・ドゥシェク夫人のための慈善演奏会でシュパンツィヒと共演し、作品12のバイオリン・ソナタの1曲を演奏する。(5)
【参考文献】
1.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
4.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
5.ベートーヴェン事典(東京書籍)
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