音楽史年表記事編96.交響詩・幻想曲創作史
標題音楽を起源とする「交響詩」という音楽様式はフランツ・リストによって始められました。幻想曲や交響的絵画など交響詩に似た様式の管弦楽曲など分類することが難しい作品が多数ありますので、本編では「交響詩」「幻想曲」と名のついた作品の創作史を見て行きます。
詩に基づく音楽はバロック期のヴィヴァルディに始まります。ヴィヴァルディはソネットに基づく四季折々の情景を、バイオリン協奏曲集である「和声と創意の試み」第1曲から第4曲の「四季」に表現しました。
交響曲においても標題を持つ楽章が現れます。ハイドンは交響曲第8番ト長調「晩」の最終楽章には「嵐」の標題をつけ、また、ベートーヴェンは各楽章に標題を持つ交響曲第6番ニ長調「田園」Op.68を作曲しています。そして、ベートーヴェンが亡くなってわずか7年後にベルリオーズは画期的な標題音楽である幻想交響曲を作曲します。この幻想交響曲を聞いたリストは深い感銘を受け、標題を持つ交響曲を進化させ、交響詩という新しい音楽様式を創始します。交響詩の多くは単一楽章構成によるシンフォニックな音楽による詩であり、交響詩によって百花繚乱のロマン派時代を迎えます。
リストはオーストリーとハンガリーにまたがるエステルハージ侯爵がもつ領地内で生まれています。神童ぶりを発揮したリストは卓越したピアノ演奏で、ヨーロッパで人気のピアニストとなります。カトリック地域に生まれたリストですが、プロテスタントのワイマールの宮廷楽長となるなど、キリスト教の宗派にはこだわりがなかったのかもしれません。その後イタリアのローマでカトリックの僧門に入り、ミサ曲などをハンガリーで演奏するなど、イタリアのローマ、ワイマール、ハンガリーそれぞれの地域で音楽活動を行っています。
交響詩はヨーロッパ各地で多くの作品が作曲されます。ロシアではムソルグスキーが交響詩「禿山の一夜」をチャイコフスキーは幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」を、ボヘミアのチェコではスメタナが6曲の交響詩による「わが祖国」を作曲しています。フランスではサン=サーンスとフランクが交響詩を作曲し、1905年にはドビュッシーが交響詩の傑作である「海」を作曲します。
また、ドイツのミュンヘンでは、プロテスタントのリヒャルト・シュトラウスが交響詩の傑作である「ドン・ファン」「死と変容」「ティル・オレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥーストラはこう語った」「英雄の生涯」などを作曲しています。イタリアではレスピーギが交響詩の三部作「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」を作曲しました。
このようにリストの交響詩は、宗派を問わずカトリックのフランスやプロテスタント地域、そしてロシアの作曲家にも広く受け入れられて行きました。
【音楽史年表より】
1830年12/5初演、ベルリオーズ(26)、幻想交響曲Op.14
パリ音楽院でベルリオーズの友人フランソワ・アブネックの指揮により初演される。リストもこの初演を聴く。ベルリオーズはこの作品を作曲する2年ほど前にベートーヴェンの交響曲を聴いて大きなショックを受けている。(1)(2)
のちに結婚することになるアイルランドの女優ハリエット・スミスソンへの思慕をベースに、ベルリオーズは5話からなる想話を創作して、これを5楽章の構成の交響曲にした。「夢、情熱」でのテンポの対比、「断頭台への行進」での特徴あるリズム、「魔女の夜宴の夢」でのまばゆいオーケストレーションなど、新しいアイデアにあふれた交響詩を予告する大作。終曲ではグレゴリオ聖歌の「怒りの日」を用いたテーマを含む3つのテーマを組み合わせ、終楽章では固定楽想がさまざまに変奏されて現れる。(3)
1850年2月初演、リスト(38)、交響詩「山岳交響曲(山上で聞くもの)」G1
初演される。ユーゴーの詩集「秋の葉」による。リストはパリでベルリオーズの幻想交響曲を聞き、深い感銘を受け、標題交響曲の方向に共感と疑問を覚えた。こうしてリストは交響詩の分野に手を染める。1853年にワイマールで初演されるが、それ以降も改訂が加えられ、1857年に現在の稿がワイマールで初演される。(1)
1854年2/16初演、リスト(42)、グルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」のための序曲(交響詩「オルフェウス」G9)
リストはワイマールの宮廷劇場でグルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」を指揮したが、その折に序曲として初演される。交響詩としては同年10/10に初演される。(2)
2/23初演、リスト(42)、交響詩「前奏曲」(レ・プレリュード)G3
ワイマールの宮廷管弦楽団の基金募集音楽会でリスト自身の指揮で初演される。リストはこの「レ・プレリュード」総譜の序文で「前奏曲」について語る・・・われわれの一生は、その厳粛な第1音が死により奏される道の歌への一連の前奏曲でなくてなんであろうか。愛はあらゆる存在の輝かしい朝やけである。しかし、嵐の怒りによって喜福の喜びが中断されてしまわないというどのような運命があるだろうか・・・。リストは「人生は死への前奏曲である」とする詩をもとにして交響詩を作曲する。(1)
1867年6/23作曲、ムソルグスキー(28)、交響詩「聖ヨハネ祭前夜の禿山(「禿山の一夜」の原典版)
ムソルグスキーが作曲した原典版はムソルグスキーの生前には演奏されず、現在では1886年にリムスキー=コルサコフが改訂した版によって演奏されている。ムソルグスキーは未完の歌劇「ソロチンスクの市」で用いる予定にしていた「若者の夢」という合唱・管弦楽曲をスケッチしていたが、これが交響詩の原曲とされる。(1)
1877年2/25初演、チャイコフスキー(36)、管弦楽のための幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」Op.32
ニコライ・ルビンシテインの指揮によりモスクワで開かれたロシア音楽協会の演奏会で初演される。フランチェスカに基づく、ダンテの神曲第5歌の深い感動を音楽に描写した。フランチェスカのエピソードはチャイコフスキーが生涯を通して表現しようとした「宿命に逆らい、真実の愛を求めて戦う人間」のテーマそのものであった。(1)
1875年4/4初演、スメタナ(51)、交響詩「わが祖国」第2曲「モルダウ(ヴルダヴァ)」ホ短調
アドルフ・チェフの指揮で初演される。この河は2つの水源から発し、次第にその幅を増して行く・・・やがて流れは聖ヨハネの急流にさしかかり、波しぶきをあげて飛び散る。ここから河はプラハ市に流れ込み、ここで河は古く貴いヴィシェフラドに敬意を表する。(1)
1882年11/5全曲初演、スメタナ(58)、交響詩「わが祖国」
全6曲を通しての初演がプラハで行われる。この連作交響詩は1874年10月にまったく耳が聞こえなくなったスメタナによって、1879年までに作曲される。この「わが祖国」全6曲はスメタナの命日に開催されるプラハの春と呼ばれる音楽祭の初日の5/12に毎年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されている。(1)
1889年11/11初演、R・シュトラウス(25)、交響詩「ドン・ファン」Op.20
ワイマールの宮廷劇場で作曲者自身の指揮で初演される。ドイツの詩人ニコラウス・レーナウの「劇的な詩」と題する「ドン・ファン」にもとづく。R・シュトラウスは交響的幻想曲「イタリアから」ト長調Op.16と交響詩「マクベス」Op.23を作り上げてから、この交響詩に着手し1888年に完成する。(1)
1895年11/5初演、R・シュトラウス(31)、交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」Op.28
ケルンのギュルツェニヒ管弦楽団演奏会でフランツ・ヴェルナーの指揮で初演される。(1)
このティルのいたずら者のことは当時のドイツではかなりよく知られていた。シュトラウスはこの曲のストーリーを次のように示している・・・むかし、ひとりの陽気な道化者がいた。その名はティル・オイレンシュピーゲル。彼はひどいいたずら者だった。・・新たな行動に、待て偽善者よ・・ひと足で7マイルもゆけるという長靴をはいて逃げる・・・(4)
1899年3/3初演、R・シュトラウス(33)、交響詩「英雄の生涯」Op.40
フランクフルトでシュトラウス自身の指揮、ヴィリー・ヘスの独奏バイオリンで初演される。(1)
曲は指揮者のメンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に献呈される。シュトラウスはユーモアを込めて「ベートーヴェンの英雄交響曲はたいへんに好まれないものである。そこで私は、このさし迫った必要性から、いま英雄の生涯という題をつけて交響詩を作曲している・・・」、英雄は剣を持ち、楯をかかえた騎士である。ここで剣をペンに、楯を五線紙と考えれば、英雄はシュトラウス自身であるとみられないこともない。(4)
1905年10/15初演、ドビュッシー(43)、管弦楽のための3つの交響的素描・交響詩「海」
カミュ・シュヴィヤール指揮ラムルー管弦楽団によって初演される。(名曲解説全集より)
ドビュッシーの「海」がきかせたこの上なく複雑で、しかも洗練されぬいたリズムのポリフォニーは、それまでの管弦楽にはかつて書かれたことがないものだった。なお、出版譜の表紙には葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」が描かれていた。(5)
【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.福田弥著・作曲家・人と作品シリーズ リスト(音楽之友社)
3.ブノワ他著・岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・R・シュトラウス(音楽之友社)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・ドビュッシー(音楽之友社)
SEAラボラトリ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?