音楽史・記事編109.アン・デア・ウィーン劇場
ベートーヴェンはウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、円熟期の中期の多くの作品を公開初演し、交響曲では第2番ニ長調、第3番変ホ長調「英雄」、第6番ニ長調「田園」、第5番ハ短調、また歌劇「フィデリオ」初稿および第2稿、ピアノ協奏曲では第3番ハ短調、第4番ト長調、その他バイオリン協奏曲ニ長調などベートーヴェンの中期の傑作のほとんどが初演されています。アン・デア・ウィーン劇場はモーツァルトの歌劇「魔笛」を上演したシカネーダーが1799年から1801年に建設した新しい劇場で、ベートーヴェンはシカネーダーに劇場付き作曲家として雇われ、劇場の2階には住居も提供され、1803年1月にはシカネーダーと契約し、弟のカールとともに引っ越し、創作活動を行います。シカネーダーはウィーンで大ヒットしたモーツァルトの「魔笛」の10年にわたるロングラン公演を行い、莫大な収益をあげたようで、ウィーンの北のヌスドルフには豪邸を構え、さらにはフライハウスのヴィーデン劇場に代わる新しいアン・デア・ウィーン劇場の建設を行います。そして、ウィーンの新進気鋭のベートーヴェンと契約したわけですが、さすがに新劇場建設の負担によるものと思われますが、1804年2月には新劇場はブラウン男爵に買収されます。
ベートーヴェンは1803年10月頃に、未亡人となっていたヨゼフィーネに再会しピアノレッスンを再開しています。ヨゼフィーネとの仲は急速に縮まり翌年3月には歌曲「希望に寄せて」を贈り、ヨゼフィーネを喜ばせています。新作の歌劇「レオノーレ」は「夫婦の愛の勝利」の副題を持っており、この歌劇がヨゼフィーネのためのオペラであることをうかがわせています。しかし、この時期にイタリアで勝利したナポレオン軍がウィーンに侵攻しており、「フィデリオ」に改題された歌劇の初演は失敗に終わり、翌年の改訂稿の第2稿初演時にはベートーヴェンは興行主のブラウン男爵に侮辱され大喧嘩となり、ベートーヴェンは総譜を回収し結果的には2公演のみでやはり失敗に終わっています。「フィデリオ」その後、1814年の最終稿初演で大成功を収めることとなります。
歌劇上演が不首尾に終わったベートーヴェンは、歌劇に代わり自身が得意としている交響曲で「ヨゼフィーネとの愛の勝利」を表現しようとしたのではないかと思われます。すなわち自身のヨゼフィーネへの愛の芽生えと高まりをテーマとした交響曲第4番変ロ長調、ヨゼフィーネの生まれ育ったマルトンヴァシャールの大自然を描いた交響曲第6番ニ長調「田園」、ヨゼフィーネとの愛の勝利をテーマとした交響曲第5番ハ短調の3曲の連作交響曲ではないかとの仮説が考えられます。1808年12月、アン・デア・ウィーン劇場で、寒さと混乱の中、第6番田園交響曲と第5交響曲が初演されます。
モーツァルト、ベートーヴェンが歩んだフリーランス作曲家の苦難の道は、ロッシーニによって興行主から作品の所有権を奪い取ることにより改善され、作曲家にも興行収入の一部が還元され、従って優れた作品を書いた作曲家には相応の報酬が得られることとなり、このことにより多くのロマン派作曲家が誕生することとなります。
また、ロマン派期にはアン・デア・ウィーン劇場では、ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」やレハールの「メリー・ウィドゥ」など、多くの喜歌劇が初演されています。
【音楽史年表より】
1803年1月頃、ベートーヴェン(32)
ベートーヴェン、アン・デア・ヴィーン劇場監督エマヌエル・シカネーダーと作曲の契約を結び、同時に劇場内の住居を提供される。(1)
1803年4/6初演、ベートーヴェン(32)、交響曲第2番ニ長調Op.36
アン・デア・ヴィーン劇場における自主演奏会で初演される。曲はカール・リヒノフスキー侯爵に献呈される。初演日のプログラムは完成されたばかりのオラトリオ「オリーヴ山上のキリスト」Op.85、交響曲第1番ハ長調Op.21、ピアノ協奏曲第3番ハ短調Op.37とこの新作のニ長調交響曲であり、交響曲第1番以外の3曲はいずれも公開初演された。(1)
4/6初演、ベートーヴェン(32)、オラトリオ「オリーヴ山上のキリスト」Op.85
アン・デア・ヴィーン劇場における自主演奏会で初演される。(1)
4/6初演、ベートーヴェン(32)、ピアノ協奏曲第3番ハ短調Op.37
アン・デア・ヴィーン劇場においてベートーヴェンの独奏により初演される。初演当日、独奏者ベートーヴェンの譜めくりをしたザイフリートが、独奏パートはほとんど白紙同然でわからないエジプトの象形文字のようなものが書かれてあるだけであったと言っているように、独奏パートのかなりの部分は即興演奏で行われた。出版時に初めて独奏パートを書き下ろすことがベートーヴェンの習慣であったと思われる。(1)(2)
1804年2/14、ベートーヴェン(33)
宮廷劇場支配人のペーター・フォン・ブラウン男爵がアン・デア・ヴィーン劇場を買収し、同劇場の監督がシカネーダーからゾンライトナーへ交替することになる。(1)
4月頃、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、シカネーダーとの契約が無効となり、アン・デア・ヴィーン劇場内の宿舎を出て、シュテファン・フォン・ブロイニングが住んでいたグラシス173番地の「ローテ・ハウス」に転居する。この頃、ベートーヴェンはブロイニングを通じてイグナツ・フォン・グライヒェンシュタイン男爵と知り合う。(3)
5/20、ベートーヴェン(33)
ナポレオンがフランス皇帝を宣言する。(1)
7月初め、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、シュテファン・ブロイニングと仲違いをして、バーデンに移る。(1)
5月末~6月初め頃私的初演、ベートーヴェン(33)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸(現演劇博物館)で私的に初演される。フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。(1)
8月末頃、ベートーヴェン(33)
シカネーダーがアン・デア・ヴィーン劇場監督に復帰する。(1)
10月頃、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、ウィーンへ戻る。未亡人となっていたヨゼフィーネ・ダイムと再会し、ピアノ指導を通じて次第に親密になる。(1)
11月、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェンは自分の最も優れた肖像画と認めていたホルネマンによる細密画と心を込めた謝罪の手紙をシュテファン・ブロイニングに送り、和解する。(2)
1805年3/24、ベートーヴェン(34)、歌曲「希望に寄せて」Op.32
ダイム伯爵未亡人ヨゼフィーネは母親に宛てた手紙で「素敵なベートーヴェンが私に愛らしいリートを贈ってくれました。詩集『ウラーニア』から選んだ『希望に寄せて』によるリートを私のために作曲してくれました」と喜びを語る。(3)
4/7公開初演、ベートーヴェン(34)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
ウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場における劇場バイオリン奏者のフランツ・クレメント主催の演奏会で公開初演される。(1)
11/20初演、ベートーヴェン(34)、歌劇「フィデリオ」(レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利)Op.72第1稿
アン・デア・ウィーン劇場でフランス軍が駐留する異様な情勢の中で「フィデリオ」は初演日を迎える。ウィーンのオペラの聴衆は富裕な市民と貴族であったが、そのほとんどが疎開してしまい、今やフランス軍が駐留する異様な情勢の中で「フィデリオ」は初演日を迎える。聴衆は数人のベートーヴェンの友人を別とすれば、ほとんどが駐留軍のフランス兵士であった。原作小説はフランスのジャン・ニコラ・ブイイの「レオノール、あるいは夫婦の愛」。ベートーヴェンはゾンライトナーのリブレットが完成する1804年初め頃には早くも作曲に着手し、1805年夏頃までにほぼ全曲を完成させた。初演興業は11/20、11/21、11/22の3日間で打ち切られ、失敗に終わる。初演後に疎開せずにウィーンにとどまっていたリヒノフスキー侯爵夫妻や劇場オーケストラ指揮者でバイオリニストのフランツ・クレメンスら、ベートーヴェンの友人たち11人が集まって夜会を開き「フィデリオ」の欠点や改訂、改作の必要性について具体的な見直しがなされ、頑固に拒否するベートーヴェンを説得し改訂を促すことになる。第1稿の失敗の最大原因は第1幕の長大さにあるという結論に達し、ベートーヴェンは台本の改訂をシュテファン・フォン・ブロイニングに依頼した。(1)
11/20初演、ベートーヴェン(34)、序曲「レオノーレ」第2番
ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」(レオノーレ)第1稿初演時の序曲として初演される。(1)
1806年3/29初演、ベートーヴェン(35)、歌劇「フィデリオ」(レオノーレ)Op.72第2稿
ウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場で第2稿がイグナツ・ザイフリートの指揮で初演される。序曲にはレオノーレ第3番が用いられる。台本の改訂はベートーヴェンのボン時代からの友人シュテファン・フォン・ブロイニングによって行われた。(1)
3/29初演、ベートーヴェン(35)、序曲「レオノーレ」第3番Op.72
ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」第2稿初演時に序曲として初演される。(1)
12/23初演、ベートーヴェン(35)、バイオリン協奏曲ニ長調Op.61
アン・デア・ヴィーン劇場にて、クレメントのバイオリン独奏で初演される。この作品の初演の評価は芳しいものではなかった。人々が喝采したのは協奏曲ではなくて、演奏会の最後に演奏されたクレメントの自作自演のファンタジアであった。(1)
1807年3月試演、ベートーヴェン(36)、交響曲第4番変ロ長調Op.60
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸で行われた私的な演奏会で初演される。(1)
1808年12/22初演、ベートーヴェン(38)、ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会でベートーヴェンのピアノ独奏で初演される。曲はルドルフ大公に献呈される。この第4番の公の初演で、交響曲第5番が共に初演されたことは大きな意味を持つ。ノッテボームはベートーヴェニアーナにおいて指摘しているように、この2つの作品は同じスケッチ帳の中に並んで登場してきており、その創作過程は重複していた。このスケッチではすでに協奏曲の主題は今日の形に非常に近いものになっており、そこからノッテボームは同音連打基礎動機から2つの作品が発展していったと仮定している。(1)
12/22初演、ベートーヴェン(38)、交響曲第6番ヘ長調「田園」Op.68
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会で初演される。(1)
12/22初演、ベートーヴェン(38)、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会で初演される。(1)
12/22初演、ベートーヴェン(38)、合唱幻想曲ハ短調Op.80
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会で初演される。演奏は途中でズレが生じたため中断し、ベートーヴェンの怒号がホールに響き渡るという惨憺たる失敗に終わる。演奏が中断した後、曲は冒頭から再び開始されたという。バイエルン王マクシミリアン・ヨーゼフに献呈される。(1)
1871年2/10初演、ヨハン・シュトラウス2世(45)、喜歌劇「インディゴと40人の盗賊たち(千夜一夜物語)」
ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演される。(5)
1874年4/5初演、ヨハン・シュトラウス2世(48)、喜歌劇「こうもり」
ウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場で初演される。(4)
1885年10/24初演、ヨハン・シュトラウス2世(59)、喜歌劇「ジプシー男爵」
ヨハン・シュトラウスの60歳の誕生日の前日に、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演される。(5)
1905年12/30初演、レハール(35)、喜歌劇「メリー・ウィドゥ」
ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、レハールの指揮で初演される。(5)
【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
3.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
4.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
5.最新名曲解説全集(音楽之友社)
SEAラボラトリ
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