音楽史年表記事編35.ベートーヴェン、ブルンスヴィク姉妹にピアノを教える
ラトビア出身のラウドン将軍は女帝マリア・テレジアに元帥として召し抱えられ、オーストリア軍の将軍としてプロイセンなどと戦い、国民からは絶大な人気を誇っていました。ハイドンはラウドン将軍の人気にあやかり、交響曲第69番変ロ長調「ラウドン」を作曲しています。1790年ラウドン将軍が亡くなると、当時ウィーン市内の観光地として人気のあったミューラー美術館のミューラーことダイム伯爵は美術館内に新たにラウドン将軍像を蝋人形で製作しラウドン廟として開設しさらに人気を集めますが、モーツァルトは1791年このラウドン廟の自動オルガンのための荘厳なオルガン曲を作曲します。モーツァルトの義妹のゾフィーの手記によれば、モーツァルトが亡くなった時、そのデスマスクを採ったのはミューラーさんことダイム伯爵とされます。
また、ベートーヴェンはウィーンに出てきてからハンガリー貴族のズメスカルとは最も親しい友人となっていましたが、1799年5月におそらくズメスカルの姪にあたると考えられているブルンスヴィク姉妹が母親とともにウィーンを訪れます。その目的は年ごろになった娘たちの婿探しであったとされます。この時期にはベートーヴェンのピアノ三重奏曲Op.1や3曲のピアノ・ソナタOp.2などが出版されており、姉妹はベートーヴェンのピアノ曲に心酔していたようで、ベートーヴェンと親しかったズメスカルの紹介で姉妹はベートーヴェンから直々にピアノレッスンを受けるようになったものと考えられます。
姉妹は母親とともに観光のためにミューラー美術館を訪問します。ここで美術館の経営者のダイム伯爵に会いますが、ダイム伯爵は容姿端麗な妹のヨゼフィーネに一目惚れし、強引な求婚の末に2ヶ月も経たないうちに結婚式を挙げます。ダイム伯爵はヨゼフィーネの母親と同年で、19歳と若い花嫁の言いなりになっていたのか、結婚後もベートーヴェンはピアノのレッスンを継続し、ベートーヴェンの進言により毎週ダイム邸で音楽会を開催していました。ヨゼフィーネはベートーヴェンの新作の楽譜を手に入れると、嬉々としてハンガリー・マルトンヴァシャールの姉のテレーゼのもとに送り届けています。
ベートーヴェンはテレーゼ、ヨゼフィーネ姉妹と親交を深めますが、生涯にわたってベートーヴェンの人生に、あるいは人生観に、また創作になど、多方面に影響を及ぼすことになります。
【音楽史年表より】
1775年か76年あるいは79年までに作曲、ハイドン(43~47)、交響曲第69番変ロ長調「ラウドン」Hob.Ⅰ-69
楽譜の売れ行きを伸ばすためにハイドン自身によって当時のオーストリアの有名な将軍ラウドン元帥の名がニックネームに付けられている。ハイドンの言葉によれば「ラウドンの名前はフィナーレを10通り作るよりも売れ行きを伸ばすだろう」。(1)
1791年3/3作曲、モーツァルト(35)、自動オルガンのためのアレグロとアンダンテヘ短調K.608
3月から8月にかけてウィーンのラウドン元帥廟でミューラーの自動オルガンで鳴らされた葬送音楽であろうと推定される。1799年にクラヴィーアのための4手用幻想曲として出版される。(2)
5/4作曲、モーツァルト(35)、自動オルガンのためのアンダンテ ヘ長調K.616
K.608と同様にミューラーの自動オルガンのための曲。この年の半ばころクラヴィーアのためのロンド ヘ長調として出版される。(2)
12/5、モーツァルト(35)
午前0:55、妻コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはその生涯を閉じる。(2)
1799年5月、ベートーヴェン(28)
ハンガリー貴族のブルンスヴィク家のテレーゼとヨゼフィーネが婿選びの準備のために母アンナに連れられウィーンに来る。母アンナは二人の音楽的才能を大事にしていたので、ニコラウス・ズメスカルを仲介にして、ベートーヴェンにピアノのレッスンを受けさせようとした。ハンガリー出身で当時ベートーヴェンの最も身近におり、最も気のおけない友人であったズメスカルはブルンスヴィク令嬢の叔父にあたるといわれるが、系図としては明瞭ではない。(3)
ベートーヴェン宅を訪問した時、テレーゼは調子の狂ったピアノにもめげず、ベートーヴェンの三重奏曲のバイオリンとチェロのパートを歌いながらピアノ・パートを弾くという芸当をやってのけ、ベートーヴェンを感激させる。こうしてそれから16日間ベートーヴェンは伯爵家の滞在する金の鷲ホテルに通いつめ、テレーゼとヨゼフィーネを熱心に教えることになった。(4)
5/23作曲、ベートーヴェン(28)、ゲーテの詩「君を想う」による歌曲とピアノ連弾のための6つの変奏曲WoO74
ウィーンを訪れたテレーゼ、ヨゼフィーネ姉妹に16日間にわたってピアノレッスンを行ったベートーヴェンは5/23付で令嬢たちの記念帳に1曲の歌曲とそれに基づく4つの変奏曲をしたため、次のような言葉を添えた・・・「願わくば時折お二人がこのささやかな音楽の捧げ物を演奏したり、歌ったりして下さり、お二人を真実敬愛申し上げるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのことを想い出してくださいますように」。1805年1月の出版では6つの変奏曲に改訂され、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人とテレーゼ・ブルンスヴィク伯爵令嬢に献呈された。(4)
6/29、ベートーヴェン(28)
ウィーンを訪れたブルンスヴィク伯爵令嬢ヨゼフィーネはミューラー美術館館主であるヨーゼフ・ダイム・フォン・ストリッテッツ伯爵に見初められ、強引な求婚の末、早くも6/29に結婚する。ヨゼフィーネの母アンナの思惑は「金持」で趣味もあるダイムと娘を結婚させ、傾いていたブルンスヴィク家の財政を建て直そうというところにあったのであろう。結婚直後は派手にダイム邸で音楽会を毎週催し、ベートーヴェンをはじめいずれもベートーヴェンと親密な音楽家が集まっていた。翌1800年になるとここにヨゼフィーネの従妹ジュリエッタ・グイッチャルディが登場し、ベートーヴェンの心を奪うことになる。(3)
【参考文献】
1.中野博詞著・ハイドン復活(春秋社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.小松雄一郎編訳・ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
4.ベートーヴェン事典(東京書籍)
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