音楽史年表記事編95.ウィーンの旧ブルク劇場
旧ブルク劇場は当時のウィーン王宮に隣接し、ホーフブルク中央部の左に劇場の入口が見られます。このブルク劇場ではモーツァルトのオペラやハイドンのオラトリオ、ベートーヴェンの交響曲など多くの作品が初演されています。
1782年7月、モーツァルトはブルク劇場で、ドイツ語のオペラ「後宮からの誘拐」を初演します。後宮からの誘拐はトルコの後宮を舞台とするオペラで、モーツァルトはトルコ音楽の効果を上げるためにシンバルやトライアングルなどを使用しています。後宮からの誘拐はモーツァルト存命中最も上演回数の多かったオペラで、ヨーロッパ各地で上演されます。ロマン派期であればこれだけの上演が行われれば作曲者にもかなりの興行料の還元が行われることになりますが、モーツァルトの時代には作曲者には作曲料の収入があるのみで、作曲者に対する報酬改革は、モーツァルトに続くロッシーニによってなされることになります。
皇帝ヨーゼフ2世はウィーンに長く君臨した宮廷詩人メタスタージョが亡くなった後の後任に、イタリア・ベネツィア生まれのロレンツォ・ダ・ポンテを採用します。モーツァルトはダ・ポンテと組んでオペラ・ブッファの最高傑作である「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」を作曲します。このうちフィガロの結婚とコシ・ファン・トゥッテはブルク劇場で初演し、ドン・ジョバンニはプラハで初演した後、翌年にはブルク劇場で追加稿を初演しています。
また、ホーフブルクの前にはミヒャエル教会がありますが、ここではモーツァルトが亡くなった5日後にモーツァルトを追悼するミサが行われ、未完のレクイエムK.626の導入唱とキリエが初演されたとされています。
ハイドンは1799年3月にオラトリオ「天地創造」をブルク劇場で初演しています。ハイドンはロンドンのウェストミンスター寺院で2000人の合唱団によって演奏されたヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」HWV56を聴き、オペラを上回る迫力に圧倒され、そのころからオラトリオ「天地創造」の作曲を思いついたものと見られます。イギリスからの帰国時には旧約聖書の創世記とミルトンの失楽園から作られた英語版の台本を持ち帰り、スヴィーテン男爵がドイツ語の翻訳台本を作成し作曲を行っています。
1800年4/2、ベートーヴェンは自身はじめての自主演奏会をブルク劇場で開催し、交響曲第1番ハ長調Op.21、七重奏曲変ホ長調Op.20を初演します。この演奏会では当時絶大な人気のあったベートーヴェンのピアノ即興演奏のほか、モーツァルトの交響曲、ハイドンのオラトリオ「天地創造」抜粋が演奏されたとされます。
1801年3月にはバレエ「プロメテウスの創造物」がブルク劇場で上演されます。ベートーヴェンはバレエの振付師ヴィガノからの依頼でバレエ音楽を作曲し、第16曲はのちに交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55の終楽章の主題に用いられます。このバレエ音楽はリヒノフスキー侯爵夫人マクシミリアーネに献呈されます。リヒノフスキー侯爵夫人はウィーンに出てきたベートーヴェンを自宅に住まわせ、夕食時には自身と同じテーブルにベートーヴェンの席を設けさせ、召使いには何よりも作曲家の意向を優先させるように命じるなど、ベートーヴェンを丁重に扱い、初めてのウィーンでの生活でベートーヴェンがもっとも恩義に感じた人であったようです。1804年5月ベートーヴェンがロプコヴィッツ侯爵邸で英雄交響曲を試演した折には、おそらくリヒノフスキー侯爵夫人マクシミリアーネはこの試演に立ち会い、第4楽章ではベートーヴェンが自身に献呈してくれたバレエ音楽の主題が現れ大いに喜んだものと思われます。
【音楽史年表より】
1782年7/16、モーツァルト(26)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
ブルク劇場で初演される。「後宮」の台本に対してモーツァルトは尻込みせずに逆に彼の若い情熱を音楽に傾注し、同時代の人たちをあっと言わせる作品を書き上げた。彼らが目を見張ったのは、その総譜の豊かさであった。ここまでの彼はグルックの”オペラ改革”を横目に見て通り過ぎていたが、それはグルックの改革の対象がオペラ・セリアだったからである。モーツァルトの書いた成熟期のオペラはオペラ・ブッファとオペラ・セリアの合いの子である。グルックの有名な”改革”が音楽史上の注目すべき偉大な功績だとする説には疑問がある。もし、オペラの改革ということを口にするとすれば、オペラの構造を革命的に変えてしまったのは、グルックではなくてモーツァルトだからである。(1)
1786年5/1、モーツァルト(30)、歌劇「フィガロの結婚」K.492
ブルク劇場で初演される。フィガロ役はバリトンのフランチェスコ・ベヌッチ、伯爵には84年からブルク劇場に雇用されたステファノ・マンディーニ、妻のマリーア・マンディーニがマルチェリーナを歌う。伯爵夫人はルイーザ・ラスキ、スザンナ役にはイタリア人を父に持つイギリス生まれのナンシー・ストレース、作曲家であった兄ステファン・ストレースはモーツァルトと親しい間柄であった。ケルビーノにはドロテア・ブッサーニ(旧姓サルディ)、モーツァルトの友人で晩年に回想記を書いたマイケル・ケリーはバジーリオとドン・クルツィオ役を演じる。また、バルバリーナ役のゴットリープは12歳になったばかりで、5年後の「魔笛」の初演ではヒロインのパミーナを演ずることになる。「フィガロの結婚」は年内に9回上演されただけで打ち切りとなった。ウィーンの聴衆にその真価が理解されるのは89年8月の再演以降となる。続いて「フィガロの結婚」はプラハで上演され、熱狂的に受け入れられる。(2)(3)
1788年5/7、モーツァルト(32)、歌劇「ドン・ジョバンニ」K.527(追加稿)
前年プラハで初演され大好評であった「ドン・ジョバンニ」が、5/7を初日としてウィーンのブルク劇場で上演される。このシーズンを通じて15回の上演が行われた。(2)
1790年1/26、モーツァルト(34)、歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」K.588
ブルク劇場で初演される。「コシ・ファン・トゥッテ」はダ・ポンテのオペラの中ではもっとも上演の難しいものであり、モーツァルトのオペラとしてはもっとも複雑なものである。多くの点で、このオペラは、モーツァルトのほかのオペラより通人向けにしつらえられた特別な夢の世界に連れて行ってくれるものである。ここでの重唱はサイズの点でも複雑さの点でも、モーツァルト自身が「フィガロの結婚」によって拡張したその境界線を越えるものがある。オーケストラの使い方も大胆で、これまでにない感情移入が見られる。劇自体は陽気な笑劇だが、ある瞬間、ひどく深刻なものとなる。それを作曲者と同じくわれわれも真面目に受け取ってもいいし、気軽に笑い飛ばしてもいいように作られている。(1)
1791年12/10、モーツァルト(没後)、レクイエム ニ短調K.626、「イントロイトゥス」「キリエ」?
ホーフブルク前にある聖ミヒャエル教会で行われたモーツァルトを追悼するミサで初演される。モーツァルトは「魔笛」初演後10月からレクイエムの本格的な作曲を始めたが、12/5亡くなったとき完成していたのは「イントロイトゥス」のみで、「キリエ」「セクエンツィア」「オッフェルトリウム」は歌唱声部とバス、器楽声部の主要音型が書かれ、「ラクリモサ」は8小節のみ作曲されていた。(4)
1799年3/19、ハイドン(66)、オラトリオ「天地創造」
ブルク劇場で初演される。オラトリオ「天地創造」Hob.ⅩⅩⅠ-2、ウィーンのブルク劇場で公開初演される。ハイドンはオラトリオを教会のためのものとはせず、どこまでも一般民衆のためのものとして作曲した。次に作曲するオラトリオ「四季」は特にそうであるが、民衆的ということが彼の作品の特徴であった。ハイドンは天地混沌たる宇宙を描き、天と地と、陸と海と、野山と河と漸次形成されていく神の創造を描写し、最初の光を輝く管弦楽でうつしている。草木生物の生起には巧みな管弦楽でこれを表現し、最後に人間の最初の生活を賛美している。(5)
1800年4/2、ベートーヴェン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
ブルク劇場で初演される。この交響曲は最終的にヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されるが、当初はボンのマクシミリアン・フランツ選帝侯への献呈が予定されていた。しかし、フランス軍の侵攻により既にボンの宮廷は消滅しており、選帝侯は各地を転々としたのち、1797年からウィーンのシェーンブルン宮殿の近くのヘッツェンドルフで孤独な晩年を送り、1801年7/26に亡くなった。(6)
4/2、ベートーヴェン(29)、七重奏曲変ホ長調Op.20
ブルク劇場で初演される。演奏はVn:シュパンツッヒ、Vla:シュライバー、Vc:シンドレッカー、Cb:ベーア、Cl:ニッケル、Fg:マタウシェク、Hr:ディーツェルによって行われる。作品は皇帝フランツ2世の后マリア・テレジアに献呈される。七重奏曲はベートーヴェンの生前では最も人気のあった作品の一つで管楽11重奏、ギター二重奏、ピアノ独奏まで少なくとも10種類の編成の編曲版楽譜が出回っていた。(7)
4/18、ベート―ヴェン(29)、ホルン・ソナタ ヘ長調Op.17
ブルク劇場におけるホルン奏者ジョバンニ・プントのアカデミーにおいて、プントとベートーヴェンによって初演される。この作品はフェルディナンド・リースと共にウィーンを訪問していたボヘミアのホルン奏者ジョバンニ・プント(本名ヨハン・ヴェンツェル・シュティヒ)のために1800年に作曲される。ベートーヴェンは管弦楽におけるホルンの活用がいかに作品に大きな幅と深みをもたらすかを知りぬいており、この楽器の性能について十分な研究を行っていたことが窺われる。そのことが結果的に珍しいホルン・ソナタを生み出す機縁となったように思われる。(7)
1801年3/28、ベート―ヴェン(30)、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」Op.43
ブルク劇場においてサルヴァトーレ・ヴィガノの振付、主演で舞台上演される。ヴィガノは1797年から1803年までの4年間ウィーンに滞在しており、この時期にベートーヴェンと出会い、自ら主役を演じる新作バレエ音楽の作曲を依頼した。作曲は1800年初めから1801年春頃に行われる。第16曲は英雄交響曲の終楽章に転用される主題で始まる。曲はリヒノフスキー侯爵夫人に献呈される。(7)
1807年11/15、ベート―ヴェン(36)、交響曲第4番変ロ長調Op.60
ブルク劇場で行われた慈善演奏会で公開初演される。(7)
【参考文献】
1.R・ランドン著・石井宏訳、モーツァルト(中央公論新社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
4.西川尚久著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
5.遠藤宏著・ハイドンの生涯(岩波書店)
6.KINSKY-HALM・Das Werk Lutwig van Beethovens(G.Henle Verlag 1955)
7.ベートーヴェン事典(東京書籍)
SEAラボラトリ