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音楽史・記事編137.キリスト教の成立、民族大移動と音楽史

 西洋文明の起源となった華やかな古代ギリシャは、紀元前146年に共和制を敷くローマに敗北しその長い歴史に幕を下ろし、地中海一帯は巨大国家ローマが支配するようになり、紀元前27年にはアウグストゥスが皇帝位に就き正式にローマ帝国となります。この時期に旧約聖書が成立し、キリスト生誕後には新約聖書が成立します。西洋文化の根源となるキリスト教の聖書はかなり膨大で、その教義については日本人の我々にとってかなり難解です。本編では聖書の成立について簡単に概観し、グレゴリオ聖歌が成立する10世紀ころまでのヨーロッパの状況、そして現代でも聴くことのできる旧約聖書、新約聖書の物語による音楽を見て行きます。

〇キリスト教の成立と音楽史
 ユダヤ教の正典でもある旧約聖書はBC2世紀頃にヘブライ語によって成立したとされます。旧約聖書は創世記に始まりモーゼの十戒やイスラエル建国の物語、さらにヨシュア、デボラ、サムソン、サウル、ソロモンなどの志士たちの歴史物語がつづられます。イエス・キリストが生まれ、キリスト教が始まりますが、キリストの受難の物語等は2世紀ころまでに新約聖書として、ギリシャ語で成立します。ローマ帝国は392年にキリスト教を国教に定めます。395年には帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分離し、ラテン語とギリシャ語を公用語としていたローマ帝国において、西ローマ帝国では主にラテン語が使われており、495年にキリスト教の総主教座のおかれたローマではヒエロニムスによって聖書はラテン語に翻訳されます。キリスト教が成立し、キリスト教の伝道者たちによって普及活動が始まり、各地に教会が建てられます(1)。聖書が生まれるこの時期に、教会等で音楽が演奏されたかどうかは分かりませんが、カトリック教会では主にキリストや聖母マリアをたたえるモテットやミサ曲が歌われるようになり、さらにドイツやイギリスなどのプロテスタント地域では旧約聖書、新約聖書に書かれた物語がオラトリオや受難曲などとして演奏されるようになります。

〇西ローマ帝国の盛衰とゲルマン民族大移動、フランク王国の拡大
 ここで、キリスト教成立以降のグレゴリア聖歌登場までのヨーロッパの状況について簡単に見て行きます。ローマ帝国はライン川とドナウ河を北の国境とし、北方のゲルマン民族と長く対峙していました。南方のローマ帝国では牧畜と農業により糧を得ていましたが、北方のゲルマン民族は豊かな漁場を有し、タラの干物などは長期保存に適したことから遠洋航海を行うための航海術を発展させます。おそらく恵まれた糧食の確保が可能であったことから人口が増加し、また武力にも優れたことから暖かい南方のヨーロッパ各地に民族大移動と呼ばれる移住を始めたものと思われます。378年南下したゲルマンのゴート族はコンスタンチノーブル近郊のハドリアノポリスの戦いでローマ帝国軍を打ち破り、参戦したローマ皇帝は戦死し、これが原因となりローマ帝国は東西に分裂することになったとされます。ゴート族はイタリア、フランス、スペインに侵攻し、451年にはフランス・ガリア地方に侵入した遊牧民族のフン族に対し、ローマ軍とともに戦い、フン族を撃破し、西ローマ帝国傘下の西ゴート国を建国します。フランス東部にはポーランドから進出したブルグント族が、イタリア北部ではスカンジナビアから進出したランゴバルト族が王国を築き、これらはブルゴーニュ、ロンバルディアの起源となります。このようにゲルマン民族が進出する中、西ローマ皇帝はその影響力を失い、476年東ローマ帝国皇帝ゼノンにより西ローマ帝国皇帝の廃位が決定し、西ローマ帝国は帝国として消滅します。しかし、ローマのカトリック教会はその影響力を維持し、ゲルマンにとって新たに建国された王国は宗教的にはローマ・カトリック教会の傘下に入り旧来の帝国体制はカトリック教会によって維持されました。ローマ皇帝不在のこの時期にゲルマンのフランク族はフランドルにフランク王国を建国し、フランク王国のカール大帝は徐々に勢力を広げ、フランス、イタリア、ドイツを統一し、紀元800年にはローマ教皇からローマ皇帝が戴冠され、これにより西ローマ帝国の復活を成し遂げ、現在のヨーロッパの礎となります。
 一方、古代にはブリタニアと呼ばれたイギリスはローマ帝国の最北の領土であり、帝国の勢力が衰える5世紀初めにはユトラント半島からジュート人、アングロ・サクソン人が移住し、イングランド王国を建国しています。

〇旧約聖書の音楽
 続いて、旧約聖書題材とした音楽について見て行きます。オラトリオの分野ではローマ楽派のカリッシミの1648年作曲の旧約聖書の物語によるオラトリオ「イェフタ」が最初のものと考えられています。旧約聖書を題材としたオラトリオはカトリック地域では作品が限られるものの、プロテスタント地域ではロンドンに渡ったヘンデルによって多くの作品が生まれています。当時のロンドンは初期の産業革命が始まっており、イギリスは海外の植民地を増やし、紡績業などがおおきく発展し、裕福な貴族はイタリア・オペラなどの娯楽を求め、ヘンデルは多くのイタリア・オペラをロンドンで上演していました。ヘンデルのオペラ興業はやがて行き詰まり、オペラに代えてオラトリオを上演し人気を得て行きます。ヘンデルはオラトリオの題材を旧約聖書に求め、「エステル」「デボラ」「サウル」「サムソン」「ユダス・マカベウス」「ヨシュア」などのオラトリオをシリーズとして次々と作曲し上演しています。その中でも「ユダス・マカベウス」の「見よ勇者は帰る」は現代でもスポーツ大会の表彰式に使われます。
 一方のイタリアやオーストリア、フランスなどのカトリック地域では聖書を題材とした音楽は書かれませんでした。これはカトリック教会がミサ曲等を劇場で演奏することを禁じており、また教会で演奏されるミサ曲はラテン語に限られ、こうしたことが聖書の物語の音楽が作曲されなかった理由ではないかと思われます。こうした中で、モーツァルトはザルツブルクからウィーンに移ってから、スヴィーテン男爵からの依頼で、ミサ曲ハ短調K.427をウィーンの劇場で上演するために、新たにラテン語の典礼文の歌詞をイタリア語の歌詞に置換えてカンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469として改作しています。この台本は後にモーツァルトの名作オペラ「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」などの台本を創ることになるダ・ポンテが関り、原作は旧約聖書のダヴィデの物語からとられています。
 また、ハイドンはロンドンのウェストミンスター寺院で上演されたヘンデルの「メサイヤ」に感動し、帰国時にはオラトリオのための旧約聖書による「創世記」とミルトンの「失楽園」の英語の台本を持ち帰り、ウィーンではスヴィーデン男爵が翻訳したドイツ語台本によりオラトリオ「天地創造」を作曲しています。
 ロマン派時代のシューマンやリストは旧約聖書の「詩篇」に音楽をつけ、劇場においてオラトリオ形式で上演を行っています。

〇新約聖書の音楽
 新約聖書のキリストにまつわる音楽は数限りなく作曲されていますが、やはりその中でもヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」HWV56とセバスティアン・バッハのマタイ受難曲BWV244は特筆すべき傑作となります。バッハはライプツィヒに移ってからは毎週日曜日にカンタータの上演すること、そして毎年復活祭前のキリストの受難日には受難曲を上演することが義務付けられており、新約聖書の福音書として語られるマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のそれぞれの伝承によるイエス・キリスト受難の物語をオラトリオ形式で作曲し、現代ではヨハネ受難曲とマタイ受難曲が現存し上演されています。
 ベートーヴェンは1803年、ハイドンのオラトリオ「天地創造」の影響により、オラトリオ「オリーヴ山上のキリスト」を作曲し、アン・デア・ウィーン劇場で初演しています。

【音楽史年表より】
1727年4/11初演、J・S・バッハ(42)、マタイ受難曲 BWV244
ライプツィヒの聖トーマス教会で初演される。受難曲は聖金曜日の晩課として、すなわち人間が神のいいつけに背いて犯した罪を賠うために主イエス・キリストが十字架上で息をひきとられたことを記念する金曜日に演奏される。その翌々日の日曜日(次の週の初めの日)が復活祭となる。作品は独唱、合唱を伴う2つの管弦楽群によって演奏される。17世紀半ばにハンブルクで始まったオラトリオ受難曲の様式による。ルター訳のマタイ福音書をレチタティーヴォ化した楽曲を中心に自由詩による合唱、アリア、レチタティーヴォと種々のコラールを折り混ぜる形で進められる。聖句楽曲においては語り手がテノール、イエスがバスに割り振られ、他の登場人物はそれぞれの声域の独唱者に、また弟子や群衆は合唱に委ねられる。(2)
1742年4/13初演、ヘンデル(57)、オラトリオ「メサイヤ」HWV56
ダブリンのフィッシャンブル街ニュー・ミュージック・ホールで初演される。慈善を目的として、初演は大成功を収め聴衆に深い感動を与えた。(三澤寿喜、人と作品ヘンデルより)
24日間で書き上げられた「メサイヤ」はヘンデルのオラトリオ作曲家としての器量の大きさを象徴している。世俗オラトリオ16曲、聖書を題材とした16曲合わせて32曲のオラトリオは迫真に迫る性格描写と、筋に密着した合唱および二重合唱の使用という2つの大きな特徴が見られる。合唱はそれぞれ和声的、フーガ的、朗唱的、描写的、陰気性、壮麗性という特徴をもつ。合唱の合間にはレチタティーヴォ、イタリア風アリア、牧歌的カンティレーナなどが挿入される。またオルガン協奏曲が中心に置かれている。(3)
1747年8/11初演、ヘンデル(62)、オラトリオ「ユダス・マカベウス」HWV63
ロンドンのコヴェントガーデン・ロイヤル劇場で初演される。時宜を得たこの作品の初演は熱狂的に受け入れられ、6回上演される。ヘンデル存命中の上演は33回を数え、「メサイヤ」の44回、「サムソン」の30回と並び、ヘンデルの人気オラトリオとなった。また、予約制は貴族や大金持ちの施しに頼る興行方式であったが、1745年、46年の予約不履行に懲りたヘンデルは、この年からこれを廃止し、当日券のみによる興行方式に変更した。(4)
1785年3/13、モーツァルト(29)、カンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469
モーツァルトの指揮でブルク劇場で初演される。1771年にヴァン・スヴィーテン男爵らによって設立された音楽家の遺族への年金支給を目的とした芸術家協会からオラトリオの作曲を依頼されたモーツァルトは、多忙のため、ザルツブルクで初演したハ短調ミサ曲K.427からキリエとグロリアを選び、新作のアリア2曲を追加してオラトリオに仕上げた。(5)
モーツァルトはこのオラトリオの中でミサ曲ハ短調K.427のキリエとグロリアを利用しているが、これはロレンツォ・ダ・ポンテが提供したと思われるイタリア語の台本による。このダヴィデ王の改悛を扱ったオラトリオの初演は非常な成功を見せたらしく、1週間後に再演されている。モーツァルトはミサ曲ハ短調の旋律をそのまま使うだけでは満足せずに、「精霊とともに」のメロディーによる最後の合唱に3声のソロのためのカデンツァを付け加えており、さらに非常に美しい2つのアリアも新たに作曲している。そのひとつはテノールのための「ああ汝、これほどの苦しみをもち」(第6曲)で、もうひとつはソプラノのための「暗き陰のうちに」(第8曲)である。(6)
1799年3/19、ハイドン(66)、オラトリオ「天地創造」Hob.ⅩⅩⅠ-2
ウィーンのブルク劇場で公開初演される。ハイドンはこはオラトリオを教会のためのものとはせず、どこまでも一般民衆のためのものとして作曲した。次に作曲するオラトリオ「四季」は特にそうであるが、民衆的ということが彼の作品の特徴であった。ハイドンは今まで使用しなかったトロンボーンを加えた大編成のオーケストラで天地混沌たる宇宙を描き、天と地と、陸と海と、野山と河と漸次形成されていく神の創造を描写し、最初の光を輝く管弦楽でうつしている。草木生物の生起には巧みな管弦楽でこれを表現し、最後に人間の最初の生活を賛美している。ハイドンはこの初演により4088フローリンの収入を得ている。(7)
ハイドンの後期オラトリオを貫く最大の特色は形式主義を排した歌詞と音楽の密接な結合であろう。独唱、重唱、合唱の自由な融合やオーケストラによる水際だった情景描写など、ハイドンがミサ曲をはじめとする分野で実験してきた華麗なイタリア風から素朴なドイツ風に至るまでの多彩な旋律美を交えて、歌詞の内容に即した音楽が自然に展開されていく。(8)
1822年1月上演、シューマン(11)、合唱とオーケストラのための「詩篇第150篇」Anh.Ⅰ-10
聖書の詩篇第150篇による。現存するシューマンの最初の作品が仲間たちによって上演される。(9)
1855年初演、リスト(43)、管弦楽を伴う宗教的合唱曲「詩編13」I3、S13
初演される。その後改訂を経て、64年に初版が出版され、弟子のコルネリウスに献呈される。独語の歌詞による。(10)

【参考文献】
1.橋爪大三郎、大沢真幸共著・ふしぎなキリスト教(講談社)
2.バッハ事典(東京書籍)
3.ブノワ他著・岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)
4.三澤寿喜著、作曲家・人と作品シリーズ ヘンデル(音楽之友社)
5.モーツァルト事典(東京書籍)
6.カルル・ド・ニ著、相良昭憲訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
7.遠藤宏著・ハイドンの生涯(岩波書店)
8.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
9.藤本一子著、作曲家・人と作品シリーズ シューマン(音楽之友社)
10.福田弥著、作曲家・人と作品シリーズ リスト(音楽之友社)

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