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音楽史・記事編145.ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場とプッチーニのオペラ

 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場は、大掛かりな舞台装置による古典的な演出が維持され、前衛的な演出に比べれば親しみやすく、ウィーン国立歌劇場とともに長いシーズンを通して、イタリアオペラ、ドイツオペラなどをレパートリーとし、年間30演目以上のオペラを日替わりで上演する世界の歌劇場で最も上演回数の多い歌劇場に数えられます。

〇ニューヨークの歌劇場の歴史

 アメリカ初のオペラハウスは1833年11月にニューヨーク・マンハッタンの南のチャーチ街に建設されたとされ、このオペラハウスの建設にはウィーンでモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテが関わったとされています。モーツァルトの名作オペラの台本作家として音楽史に名を刻んだダ・ポンテは、皇帝ヨーゼフ2世が亡くなると、次の皇帝レオポルト2世により解任され、以降は苦難の人生を歩むことになります。国外退去の命によりイタリアのトリエステに移りウィーン宮廷への復職を画策するもかなわず、結局は妻のナンシーが生まれたロンドンに移り、キングズ・シアターに雇われますが作成したオペラ台本は1本のみで、劇場の歌手の募集のためにイタリアへ渡ったりするものの経済的に行き詰まり、生活苦のため妻のナンシーと子供を妻の両親や兄弟が移住していたアメリカに送り出し、後に自身も当てもなくアメリカに渡ることとなります。妻の住むニューヨークに移ったダ・ポンテはイタリア語教師などで生計を立て、やがてアメリカでのイタリアオペラ上演のために東奔西走し、アメリカで初めてのオペラ劇場建設に尽力しています。アメリカ初のオペラハウスでは、こけら落し公演としてロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」が上演され、その後ロッシーニの「セビリアの理髪師」などが上演されるもののダ・ポンテが熱望していた自ら台本を書いたモーツァルトのオペラは上演されなかったようです。しかし、興行は厳しく2年後には劇場は売却され、オペラは上演されなくなり1839年には火災で焼失し、ニューヨークの劇場史から消えて行きます。1828年ダ・ポンテはアメリカの市民権を取得し、友人の学長の計らいで80歳近くにもかかわらずコロンビア大学のイタリア語教室の教授となっています。ダ・ポンテは1838年8月、89歳の長い生涯を閉じ1番街、11丁目の墓地に埋葬され忘れ去られますが、20世紀初頭にモーツァルトが神話化し、ダ・ポンテの墓探しが行われたものの見つからなかったようで、1987年になってようやくダ・ポンテの名が刻まれたモニュメントが建てられたとされます。(1)
 ダ・ポンテが生きた時代、アメリカは領土を西へ広げつつあり、1850年ころまでにはメキシコからの買収で領土は西海岸に達し、1861年から65年の南北戦争を経て西部開拓が本格化し、1869年にはアメリカ大陸横断鉄道が開通し、1880年頃には20年に及ぶインディアン部族等との抗争を終結させ、国家として経済的に発展していた状況の中、ヨーロッパの主要都市のようにニューヨークにおいて本格的な歌劇場の建設が構想され、1883年にブロードウェーのタイムズスクウェアー近くに旧メトロポリタンオペラ劇場が開場しています。さらに1891年にはミッドタウンに音楽の殿堂カーネギーホールがオープンします。1892年にはニューヨーク音楽院はボヘミアの作曲家ドボルザークを院長に迎え、1893年12/16カーネギーホールでドボルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界から」が初演され、満員の聴衆を熱狂させています。国力を増したアメリカは1890年頃からはヨーロッパ諸国に遅れまじと東アジアのフィリピンや中米方面に植民地を求めて拡大して行き、第1次世界大戦を経て世界の大国となり、1930年頃には鉄鋼業や自動車産業、石油産業などで繁栄を極め、ニューヨークのマンハッタンではクライスラー・ビルディングやエンパイヤー・ステート・ビルディングなどの超高層ビルの建設ラッシュとなり、第2次世界大戦勝利後は世界をリードする超大国となっています。そしてヨーロッパにおける戦乱を避けるように作曲家のラフマニノフやストラヴィンスキー、指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニやブルーノ・ワルターなどがアメリカに逃れています。1966年には旧メトロポリタン歌劇場は取り壊され、新たなメトロポリタン歌劇場がセントラルパーク西のブロードウェー沿いのリンカーンセンター内に建設されます。

〇プッチーニとメトロポリタン歌劇場
 1907年の初めプッチーニは「マノン・レスコー」と「蝶々夫人」の旧メトロポリタン歌劇場でのアメリカ初演のためニューヨークを訪れ、ブロードウェーで「蝶々夫人」の原作者であるベラスコの「黄金の西部の娘」を観劇し、ヒロインの西部の娘に好感を抱きオペラ化を行います。1910年11月プッチーニはメトロポリタン歌劇場始まって以来初めての世界初演に立ち会うために、再びアメリカに向けて旅立ちます。歌劇「西部の娘」は1910年12/10旧メトロポリタン歌劇場でトスカニーニ指揮、伝説の名歌手エンリコ・カルーソーのジョンソン役で初演されます。初演は大成功を収め作曲者プッチーニは55回にのぼるカーテンコールを受けたとされます。プッチーニは「蝶々夫人」では日本のメロディーを、「トゥーランドット」では中国の旋律を用いているように、アメリカを舞台にした「西部の娘」では冒頭からジャズなどのアメリカ様式を取り入れています。・・・純朴な乙女ミニーは見知らぬジョンソンに惹かれるが、実はジョンソンは盗賊ラメレスであった・・・苦難の末、フィナーレではジョンソンは自由の身となり、ミニーと馬に乗って未来の幸福に向けて旅立つ。(4)
 1918年12/14、メトロポリタン歌劇場ではプッチーニの新作の三部作、歌劇「外套」、歌劇「修道女アンジェリカ」、歌劇「ジャンニ・スキッキ」の初演が行われます。それぞれの歌劇は1幕もので三部作として1晩で続けて上演されます。プッチーニはダンテの「神曲」にならい、第1部「外套」を地獄篇とし悲惨な人間の生の苦悩と死を表現し、第2部「修道女アンジェリカ」では煉獄篇として修道院を舞台に女声のみで浄化された生と死を表し、第3部「ジャンニ・スキッキ」では天国篇として喜劇としての人間の生と死を表しているとされます。この三部作については、プッチーニはもともとローマ・王立劇場での初演を望んでいたとされますが、第1次世界大戦の混乱でローマでの初演がかなわず、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場での初演が行われたとされます。
 このように、メトロポリタン歌劇場はプッチーニと特別深い関係を築いてきており、現在でもプッチーニのオペラを常にレパートリーとし、4大オペラである「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」では世界でも屈指の舞台を実現しています。下記のアドレスからメトロポリタンオペラをご覧ください。Videosをクリックし、新演出の歌劇「トスカ」紹介などのショート・ビデオで雰囲気を体感できます。
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【音楽史年表より】
1893年12/13初演、ドボルザーク(52)、交響曲第9番ホ短調「新世界より」Op.95、B178
ニューヨークのカーネギーホールにて、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニーによって初演される。12/20付の手紙でドボルザークは初演について「カーネギーホールはニューヨークの一流の人たちで満席であった。私は座ったボックス席からさながら王様のように何度もお辞儀を繰り返さなければならなかった。それほど聴衆の拍手は続いたのだ。」と書き送っている。(2)
1900年1/14初演、プッチーニ(41)、歌劇「トスカ」
ローマ・コンスタンツィ劇場で初演される。(4)
プッチーニは1893年トリノで初演された第3作「マノン・レスコー」によって歌劇作家としての地位を確立したが、その後書かれた3つの作品「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」は、プッチーニの名声を頂点にもたらしたばかりではなく、イタリア歌劇史を飾る不朽の名作として高く評価されている。トスカは19世紀フランスの劇作家ヴィクトリアン・サルドゥが名女優サラ・ベルナールのために書いた悲劇で、1890年ミラノで観たプッチーニはこの作品に強く打たれて、その歌劇化を思い立ち、台本作家のルイージ・イッリカに相談を持ちかけた。(3)
1910年12/10初演、プッチーニ(50)、歌劇「西部の娘」
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、トスカニーニの指揮、ジョンソン役はカルーソで初演される。完成した楽譜は英国王妃アレクサンドラに献呈される。王妃はプッチーニの大ファンであり、バッキンガム宮での私的コンサートで、プッチーニの音楽がしばしば演奏されていた。(4)
1907年1月、ニューヨークを訪れたプッチーニは、上演中のベラスコの「黄金の西部の娘」を観劇する。プッチーニはナイーヴで胸のすくようなこのヒロインと、真実と誠意が見られるこの劇に好感を持ち、オペラ化を決意する。台本はプッチーニの細かい注文に悩ませながらも、サンガリーニとチヴィニーニによって作成される。(3)
1918年12/14初演、プッチーニ(59)、三部作・歌劇「外套」(地獄篇)、歌劇「修道女アンジェリカ」(煉獄篇)、歌劇「ジャンニ・スキッキ」(天国篇)
三部作としてニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演される。「三部作」とはプッチーニ自身がひとまとまりの3つの1幕ものオペラに総称として付けた名であって、本来は三幅対の絵という意味であり、彼はこれをダンテの「神曲」から得たといわれる。3作は一見、まったく異なったものであるが、いずれも人間の生の苦悩と死が扱われており、それが第1作では悲惨なまでに真正面から、第2作では冷酷にしかも浄化されて、第3作では滑稽に、だが辛辣に、第3作の喜劇はしかし前2作の悲劇と表裏一体をなすものである。プッチーニはローマの王立劇場での初演を希望したが、第1次世界大戦の混乱のため適わず、1918年12/14、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で行われることとなる。(3)
12/14初演、プッチーニ(59)、歌劇「外套」
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で三部作の第1作として初演される。(4)
プッチーニは1910年の歌劇「西部の娘」の後、かねてより構想を練っていた三部作の題材を探していたが、1912年キンテロ兄弟の「愉快な心」をアミーダの台本で書くことを決めていたが、この年、この企画に協力していたリコルディがこの世を去りこの題材を断念する。かわってパリで上演中のディディア・ゴルドの1幕ものの「外套」を観て気に入り、アミーダに台本を依頼することとなった。(3)
12/14初演、プッチーニ(59)、歌劇「修道女アンジェリカ」
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で三部作の第2作として初演される。(4)
ある修道院を舞台に女声だけによって演奏される、きわめて神秘的宗教的でかつ抒情的な雰囲気に満ちた作品。フランケッティやマスカーニらのために台本を書いている元歌手でジャーナリストと、多才な作家ジョヴァッキーノ・フォルツァーノの台本による。(3)
12/14初演、プッチーニ(59)、歌劇「ジャンニ・スキッキ」
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で三部作の第3作として初演される。(4)
この作品では徹底した明朗、滑稽、辛辣といったものが鋭く描かれていて全三作のうち、あるいはプッチーニの作品中の最高傑作であるといわれている。台本は第2作「修道女アンジェリカ」と同じく、ジャヴァッキーノ・フォルツァーノによる。主人公ジャンニ・スキッキはダンテの「神曲」地獄篇第30章に登場する実在の人物で、ダンテの妻の実家ドナーティ家の遺産を遺言書き換えによって手に入れた悪行のかどで地獄に落とされている。古都フィレンツェを舞台とする。(3)

【参考文献】
1.田之倉稔著、モーツァルトの台本作者・ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯(平凡社)
2.内藤久子著、作曲家・人と作品シリーズ ドヴォルジャーク(音楽之友社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・プッチーニ(音楽之友社)
4.新グローヴ・オペラ事典(白水社)

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