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音楽史・記事編150.マリア・テレジアの家族と音楽史
オーストリア継承戦争を戦った女帝マリア・テレジアはさらに外交革命を行い、オーストリア・ハプスブルク家の復権を果たし、ウィーンはヨーロッパ音楽の中心都市となり音楽史における偉大な一時代を築きます。ウィーン古典派のハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンはハプスブルク家の人々と深く関わり多くの傑作を創作しています。本編ではマリア・テレジアの家族とかかわった古典派音楽について見て行きます。
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この家族の肖像画には両親と11人の子供たちが描かれていますので、おそらくマリー・アントワネットが生まれる前のもので、中央の赤ちゃんは4男フェルディナンドと見られます。
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マリア・テレジアは外交政治に手腕を発揮しオーストリアの復興を果たしたことから女帝と呼ばれ、一方のフランツ・シュテファンは神聖ローマ帝国の皇帝の地位についたものの政治力外交力に劣り、政治は妻のマリア・テレジアに、軍事はラウドン将軍に任せ、自らはトスカーナの財政を立て直すなどの事業力を発揮し宮廷に対して財政的援助を行ったとされます。マリア・テレジアは身分を問わず能力による登用を行い、音楽関係ではオペラ・セリアの様式を確立した宮廷詩人メタスタージョを登用し、エステルハージ家の楽長ヨーゼフ・ハイドンを重用しています。また、幼いにもかかわらず優れた能力を発揮したモーツァルトに期待したものの、敵対するプロイセン側についていたイギリス王宮を訪問したことからモーツァルト父子を憎悪するようになり、女帝マリア・テレジアのプロイセンに対する敵対心は尋常のものではなかったようです。しかし、プロイセンのフリードリヒ2世の啓蒙主義にあこがれを持っていた皇帝ヨーゼフ2世は母親に対し反感を持ち、モーツァルトを擁護し多くのオペラを委嘱します。
(参考)129.ウィーン・エステルハージ宮殿
【音楽史年表より】
1773年9/1再演、ハイドン(41)、歌劇「報われぬ不実」Hob.ⅩⅩⅧ-5
ハプスブルク家女帝マリア・テレジアがエステルハージ家のエステルハーザ宮殿を訪問し、歓迎行事が3日間連続して行われた。初日にはハイドンの歌劇「報われぬ不実」が宮殿内歌劇場で上演される。(1)
9/2、ハイドン(41)、交響曲第48番ハ長調「マリア・テレジア」Hob.Ⅰ-48
女帝マリア・テレジア歓迎の第2日目にハイドンの交響曲第48番ハ長調「マリア・テレジア」Hob.Ⅰ-48が演奏される。この曲に付けられている「マリア・テレジア」という呼び名はこの時の演奏に由来する。この日には仮面舞踏会も開催されたという。(2)
9/3、ハイドン(41)、大宴会、盛大な花火と1千人の農民たちによる舞踏
エステルハーザ宮殿における女帝マリア・テレジア歓迎3日目、昼の大宴会に続いて午後にはハイドンの人形劇によるオペラ「フィレモンとバチウス」が上演される。夜は盛大な花火と一千人もの農民たちによるハンガリーおよびクロアチアの舞踏というたくさんな行事が催され、皇妃はその翌日にウィーンへ戻っていった。(2)
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次女マリア・アンナはマリア・テレジアの長女と3女が相次いで夭折する中、才能にあふれる自らこそが母親の後継者と自負していたことから、長男ヨーゼフや4女クリスティーネとぶつかり、嫁ぐことはなく母親の死後シェーンブルンを離れ、クラーゲンフルトの修道院長となって余生を送ります。
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皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙主義は妻となったイザベラの影響と思われ、愛するイザベラが22歳の若さで亡くなると、女帝マリア・テレジアは対立していたザルツブルク選帝侯の公女マリア・ヨゼファーと政略結婚をさせたため、母子の確執はますます深まったようで、自らの跡継ぎを残すことをあきらめ、弟のレオポルトとその家族に後継を託します。ヨーゼフ2世は終生モーツァルトを擁護し、モーツァルトは音楽史に残る傑作を残し、おそらくモーツァルトの残したオペラでイタリアでの3つのオペラと「バスティアンとバスティエンヌ」「魔笛」を除く、ミュンヘンやプラハで初演されたオペラを含めて全ての歌劇が皇帝ヨーゼフ2世の委嘱あるいは関与によって作曲されたものと見られます。1768年皇帝ヨーゼフ2世、フェルディナンド大公、マクシミリアン大公はモーツァルトの孤児院ミサ曲初演を聴き大きな感動を得て、モーツァルトの才能を確信し、いずれの皇帝、大公もモーツァルトの雇い入れを希望したものの女帝マリア・テレジアに阻まれ、女帝の死後、宮廷作曲家グルックの死によってモーツァルトはようやく宮廷作曲家に任命されます。
【音楽史年表より】
1768年4月~6月作曲、モーツァルト(12)、歌劇「ラ・フィンタ・センプリチェ(見てくれの馬鹿娘)」K.51
2度目のウィーン滞在の折に皇帝ヨーゼフ2世の示唆により作曲に取りかかったが、実際には上演されなかった。初演は翌69年ザルツブルクで行われるが、詳細は不明。(3)
12/8初演、モーツァルト(12)、ミサ・ソレムニス ハ短調「孤児院ミサ」K.139
ウィーンの孤児院教会の献堂式で初演される。・・・皇帝ヨーゼフ2世とフェルディナントとマクシミリアン両大公およびエリザベトとアメリア両大公女の臨席が報じられており、「列席したすべての人々によって喝采と称賛を受けた」と書かれている。(4)
1775年1/13初演、モーツァルト(18)、歌劇「偽りの女庭師」K.196
ミュンヘンのザルヴァートル劇場(救世主劇場)で初演される。1774年の夏にバイエルン選帝侯マクシミリアン3世から謝肉祭用オペラ作曲の依頼があり作曲される。(5)
1781年1/29初演、モーツァルト(25)、歌劇「イドメネーオ」K.366
ミュンヘン宮廷劇場(選帝侯宮殿内のキュヴィリエ劇場)で初演される。父レオポルト、姉ナンネルがこの上演のためにザルツブルクから訪れている。オペラ「イドメネーオ」はその後、2回上演された。(5)(3)
1782年7/16初演、モーツァルト(26)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
ウィーンのブルク劇場で初演される。・・・たとえ台本が二流であったとしても、モーツァルトは尻込みせずに逆に彼の若い情熱を音楽に傾注し、同時代の人たちをあっと言わせる作品を書き上げた。(6)
1786年5/1初演、モーツァルト(30)、歌劇「フィガロの結婚」K.492
ウィーンのブルク劇場で初演される。「フィガロの結婚」は年内に9回上演されただけで打ち切りとなった。ウィーンの聴衆にその真価が理解されるのは89年8月の再演以降となる。「フィガロの結婚」はプラハで上演されると熱狂的に受け入れられる。(1)(3)
1787年10/29初演、モーツァルト(31)、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527
プラハ国民劇場(現在のスタボフスケー劇場)においてモーツァルトの指揮で初演される。(1)
「ドン・ジョバンニ」も、また、従来に例を見ないオペラである。モーツァルトはドン・ジョバンニ自身の性格という全く新しい要素を持ち込んでいる。「ハムレット」を除けば、かつて舞台の上にこれほど複雑な性格を持った人物は登場したことがなかった。(6)
1790年1/26初演、モーツァルト(33)、歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」K.588
ウィーンのブルク劇場で初演される。1789年ウィーンでは「フィガロの結婚」が再演され大人気となるが、これに臨席した皇帝ヨーゼフ2世がドン・バジリオの歌詞「コシ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)」に興味を持ち、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の筋書きを考えたという話の真偽は分からない。(3)(7)
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4女マリア・クリスティーネは親しくなったザクセン選帝侯の6男アルベルトとの結婚を望むものの父親のフランツ・シュテファンに反対され、父親の死後マリア・テレジアによって大公女の中では唯一恋愛結婚が認められ婚礼を挙げます。マリア・クリスティーネには多大な持参金が与えられ、夫のアルベルトにはチェシン公国が与えられ、さらにフランツ・シュテファンの弟カールの死後にはネーデルランド総督の地位が与えられます。このようなクリスティーネへの優遇から他の大公女からの反発があったとされます。
(参考)112.シェーンブルン宮殿・オランジェリー
【音楽史年表より】
1786年2/7初演、モーツァルト(30)、歌劇「劇場支配人」K.486
シェーンブルン宮殿のオランジェリーで初演される。皇帝ヨーゼフ2世は義弟にあたるザクセン=テッシェン公であるアルベルトの歓迎の祝宴のための音楽をモーツアルトとサリエリに依頼した。(3)
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大公女の中では一番の美貌の持ち主とされたが、天然痘によりその美貌は失われ嫁ぐことはなく、母のマリア・テレジアの死去ののちにはインスブルックの女子修道院の院長となります。
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次男のカール・ヨーゼフは父親のトスカーナ公を引き継ぐことになっていたものの16歳の若さで亡くなり、トスカーナ公は3男のレオポルトに引継がれます。
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6女のマリア・アマリアはイタリアのパルマ公に嫁ぎ、長男のヨーゼフがパルマ公女イザベラを妃に迎えているところから、ハプスブルク家とパルマ公国とは二重結婚の関係となります。
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3男レオポルトはモーツァルトがウィーンで孤児院ミサ曲を初演した時にはすでにトスカーナ公としてフィレンツェへ赴任していたため、母親のマリア・テレジアの意向に従いモーツァルトを擁護することはなく、プラハでボヘミア王戴冠祝賀が行われた際にはプラハの貴族の推薦によりモーツァルトにオペラを委嘱したものの、それは皇帝を賛美するメタスタージョのオペラ「皇帝ティートの慈悲」であり、自身への忠誠を誓わせようとモーツァルトに作曲させたものとも見られます。
【音楽史年表より】
1791年9/6初演、モーツァルト(35)、歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
プラハの国民劇場で初演される。(オペラ事典ほかより)
近年になってこの「ティートの慈悲」の評価は見直しのムードにある。そして、その結果として従来考えられていたよりはずっと良い作品だと認められるようになった。(6)
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9女マリア・ヨゼファー、ナポリ公との婚礼を前に天然痘で亡くなり、ナポリ后妃には妹のカロリーネが選ばれます。
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10女マリア・カロリーネはナポリ公国に嫁ぎ、3男レオポルトはナポリ公女を妃としていることから、ハプスブルク家とナポリ公国は二重結婚の関係となります。
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4男フェルディナンドは兄のヨーゼフ2世とともにモーツァルトの孤児院ミサ曲の初演に臨席し、ミラノに赴任し、エステ家公女との婚礼祝賀のための歌劇「アルバのアスカーニョ」など3つのオペラをモーツァルトに委嘱します。さらにフェルディナンド公はモーツァルトをミラノの楽長に迎えようとしましたが、女帝マリア・テレジアの意向により断念します。ナポレオン侵攻によりミラノを追われ、ウィーンのシェーンブルン宮殿近郊のヘッツェンドルフで妻とともに余生を送ることになります。
【音楽史年表より】
1770年12/26初演、モーツァルト(14)、歌劇「ポントの王ミトリダーテ」K.87
ミラノの宮廷劇場(レージョ・ドゥカーレ・テアトロ、現在のミラノ・スカラ座)でモーツァルト自身の指揮で初演される。大成功を収めた上演は翌年の1月中も続き、劇場は満員で上演回数は20回以上に及んだ。(7)
1771年10/17初演、モーツァルト(15)、歌劇「アルバのアスカーニョ」K.111
ミラノの宮廷劇場(レージョ・ドゥカーレ・テアトロ)で初演される。今回のミラノのオペラ上演は当初はハッセのみという予定であったが、ハッセの「ルッジェーロ」だけでは人気が取れないことを危惧したミラノの劇場興行師があとからモーツァルトに祝典劇を依頼した。(7)
1772年12/26初演、モーツァルト(16)、歌劇「ルーチョ・シッラ」K.135
ミラノの宮廷劇場(レージョ・ドゥカーレ・テアトロ)で初演される。この日はフェルディナンド大公の都合で開演が大幅に遅れ、バレエを含む6時間余りの上演が終わったのは夜中の2時であったという。「ルーチョ・シッラ」はこの後、初演を含めた上演回数が26回に達した。(7)
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11女マリア・アントーニアは14歳で後のフランス国王ルイ16世となるルイ=オーギュストと婚礼を挙げマリー・アントワネットとなります。若くして他国に嫁いだマリー・アントワネットの故郷ウィーンへの郷愁は募り、ベルサイユ宮殿には故郷を思わせる村里を再現し、音楽ではグルックがオペラを作曲し、ヨーゼフ・ハイドンが交響曲を作曲し、パリでの演奏会にはマリー・アントワネットが臨席したとされます。
【音楽史年表より】
1774年4/19初演、グルック(59)、歌劇「オリドのイフィジェニー」
パリの王立音楽アカデミー(オペラ座)で王太子ルイと王太子妃マリー・アントワネットの臨席のもと初演される。ウィーンのフランス大使館付きの武官デュ・ルレの尽力よって、マリー・アントワネットの力添えを得られることになったグルックは、デュ・ルレ自身が書いた台本によるフランス語のオペラ「オリドのイフィジェニー」を完成させ、1773年にパリにやってくると、パレ・ロワイヤルの新劇場に移っていたオペラ座でこの新作オペラを初演した。(8)(1)
1785年~86年作曲、ハイドン(53、54)、パリ交響曲 第82番~87番Hob.Ⅰ-82~87
コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックはコンセール・デ・ザマチュールの後身であった。このオーケストラの有力なパトロンであるドーニ伯爵の発案で、ハイドンに対してこのオーケストラのために交響曲の新作を依頼した。(2)
1785年作曲、ハイドン(53)、交響曲第85番変ロ長調「王妃」Hob.Ⅰ-85(パリ交響曲)
「王妃」という表題の由来は定かではない。ポールはフランス王妃マリー・アントワネットのお気に入りの曲だったのだろうと説明している。また、第2楽章の主題は当時流行のフランスの「やさしい若いリゼット」というロマンスにもとづいているともポールによって指摘された。(2)
1787年作曲、ハイドン(54)、交響曲第88番ト長調「V字」Hob.Ⅰ-88
1780年代のハイドンの交響曲のなかで第92番ト長調「オックスフォード」とともに最も成熟した曲ということができる。(2)
1787年作曲、ハイドン(54)、交響曲第89番ヘ長調Hob.Ⅰ-89
エステルハージ家のオーケストラで第2バイオリンのトップを弾いていたヨハン・トストがパリに出て演奏活動を行うことを決意し、そのためにハイドンに新作の交響曲と弦楽四重奏曲の作曲を依頼した。ハイドンは1787年にその希望に応じ、第88番と第89番の2つの交響曲を作曲する。(9)
1788年作曲、ハイドン(56)、交響曲第90番ハ長調Hob.Ⅰ-90
ロンドン交響曲に先立つ最後の3曲の交響曲第90番~92番は6曲のパリ交響曲の依頼者であったフランスのドニィ伯爵からの再度の依頼で作曲された。(2)
1789年作曲、ハイドン(57)、交響曲第92番ト長調「オックスフォード」Hob.Ⅰ-92
フランスのドニィ伯爵からの依頼を受けて書かれた交響曲の第3曲で、対位法的手法を使った緻密な書きかたとオーケストラの響きの豊かさは、交響曲の可能性をおしひろげて、ベートーベンに至るまでの道をほのめかせている点で歴史的価値もきわめて大きい。(2)
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5男マクシミリアン・フランツはケルン大司教・選帝侯となり宮廷のあったボンに赴任します。兄のヨーゼフとフェルディナンドとともにモーツァルトを擁護し、モーツァルトを宮廷楽長に迎えたいとの意向もあったとされます。マクシミリアン選帝侯はボンに宮廷管弦楽団を組織しモーツァルトのオペラなどを上演し、宮廷音楽家となった若きベートーヴェンはビオラ奏者としてモーツァルトの音楽を学んでいます。マクシミリアン選帝侯はハイドンの推薦によりベートーヴェンをウィーンに音楽留学させますが、ボンの宮廷はナポレオン軍の侵攻を受け消滅し、聖職者となったマクシミリアン選帝侯に家族はなく、ウィーンのヘッツェンドルフで孤独な晩年を過ごします。
【音楽史年表より】
1775年4/23初演、モーツァルト(19)、音楽劇「羊飼いの王」K.208
ザルツブルク宮廷にて演奏会形式で初演される。1775年4月に女帝マリア・テレジアの末の息子マクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪問することになり、大司教はモーツァルトに歓迎の作品の作曲を依頼した。(3)(7)
1800年3月以前作曲、ベートーヴェン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
この交響曲は最終的にヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されるが、当初はボンのマクシミリアン・フランツ選帝侯への献呈が予定されていた。しかし、フランス軍の侵攻により既にボンの宮廷は消滅しており、選帝侯は各地を転々としたのち、1797年からウィーンのシェーンブルン宮殿の近くのヘッツェンドルフで孤独な晩年を送り、1801年7/26に亡くなった。(10)
【参考文献】
1.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
3.モーツァルト事典(東京書籍)
4.カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳、モーツァルトの宗教音楽(白水社)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
6.R・ランドン著・石井宏訳、モーツァルト(中央公論新社)
7.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
8.今谷和徳・井上さつき共著、フランス音楽史(春秋社)
9.中野博詞著、ハイドン復活(春秋社)
10.キンスキー=ハルム、ベートーヴェン作品事典(1955)
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