音楽史年表記事編87.ウィーン・市集会所メールグルーベ
モーツァルトは1783年、妻のコンスタンツェを連れてザルツブルクに帰省し、ザルツブルク最後の夜にはミサ曲ハ短調K.427を奉納し、父レオポルトと姉のナンネルと別れウィーンで作曲家として新たな道を歩むことになります。モーツァルトは幼い時から父レオポルトから音楽教育を受け、また多くの経験を積み、音楽家の力量を自負するようになっていました。しかし、マンハイム、パリ旅行では父レオポルトの怒りは沸点に達し、さらにウィーンのドイチェスハウスでのコロレド大司教との一件でも怒りを爆発させ、父子の確執は深まり、ザルツブルク訪問でも和解できなかったように思われます。
しぶしぶコンスタンツェとの結婚を認めた父レオポルトは、ウィーンを訪問し、順調に音楽活動を行っているモーツァルトの状況を見て、これまでのわだかまりを解消したいと思ったのかもしれません。一方のモーツァルトも父レオポルトのウィーン訪問を、モーツァルト流の歓迎でもてなし、自身の作曲家としての独り立ちを認めさせようとする意図があったように見られます。
1785年2/11、父レオポルトはウィーンに到着します。モーツァルトは父が到着したその晩にノイアーマルクトとケルントナー通りの間にあった市集会所メールグルーベで予約演奏会を開催し、ニ短調のピアノ協奏曲K.466を初演します。岡田暁生氏の「よみがえる天才モーツァルト」にはこの協奏曲を「時として雷鳴か地獄の業火のごときパッセージが轟く、異様な作品・・・」と、記されています。父レオポルトはこの怒りの調性を使った協奏曲については「演奏会はこの上なくすばらしいものであった」と、コメントを避けています。モーツァルトはこれまでの父レオポルトの自身への怒りを、モーツァルト流に協奏曲で表したのでしょうか。(第1楽章)
翌日の2/12にはモーツァルトの父へのもてなし第2段(第2楽章)として、当時の有名な3人の作曲家ハイドン、デュッタースドルフ、ヴァンハルを自宅に招いて、音楽史における傑作である6曲の弦楽四重奏曲を演奏します。ここで当時ヨーロッパにおける音楽界の巨匠ヨーゼフ・ハイドンは、父レオポルトにモーツァルトとその作品である弦楽四重奏曲に対し最大の賛辞を贈ります。
父レオポルトへのもてなし第3段(第3楽章)として、モーツァルトは2/16ブルク劇場で開催されたルイーザ・ラスキの演奏会でピアノ協奏曲第18番変ロ長調K.456を演奏します。この演奏会には皇帝ヨーゼフ2世が臨席することになっていましたので、モーツァルトは皇帝の好みのフランス・ギャラント様式のピアノ協奏曲を用意します。モーツァルトの意図は当り、皇帝は協奏曲演奏後、帽子をとって挨拶され「ブラボー、モーツァルト」と叫ばれ、父レオポルトはこの様子を目の当たりにします。
そして、もてなし第4段(第4楽章)として3/13にブルク劇場でカンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469を初演します。このカンタータはモーツァルトがザルツブルクで奉納したミサ曲ハ短調K.427のキリエとグローリアをイタリア語の歌詞に改編した作品で、旧約聖書のダヴィデの改悛の物語としています。モーツァルトは自身をダヴィデにたとえ、マンハイム・パリで、そしてウィーンのドイチェスハウスで父親を怒らせたことを悔い改めようとした思いをカンタータにしたのでしょうか。
これらのモーツァルトのもてなし対策が功を奏し、父レオポルトはコンスタンツェの母親のツェツェーリアを訪問し食事のもてなしを受け、マンハイム以来のウェーバー家へのわだかまりを解消し、そして作曲家としてのモーツァルトの自立を見届けたのでしょう。
4/25、父レオポルトは2ヶ月余りのウィーン滞在を終え、ザルツブルクへ帰ります。モーツァルトはウィーン郊外まで見送り、ここでの見送りが父との永遠の別れとなりました。
【音楽史年表より】
1785年2/11、モーツァルト(29)
モーツァルトの父レオポルトがウィーンに到着する。(1)
2/11初演、モーツァルト(29)、クラヴィーア協奏曲第20番ニ短調K.466
市の集会場メールグルーベで催された四旬節の第1回予約演奏会でモーツァルト自身のクラヴィーア独奏で初演される。父レオポルトがウィーンに到着する前日に完成する。作曲家として絶頂期を迎えたモーツァルトはハイドンの影響を受け、作曲家としての技量を父レオポルトに示すためにこの協奏曲を書き演奏したのではないか。父レオポルトの姉ナンネルへ宛てた書簡によると、写譜が間に合わず、最終楽章は通して弾いてみる余裕もなかった。演奏会はこの上なく素晴らしいものだった、というだけで協奏曲の反応については何も触れられていない。(1)
2/12初演、モーツァルト(29)、弦楽四重奏曲第17番変ロ長調「狩」K.458、弦楽四重奏曲第18番イ長調K.464、弦楽四重奏曲第19番ハ長調「不協和音」K.465
モーツァルト、ハイドンを自宅に招き「ハイドン四重奏曲」の後半3曲を演奏する。この日は前半3曲も演奏されたものとみられる。父レオポルトによれば、この時ハイドンは彼に向って次のように語ったという、「誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです」。(1)
2/16初演、モーツァルト(29)、クラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調K.456
モーツァルトは翌年の歌劇「フィガロの結婚」初演で伯爵夫人を歌うことになるイタリア人の歌手ルイーザ・ラスキの演奏会でクラヴィーア協奏曲第18番変ロ長調を演奏する。ウィーンを訪問した父レオポルトが姉ナンネルに宛てた手紙によると「日曜日の晩にはイタリア人歌手ラスキ嬢の音楽会が劇場で催された。彼女は今日イタリアへ旅立ちます。・・・お前の弟はパリへ旅立ったパラディス嬢のために作曲したすばらしい協奏曲を弾いた・・・楽器間の相互作用はたいへんはっきりと聴き分けられたのだが、うれしくてその喜びで涙が溢れ出てしまった。お前の弟が舞台を降りると、皇帝(ヨーゼフ2世)が手に帽子をとって挨拶され、「ブラボー、モーツァルト」と叫ばれた。彼が演奏するために再び登場してきた時も、もちろん拍手を送られた。(1)
2/17、モーツァルト(29)
モーツァルトの父レオポルトがコンスタンツェの母親を訪ねる。(1)
3/10初演、モーツァルト(29)、クラヴィーア協奏曲第21番ハ長調K.467
ブルク劇場で催された自らの予約演奏会でモーツァルト自身のクラヴィーア独奏で初演される。自らの予約演奏会であるだけに、ここでも通常の協奏曲の概念を超えたモーツァルト独自の世界が展開されている。(1)
3/13初演、モーツァルト(29)、カンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469
モーツァルトの指揮でブルク劇場で初演される。1771年にヴァン・スヴィーテン男爵らによって設立された音楽家の遺族への年金支給を目的とした芸術家協会からオラトリオの作曲を依頼されたモーツァルトは、多忙のため、ザルツブルクで初演したハ短調ミサ曲K.427からキリエとグローリアを選び、新作のアリア2曲を追加してオラトリオに仕上げた。(1)
モーツァルトはこのオラトリオの中でミサ曲ハ短調K.427のキリエとグロリアを利用しているが、これはロレンツォ・ダ・ポンテが提供したと思われるイタリア語の台本による。このダヴィデ王の改悛を扱ったオラトリオの初演は非常な成功を見せたらしく、1週間後に再演されている。(2)
4/16初演、モーツァルト(29)、リート「結社員の旅」K.468
ウィーンを訪れていた父レオポルトは4月初めにフリーメイスンに入会し、4/16に第2の位階「職人」に昇進する。この儀式にK.468のリートが歌われた。なお、レオポルトは4/22には「親方」へ昇進する。(1)
4/25、モーツァルト(29)
モーツァルトの父レオポルト、ウィーンを発ちザルツブツクへの帰途に着く。モーツァルトはウィーンの中心部から10kmほど離れたブルカードルフまで見送りに行ったが、これが父と子の永遠の別れとなった。(3)
1787年3月、モーツァルト(31)
モーツァルトの父レオポルトが病気になり、ザンクトギルケンのモーツァルトの姉ナンネルが看病にあたる。(1)
5/27、モーツァルト(31)
モーツァルトの父レオポルト死去する。享年67歳。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.カルル・ド・二著、相良憲昭訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
3.西川久尚著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
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