音楽史年表記事編82.ゲーテはなぜベートーヴェンの献呈に返事をしなかったのか?
ベートーヴェンは1812年9/8に、カールスバートでゲーテと再会し和睦し、お互いの良好な関係を回復しています。そして、ベートーヴェンは1815年夏にはゲーテの詩による合唱とオーケストラのための「海の凪と成功した航海」Op.112を作曲し、ゲーテに楽譜を送り献呈を行いました。しかし、ゲーテはベートーヴェンの献呈に対し、謝礼の手紙を書くことはありませんでした。この理由が何かということが、ベートーヴェンの生涯における謎として残されています。ロマン・ロランは、このゲーテの対応を「なんという恐ろしい、非人間的な沈黙だろう!」と語ったとされていますが、この見解は非常に不可解です。最後にベートーヴェンとゲーテが良好な関係で別れているところを見ると、ゲーテにはゲーテの沈黙を守らざるを得ない理由があったと思われますので、見て行きたいと思います。
ベートーヴェンが1812年9月にカールスバートでゲーテとの信頼関係を確認してから、ゲーテに対して献呈を行うまで3年間の間に、ベートーヴェンは人生のどん底にたたき落されるなど、大きな変化がありました。ベートーヴェンはゲーテと別れ、テープリッツに滞在しましたが、ここでアントーニアとの決別が訪れます。おそらくアントーニアから謹慎を命じられ、アントーニアはわずか1ヶ月でウィーンのビルゲンシュトック邸を引き払いフランクフルトに移ります。その2日後、傷心のベートーヴェンは謹慎していたリンツからウィーンに戻っています。
しかし、アントーニアとの関係はここで終わりませんでした。1814年体調を崩したベートーヴェンにアントーニアから見舞いの小切手が送られてきたのです。アントーニアもフランクフルトに戻ったものの、おそらく以前に心身症を患った大家族の扱いに再び悩まされ、また生まれてきた子供は障害を持った子であり、フランクフルトは安住の地ではなかったようです。一方のベートーヴェンは、ナポレオン軍を打ち破った英国のウェリントン将軍の勝利を扱った戦争交響曲Op.91がウィーンで爆発的に大ヒットし、それに続いてトライチュケの台本による歌劇「フィデリオ」の改訂稿も大成功を収め、ヨーロッパにおける巨匠といわれる地位に昇りつめ、ナポレオン没落後のヨーロッパの政治体制作りのためのウィーン会議では歌劇「フィデリオ」は公式オペラとして繰り返し上演され、莫大な蓄財を行っています。そしてこの間ベートーヴェンとアントーニアとの文通が繰り返され、ベートーヴェンはアントーニアとの関係に望みをつないでいたと見られます。1816年4月にはアントーニアのための連作歌曲「遥かなる恋人に寄せて」Op.98を作曲します。しかし、1817年末には歌曲「あきらめ」WoO149を作曲しているところを見ると、アントーニアとのことは結局は、はかない夢と終わったようです。
このような状況についてワイマールのゲーテは、アントーニアの夫フランツを通して知っていたのかもしれません。ゲーテは初めての作品である「若きウェルテルの悩み」のフィナーレで親友エルーザレムの死を扱って以降、人間の死に対して特別な感情を持っていました。ウェルテル以降の自作品において「死」の扱いは慎重になり、また主君のワイマール公の葬儀に参列せず、自身の母親の葬儀にも参列しませんでした。エルーザレムが亡くなったとき、ゲーテは小説の舞台となったヴェルツールを訪問し、詳細にその死について調べています。そして、人妻との恋に破れたエルーザレムの自殺をウェルテルのフィナーレに再現したのでした。ゲーテにとってベートーヴェンとアントーニアの恋はエルーザレムの事件と重複したのでしょう。ゲーテはベートーヴェンを敬愛していましたので、自身がアントーニアとの間に入って行くことはできなかったとみられます。ゲーテはベートーヴェンを失いたくなかったのではないかと思われます。
以上、青木やよひ氏の著作およびゲーテ作・竹山道雄訳「若きウェルテルの悩み」の解説を参考に推論を行っていますが、今後は青木氏の著述事項についてのより学術的研究が進められ、ベートーヴェンの不滅の恋人と関連した後期様式に至る状況や動機がより明らかになるものと思っています。
【音楽史年表より】
1812年9/8、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、フランツェンスブルンを出発し、カールスバートに到着し、ゲーテと再会し和睦する。カールスバートにおいて両巨匠の真の迎合が実現したのであった。(1)
9/23頃、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、運命の一撃を受け、歓喜の絶頂から生涯最大の絶望の淵へ突き落される。この頃から日記を付けはじめたものと思われる。日記の第1ページは「服従、おまえの運命への心底からの服従・・・おお、きびしいたたかい」で始まり、「こうして、Aとのことはすべて崩壊にいたる・・・」で終わっている。(1)
11/4、ベートーヴェン(41)
アントーニア一行、ウィーンを出発し、フランクフルトへ向かう。(2)
11/6頃、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、リンツを出発しウィーンへ向かう。(2)
1813年4/8、ベートーヴェン(42)
シュタッケルベルク男爵夫人ヨゼフィーネ、ウィーンで第7子ミノナを出産する。(2)
1814年2/27初演、ベートーヴェン(43)、交響曲第8番ヘ長調Op.93
ウィーンの宮廷内のレドゥーテンザールで開催されたベートーヴェンの自主演奏会で初演される。第8交響曲初演時には交響曲第7番イ長調Op.92(4回目の演奏)、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」Op.91が再演される。(3)
12/22、ベートーヴェン(44)、歌曲「メルケンシュタイン」第1作WoO144
詩人ヨハン・バプティスト・ルプレヒトがベートーヴェンに詩を送り、作曲を依頼する。ベートーヴェンは1814年秋に「とても楽しく作曲するでしょう」と返書をしたためた。(3)
1814年という年はおそらくベートーヴェンにとって精神的苦悩の極限だった。その上重い病に倒れ、医者から重大な警告を受けたことがうかがわれる。フランクフルトにいてそれを人伝てに聞いたアントーニア・ブレンターノから小切手が届けられ、ベートーヴェンはためらいながらもそれを受け取ったのだった。これが2人の関係が破たんしたあとの最初の接触だったかもしれない。この歌曲には深刻な挫折感を経てなつかしい追憶となった友愛への憧れが感じられる。ベートーヴェンはこうした自分の心境を他人の歌詞に託して表現し、それを相手に贈ったのかもしれない。(2)
1815年夏作曲、ベートーヴェン(44)、合唱とオーケストラのための「海の凪と成功した航海」Op.112
ゲーテの詩により作曲され、ゲーテに献呈される。1812年ベートーヴェンとゲーテはテープリッツ及びカールスバートで会合し、親交を深めたが、その後2人が会うことはなかった。それでも互いに尊敬し合う関係は続き、ベートーヴェンはゲーテの「海の凪と成功した航海」の音楽化を試みる。直接の契機は交響曲第7番と第8番を発表するコンサートの最後を飾る作品として創作されることになった。(3)
10/19、ベートーヴェン(44)
ベートーヴェン、エルデーディ夫人へ手紙を書き、心境を語る・・「無限の精神の体現者でありながら、有限の存在である私たちは、苦悩と歓喜の両方を耐えるべく生まれついているのです。そして、私たちにとって最善のことは、苦悩を通じて歓喜を勝ちうることだと申してもよいでしょう。」この「苦悩を通じて歓喜へ」という言葉はのちにベートーヴェンの名文句として広く知られるようになったが、初出はこれである。(4)
1816年4月作曲、ベートーヴェン(45)、連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」Op.98
歌曲史上はじめての「連作歌曲集」として独自の位置を占めるばかりではなく、ベートーヴェンの全作品のうち最も感動的な音楽の1つとなる。(3)
その頃まだ医学生だったボヘミア出身のアロイス・ヤイテレスから連作詩「遥かなる恋人に」の手書きのコピーがベートーヴェンのもとに贈られてきた。その詩は美しい自然を背景に、遠く離れた恋人を想う切々とした心情を歌ったものだが、当時のベートーヴェンにとってこれほど心を動かされるものはなかった。6連からなるその詩をベートーヴェンは全体を一つの雰囲気の中でつなげ、循環してゆくという新しい様式によって、一挙に作曲した。こうして後にシューベルトやシューマンなどに大きな影響を与えることになる音楽史上はじめての連作歌曲(リーダークライス)「遥かな恋人に」Op.98が誕生した。(4)
11月作曲、ベートーヴェン(45)、ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101
1816年5月に作曲が開始され、11月に完成したものと見られる。ドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人に献呈される。(3)
ロマン・ロランはこの曲を分析しながら、ベートーヴェンは4年の間に人間が変わってしまったと述べているが、特に第3楽章のアダージョでは、神と向き合いながら問いと答えをまさぐっているかのような深く静かな抒情性が支配している。この曲はシューマンに大きな影響を与えたもので、これによってベートーヴェンは音楽史上、ロマン主義への扉を開いたといってよいが、同時にこれは彼自身の後期様式への入口であるとも言える。(4)
1817年末作曲、ベートーヴェン(47)、歌曲「あきらめ」WoO149
パウル・フォン・ハウクヴィッツ伯爵の詩による。(3)
ベートーヴェンの日記の1816年末の頁に、女性の頭文字である「T」について2回にわたる意味深長な文章が現れている。そしてそれと連動するかのように「フランクフルト人」としか書いてない相手とひんぱんに手紙のやりとりした記録が残されている。そして、またもイギリス旅行が話題になっている・・・この出来事は17年末に作曲した歌曲「あきらめ」WoO149によって、その結果が推測できる。おそらく彼としてはいったん過去のものとしたはずの恋人問題がなんらかの理由で再燃し、そして1年ほどで決定的な終焉を迎えたに違いない。「消えよ、わが光!」で始まるハウクヴィッツによるその歌詞は、当時のベートーヴェンの心境を痛ましいばかりに代弁している。(4)
【参考文献】
1.青木やよひ著・ゲーテとベートーヴェン(平凡社)
2.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)
4.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
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