音楽史・記事編114.ベートーヴェンとテレーゼ・ブルンスヴィク
ベートーヴェンはハンガリー貴族のブルンスヴィク伯爵家のひとびとと深く関わっています。1799年にテレーゼとヨゼフィーネ姉妹がウィーンを訪問してからは、ベートーヴェンの創作活動にも大きく影響しています。特に姉のテレーゼはベートーヴェンの音楽に心酔し、また密かにベートーヴェンを慕っていました。しかし、ベートーヴェンとヨゼフィーネの相思相愛の関係を知りショックを受けたようです。本編では「神のごときベートーヴェン」と語り、生涯にわたりベートーヴェンを尊敬していたテレーゼについて見て行きます。
〇ベートーヴェンの親友ズメスカルとテレーゼの弟フランツ
1792年ベートーヴェンはウィーンに音楽留学し、リヒノフスキー侯爵邸に寄宿し、リヒノフスキー侯爵邸で毎週開かれる夜会でウィーンの作曲家や貴族と知り合うことになりますが、その中でもっとも気のおけない友人となったのがハンガリー貴族のズメスカルでした。ズメスカルはハンガリーのウィーン駐在秘書官で、後には儀典長官を務め、一方で優れたチェリストであり作曲家でもあり、音楽愛好家協会の設立などに貢献し、ベートーヴェンの才能に惚れ込み、彼の身の回りの雑事までこまめに行ったとされます。(1)
ベートーヴェンは親友ズメスカルにフランツ・フォン・ブルンスヴィク伯爵を紹介され、手紙ではズメスカルと同様にフランツに対してもDu(おまえ)と呼ぶほどに親しくなっています。
〇ベートーヴェン、ブルンスヴィク姉妹にピアノのレッスンを行う
ベートーヴェンは1799年、親友ズメスカルの依頼でハンガリーからやってきた美人と評判のブルンスヴィク姉妹にピアノのレッスンを行います。姉妹の中ではテレーゼのピアノ演奏が最も優れ、恐らくベートーヴェンのピアノソナタなどの楽譜を手に入れ、その音楽に心酔していたようです。テレーゼとヨゼフィーネがはじめてベートーヴェンを訪問した折には、テレーゼはベートーヴェンのピアノ三重奏曲をピアノと自身の歌で演奏しベートーヴェンを喜ばせています。
ベートーヴェンは16日間にわたって姉妹にピアノレッスンを行い、ピアノ連弾のための「君を想う」WoO74を作曲し、姉妹に贈っています。姉妹のウィーン訪問は婿探しも目的にしており、ヨゼフィーネはダイム伯爵に見初められ、わずか2ヶ月たらずののちに結婚します。ヨゼフィーネの結婚後もダイム邸では夜会が行われベートーヴェンが招かれ、ベートーヴェンはヨゼフィーネにピアノのレッスンを続けています。しかし、1804年には4人の子供を残して、ダイム伯爵は急死しヨゼフィーネは未亡人となり、やがてダイム邸での夜会が復活し、ベートーヴェンはヨゼフィーネに急接近します。ひそかにベートーヴェンを慕っていた姉のテレーゼはシャルロッテからの報告で、ベートーヴェンが慕っていたのは自分ではなく妹だと知りショックを受けたようです。
〇テレーゼ、ペスタロッツィの教育論を学ぶ
ベートーヴェンとヨゼフィーネは相思相愛の関係でしたが、恐らくヨゼフィーネは子供たちの貴族の身分を守るためにベートーヴェンとの関係をあきらめます。平民の女性が貴族と結婚することは可能でしたが、貴族の女性が平民と結婚するときは、女性は貴族の身分を失い、その子供も平民となる制度があったためと見られます。そして、1808年の夏にはスイスの教育者ペスタロッツィを訪ねる旅に出ます。この旅には姉のテレーゼの同行を求め、テレーゼにとってはペスタロッツィの教育論を学ぶ機会となりました。
〇ベートーヴェン、ピアノソナタ第24番をテレーゼへ献呈する
ベートーヴェンは1805年にヨゼフィーネのために熱情ソナタを作曲し、ヨゼフィーネの兄のフランツに献呈しています。本来ヨゼフィーネに献呈すべきところ、兄に献呈したのは、自身とヨゼフィーネの関係について、ブルンスヴィク家には秘匿していたからと考えられます。ブルンスヴィク家ではヨゼフィーネが平民のベートーヴェンと付き合うことに否定的だったものと思われます。
ベートーヴェンは1809年に4年ぶりにピアノソナタ第24番を作曲します。このソナタはこれまでのソナタ形式による主題の彫琢などのものとは全く異なった様式で書かれ、いわゆるカンタービレ様式となっています。1810年にはヨゼフィーネはシュタッケルベルク男爵と再婚し、ベートーヴェンはピアノソナタ第24番を出版し、ヨゼフィーネの姉のテレーゼに献呈しています。この曲がテレーゼに献呈された理由はよく分かっていませんが、ブルンスヴィク家の中ではベートーヴェンのピアノ曲を最も見事に演奏し自分を敬愛しており、ヨゼフィーネの姉として世話になったことへの感謝の意味からとも見られます。また、ベートーヴェンは「精神の偉大さと心の善良さ」を生涯のモットーとしており、これらは身分制度を超える価値と考えていましたが、身分の問題でヨゼフィーネとの別れが訪れたことについて、姉のテレーゼに音楽で問いかけたのかもしれません。
〇テレーゼ、ヨゼフィーネの子供たちを養育する
この後シュタッケルベルクと結婚したヨゼフィーネに不幸が訪れます。シュタッケルベルクに経済力は全くなく、しかもダイム伯爵が子供たちのために残した遺産までも使い尽くし、出身地のエストニアに逃避するという事態に陥ります。心身の疲労が極限に達したヨゼフィーネはダイム伯爵との子供4人の養育をハンガリーの姉のテレーゼに任せるようになり、自身はウィーンに残ります。これまでさんざん自分の意思を押し通してきたヨゼフィーネにハンガリーの実家の世話になることはできなかったものと思われます。ヨゼフィーネはベートーヴェンから生活費の援助を受け、頼れる人はベートーヴェンのみであることを悟ったようです。ヨゼフィーネは精神が不安定になる中、1821年に亡くなります。この間のベートーヴェンの会話帳はシントラーによって破棄されており、ベートーヴェンとヨゼフィーネの関係は分からなくなっています。おそらくブルンスヴィク家の意向により、ブルンスヴィク家にとって不名誉と思われることから排除されたものと思われます。
〇ヨゼフィーネの兄フランツ、第9交響曲の初演にウィーンを訪問する
ベートーヴェンの巨匠としての名声はヨーロッパに響き渡っていました。1824年ウィーンでベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調が初演され、フランツ・ブルンスヴィク伯爵夫妻ははるばるハンガリーからこの初演のために駆けつけています。おそらく亡くなったヨゼフィーネへのベートーヴェンの支援に対する感謝を伝えるためだったものと思われます。
〇テレーゼ、ハンガリーの幼児教育の先駆者となる
1827年にベートーヴェンが亡くなったとき、ズメスカルがテレーゼにベートーヴェンの葬儀の模様について「かつてオーストリア皇帝でさえ、これほどの葬礼は受けませんでした」と伝えているように、葬儀とそれに続く葬列には2万人とも3万人ともいわれるウィーン市民が集まったのでした。ヨゼフィーネの子供たちを養育したテレーゼは、ベートーヴェンの死後に私財を投じて託児所を作り幼児教育のために尽くし、スイスのペスタロッツィの教育論を実践し、ハンガリーの幼児教育の先駆者と呼ばれるようになります。
【音楽史年表より】
1799年5月、ベートーヴェン(28)
ハンガリー貴族のブルンスヴィク家のテレーゼとヨゼフィーネが婿選びの準備のために母アンナに連れられウィーンに来る。母アンナは二人の音楽的才能を大事にしていたので、ニコラウス・ズメスカルを仲介にして、ベートーヴェンにピアノのレッスンを受けさせようとした。ハンガリー出身で当時ベートーヴェンの最も身近におり、最も気のおけない友人であったズメスカルはブルンスヴィク令嬢の叔父にあたるといわれるが、系図としては明瞭ではない。(2)
ベートーヴェン宅を訪問した時、テレーゼは調子の狂ったピアノにもめげず、ベートーヴェンの三重奏曲のバイオリンとチェロのパートを歌いながらピアノ・パートを弾くという芸当をやってのけ、ベートーヴェンを感激させる。こうしてそれから16日間ベートーヴェンは伯爵家の滞在する金の鷲ホテルに通いつめ、テレーゼとヨゼフィーネを熱心に教えることになった。(3)
5/23作曲、ベートーヴェン(28)、ゲーテの詩「君を想う」による歌曲とピアノ連弾のための6つの変奏曲WoO74
ウィーンを訪れたテレーゼ、ヨゼフィーネ姉妹に16日間にわたってピアノレッスンを行ったベートーヴェンは5/23付で令嬢たちの記念帳に1曲の歌曲とそれに基づく4つの変奏曲をしたため、次のような言葉を添えた・・・「願わくは時折お二人がこのささやかな音楽の捧げ物を演奏したり、歌ったりして下さり、お二人を真実敬愛申し上げるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのことを想い出してくださいますように」。1805年1月の出版では6つの変奏曲に改訂され、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人とテレーゼ・ブルンスヴィク伯爵令嬢に献呈された。(3)
6/29、ベートーヴェン(28)
ウィーンを訪れたブルンスヴィク伯爵令嬢ヨゼフィーネはミューラー美術館館主であるヨーゼフ・ダイム・フォン・ストリッテッツ伯爵に見初められ、強引な求婚の末、早くも6/29に結婚する。(2)
1804年1月、ベートーヴェン(33)
ヨゼフィーネの夫ダイム伯爵が旅先のプラハで急死する。(4)
10月頃、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、ウィーンへ戻る。未亡人となっていたヨゼフィーネ・ダイムと再会し、ピアノ指導を通じて次第に親密になる。(3)
24歳で突然未亡人となったヨゼフィーネは、その直後に4人目の子供を出産し、神経の病から頭痛に悩まされるようになった。看病のためにハンガリーから出てきたシャルロッテがこと細かに手紙で報告している。5月末には姉妹がそろって避暑地でベートーヴェンを訪問し、秋からはまたダイム邸での音楽会が始まり、ベートーヴェンはほとんど毎日訪れてヨゼフィーネにレッスンをするようになる。二人の急接近を「少し危険だ」と報告したシャルロッテに、テレーゼは「用心するように」などと否定的に答えている。ベートーヴェンが心を寄せていたのは自分ではなく妹だったという事実を知ったテレーゼが、そのショックをこうした形に転化したのかもしれない。(4)
1808年8月、ベートーヴェン(37)
ベートーヴェンとヨゼフィーネの恋愛は悲劇として幕を閉じることとなったが、ヨゼフィーネはその後母親としての使命に生きようと決心したように見える。1808年8月息子たちに理想的な教育を受けさせようと次男のフリッツ(7歳)と3男のカール(6歳)を連れ、その夏カールスバートにいた姉のテレーゼに同道を依頼して長い旅に出る。彼らが到着したのは著名な教育者ペスタロッツィのいるスイスのイヴェルトンであった。ここで姉妹はエストニア出身の男爵クリストフ・シュタッケルベルクと出会って、彼を家庭教師に迎える。一行5人はスイスからイタリア各地をめぐり、翌1809年6月ウィーンに着く。(4)
1809年作曲、ベートーヴェン(38)、ピアノソナタ第24番嬰へ長調Op.78
1810年の出版でこのソナタはテレーゼ・フォン・ブルンスヴィクに献呈される。テレーゼは終生ベートーヴェンを尊敬して「神のごときベートーヴェン」と呼び、ベートーヴェンが亡くなった翌年ハンガリーで託児所をつくり、生涯独身のまま、その仕事を続けた。「熱情ソナタ」後、約4年の空白を置いて、ベートーヴェンはふたたびピアノソナタの創作に戻る。正にロマン主義的ともいえる「嬰ヘ長調」という調性と形式、さらに主題にはカンタービレ的な性格が表れる。1808年の運命交響曲と田園交響曲とによって徹底的な動機操作による主題労作の極致に達したベートーヴェンは、主題の動機的な細分化とは別な方法を模索する時期に入る。(3)
1810年2/13、ベートーヴェン(39)
ヨゼフィーネがクリストフ・フォン・シュタッケルベルク男爵と結婚する。その年のうちに女児が誕生し、翌年には男児が生まれたが、読書好きで博識であったが生活をまったく省みない無収入の夫と、経済観念にうとく、万事にぜいたく好みの妻という彼らの家庭はほどなく財政的に行きづまる。(4)
1812年6/27あるいは6/28、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、ダイム伯爵邸のヨゼフィーネを訪問する。ヨゼフィーネはシュタッケルベルクと再婚していたが、シュタッケルベルクはダイム伯爵の遺産を使いつくし、ヨゼフィーネをウィーンに残し、エストニアに引きあげていた。ヨゼフィーネは生活費にもこと欠く状態でベートーヴェンは約2000フローリンを持参したものとみられる。(4)
9/21、ベートーヴェン(41)
テレーゼ・ブルンスヴィク、日記に妹ヨゼフィーネについて記す・・「妹ヨゼフィーネが宿した子どもを、生まれたあかつきには、気高い厳粛な気持ちで子どもに備わる神性を何もそこなわないように自分が養育しよう」・・生涯ベートーヴェンを敬愛していたテレーゼは、ヨゼフィーネの子供たちの養育にあたり、ヨゼフィーネの死後にはベートーヴェンがヨゼフィーネに書いた恋文13通や遺品を、翌年4月に生まれたミノナに託したのであろう。ミノナは後年ウィーンでピアノ教師をして独身で過ごしたが出生については秘匿していた。ベートーヴェンの遺品はミノナの家政婦によって持ち逃げされアメリカに渡り、散逸していたが、恋文13通が1949年突然アメリカで発見された。(4)
9/23頃、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、運命の一撃を受け、歓喜の絶頂から生涯最大の絶望の淵へ突き落される。この頃から日記を付けはじめたものと思われる。日記の第1ページは「服従、おまえの運命への心底からの服従・・・おお、きびしいたたかい」で始まり、「こうして、Aとのことはすべて崩壊にいたる・・・」で終わっている。(5)
1821年3/31、ベートーヴェン(50)
ヨゼフィーネ、ウィーンにて死去する。前夫ダイム伯爵の4人の遺児はハンガリーのマルトンヴァシャールで姉のテレーゼが養育、シュタッケルベルクの遺児はエストニアにて養育され、ヨゼフィーネはウィーンで孤独に生きていた。テレーゼの日記には「このすばらしい女性は破滅の淵で無心に花とたわむれていた」と記している。なお、ベートーヴェンのヨゼフィーネに宛てた恋文13通はテレーゼによって末娘のミノナに託されていたが、ミノナは自身の出自も含めて生涯公表しなかった。これらの恋文はミノナの家政婦によってアメリカに持ち逃げされ、失われていたが、1949年競売で世に現れ、1958年解説付きでボンのベートーヴェンハウスから刊行される。(4)
1824年5/7初演、ベートーヴェン(53)、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125
ウィーンのケルントナートーア劇場で初演される。総指揮者ベートーヴェン、実質指揮者は宮廷楽長ウムラウフ、コンサートマスターはシュパンツィヒ、独唱はSop:H・ゾンターク、Alt:K・ウンガー、Ten:A・ハイツィンガー、Bar:J・ザイペルト、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に献呈される。(3)
初演当日、宮廷劇場は満席になった。痛風で病臥中だったズメスカルは輿に乗って来場し、遠くブダペストから夫婦でかけつけたフランツ・ブルンスヴィクの姿もあった。(1)
1827年3/26、ベートーヴェン(56)
ベートーヴェン、死去する。死去から2日後の3/29に行われた葬儀は誰も想像できなかったほどの盛儀となった。2万人とも3万人とも言われるウィーン市民がどこからともなく駆けつけた。痛風の老友ズメスカルは、「かつてオーストリア皇帝でさえ、これほどの葬礼は受けませんでした」と、ハンガリーのテレーゼ・ブルンスヴィクに書き送っている。(1)
【参考文献】
1.青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
2.小松雄一郎編訳、ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)
4.青木やよひ著、「決定版」ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
5.青木やよひ著、ゲーテとベートーヴェン(平凡社)
SEAラボラトリ
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