音楽史・記事編130.ショパンの創作史
ポーランドに生まれ、ウィーンで祖国の革命の報に接し、フランスのパリに作曲家、ピアニストとしての活動の場を求め、パリに亡命したポーランド革命家とともにポーランド民族舞曲を中心として、生涯を通じてピアノ曲の作曲に取り組んだショパンはピアノの詩人と呼ばれています。
〇パリのショパン
フランス革命後のパリでは自由・平等・博愛のもと共和制を実現し、音楽文化面では劇場等の経営は王侯貴族から海外貿易等で財を成した富裕層に移り、従来からのサロン文化も貴族から富裕層に移行し、また失敗に終わったポーランド開放闘争で戦った多くのポーランド貴族たちがフランスのパリに亡命していました。ショパンはポーランド貴族のサロンに招かれ、さらにポーランドの有力貴族ラジヴィウ公とともに大富豪ロスチャイルド家のサロンを訪れ、ショパンの見事なピアノ演奏は賞賛されます。ロスチャイルド男爵のベッティ夫人がショパンに弟子入りを願ったことから、このショパンの評判は瞬く間にパリの社交界の広まり、さらに多くの貴婦人たちがショパンの教えを乞うこととなり、ショパンはパリでの安定した生活を手に入れます。(1)
ワルシャワ時代からショパンはオペラの大ファンでしたが、パリを訪れた1831年オペラ座ではマイヤーベーアの歌劇「悪魔のロベール」が初演され、空前の大ヒットとなり、フランス・グランドオペラの本格的な到来を告げます。1829年ロッシーニによって歌劇「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」が初演され、初めての全5幕のフランス・グランドオペラが始まります。マイヤーベーアの「悪魔のロベール」では、ジオラマなどを駆使した壮大な舞台作りが行われ、次作の「ユグノー教徒」は19世紀最大のオペラとなります。ショパンはワルシャワ高等音楽院時代からワルシャワで上演されたオペラには必ず足を運び、後に「17の歌」として出版される歌曲を作曲しています。おそらく、ショパンは歌劇作曲にも興味があったものと見られますが、大管弦楽を駆使し、壮大な舞台装置で観客を圧倒するマイヤーベーアのオペラを見てからは、自身の創作分野をピアノ独奏曲に限定したように思われます。
〇ショパンのポロネーズ、マズルカ、ワルツ
1817年7歳のショパンはト短調のポロネーズを作曲し、自費出版され、ポーランド民族音楽の作曲家は弱冠7歳でいながらすでに真の天才だと論評されます(1)。ポーランドの舞曲ポロネーズはバロック時代にすでにフランス組曲に取り入れられ、フランスでは盛んに作曲され、古くは3拍子以外に2拍子のポロネーズもあったようで、フランスの舞踏会の入場曲はポロネーズであったとされます。フランス様式を取り入れたセバスティアン・バッハは管弦楽組曲第2番BWV1067でポロネーズを作曲しています。
ポロネーズと並ぶポーランドの代表的舞曲であるマズルカはショパンの他、リストやドボルザークによって作曲され、バレエ曲としてもドリーブの「コッペリア」やチャイコフスキーの「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」にマズルカが組み込まれています。
西オーストリア、南ドイツ地方を起源とするワルツは、1800年代にウィーンで流行し、ランナーやシュトラウス一家などによりウィーンの代表的な舞踏曲として作曲され、ショパンもウィーンに旅行し、ワルツを作曲するようになったと見られます。
〇ショパンのスケルツォ
ショパンのスケルツォはピアノによる交響詩といえるほどスケールの大きなピアノ曲であり、ピアノ独奏曲創作史における最高峰に位置する作品となっています。スケルツォは4楽章構成の舞踏楽章のメヌエットに代わる楽章として音楽史に登場します。メヌエットをテンポの遅い貴族の舞踏とすれば、スケルツォはテンポの速い庶民の舞踏ということができ、スケルツォは交響曲でベートーヴェンによってはじめて用いられ、弦楽四重奏曲ではベートーヴェンに先立ちハイドンが1781年の6曲のロシア弦楽四重奏曲作品33で初めて用いています。しかし、ショパンはスケルツォで舞踏という概念を超え、暗さ、抑圧、解放、軽快、動揺、失望、感動、安らぎなどのさまざまな感情(1)を、交響詩のようにダイナミックに表現しています。
【音楽史年表より】
1810年3/1、ショパン(0)
フレデリック・ショパン、ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。父ミコワイはフランス人でフランス北東部マランヴィル村に生まれる。ミコワイはポーランド・ジェラゾヴァ・ヴォラにあるスカルベク家に家庭教師として雇われ、そこで働くショパンの母ユスティナ・クシジャノススカと出会った。(1)
1830年作曲、ショパン(20)、ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11
フリードリヒ・カルクブレンナーに献呈される。カルクブレンナーはショパンより24歳年上のドイツ出身の有名なピアニストで、パリに出たばかりのショパンに支援の手を差しのべる。ショパンは正統派のピアノ教師であったカルクブレンナーから、パリに来てから3年間指導を受ける。(1)
11/2、ショパン(20)
ショパン、友人ティトゥスと共にワルシャワを発ち、ウィーンに向かう。(1)
12月、ショパン(20)
ショパン、ワルシャワで武装蜂起が起こったことを知る。ティトゥスは帰国する。(1)
1831年9月、ショパン(21)
ショパン、シュツットガルトに到着、ロシア軍によるワルシャワ占領を知る。(1)
9月末、ショパン(21)
ショパン、パリに到着する。(1)
11/21、マイヤーベーア(39)、歌劇「悪魔のロベール」
パリ・オペラ座で初演され、空前の大成功を収め、オペラ座の看板演目となる。5幕のグランド・オペラ。中世ヨーロッパに起源を持つ伝説で、自分が悪魔の申し子であると知ったノルマン騎士悪魔ロバートの物語。舞台を見たショパンは友人への手紙で次のように述べている・・・この劇場はまさにジオラマだ。終りになると教会の中が見えるようになって、クリスマスとか復活祭の場面では教会全体がすべて光り輝くようになる・・・グランド・オペラは聴く娯楽である以上に、眺める娯楽だったのである。(2)
1832年出版、ショパン(22)、4つのマズルカOp.6
パリで出版される。ショパンの全ピアノ曲中、故国以外で最初に出版された作品。ブラーテル伯爵令嬢ポーリーヌに献呈される。(3)
1832年作曲、ショパン(22)、スケルツォ第1番ロ短調Op.20
1831年にウィーンで作曲され、1832年以降パリにて補筆されたものとみられる。一般にスケルツォは「ベートーヴェンがメヌエットをハイドン、モーツァルトの手から継承して、それに代わるものとして発展させた形式で主としてソナタや交響曲の第3楽章に用いられる。」とされるが、ハイドンは冗談を意味するスケルツォを1781年に作曲した作品33のロシア四重奏曲で既に用いている。ハイドンは当時心を寄せていた美貌の歌手ポルツェリのために貴族の舞踏であるメヌエットを排したものとも考えられる。ショパンはスケルツォという普遍性のある形態の上に、最も深刻な音楽を作り上げた。曲は1835年出版され、トーマス・アルブレヒトに献呈された。(3)
1832年、ショパン(22)
ショパンはパリで、リスト、ヒラー、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、フランコムと親しくなる。パリのランベール館では亡命したチャルトリスキ公を中心に、ミツキエヴィチらポーランドの文化人たちの集いが月曜ごとに開かれ、ショパンはそこでピアノを演奏する。また、プラテル伯爵邸では毎週木曜日にサロン・コンサートが開かれ、ここでも知己を広げる。ショパンはヴァレンティ・ラジヴィウ公の誘いでジェイムズ・ド・ロスチャイルド男爵のサロンに一緒に行くことになる。男爵夫人ベッティ・ロスチャイルドはショパンにピアノ演奏が終わると、その教えを受けられるか尋ねた。ベッティがショパンに弟子入りを願ったことは社交界に瞬く間に広まる。レッスン料は20フラン(約2万円)で安くはなかったが、多くの貴婦人たちがショパンの教えを乞うことになり、パリ生活の経済的基盤ができることとなる。(1)
1835年9月作曲、ショパン(25)、3つの華麗なる円舞曲作品34第1曲・華麗なる円舞曲 変イ長調Op.34-1
カールスバートで両親と過ごした3週間はあっという間で、ショパンはポーランド国境のテッチェンまで送ることにし、その途上3人はトゥーン・ホーエンシュタイン伯爵の居城に招かれて数日滞在した。伯爵令嬢ヨゼフィーネにレッスンをした後にOp.34-1として出版される変イ長調のワルツを作って贈った。ヨゼフィーネがショパンの人柄について書いた手紙が残っている・・・ショパンは非常に上品で控えめだが、物まねが上手などとても楽しい人柄だ・・・(1)
1838年11/8、ショパン(28)
ショパン、ジョルジュ・サンドとともにマジョルカ島のパルマに到着する。(1)
1839年1月作曲、ショパン(28)、24の前奏曲Op.28
24の前奏曲を完成する。24曲はハ長調からニ短調まで24のおのおの相違する調で作曲され、その配列も5度循環によって全24曲が配置されている。5度循環:第1曲がハ長調、第2曲がその平行短調のイ短調、次の第3曲はハ長調より5度上のト長調、第4曲はその平行短調のホ短調となり、さらにその後は同様に5度ずつ上の調が採用されていく方法。(3)
1849年10/17、ショパン(39)
フェレデリック・ショパン死亡する。(1)
10/30、ショパン(没後)
パリのマドレーヌ寺院でショパンの葬儀が行われる。ショパンの遺言通り、モーツァルトのレクイエム、ショパンの前奏曲第4番ホ短調Op.25-4、第6番ロ短調Op.28-6が演奏される。その後、パリのペール・ラシューズに埋葬される。(1)
1850年1/2、ショパン(没後)
ショパンの姉ルドヴィカ、ショパンの心臓とともにポーランドへの帰国の途につく。(1)
【参考文献】
1.小坂裕子著、作曲家・人と作品シリーズ ショパン(音楽之友社)
2.岡田暁生著、オペラの運命(中央公論新社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・ショパン(音楽之友社)
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