音楽史・記事編121.ウィーン国立歌劇場
〇ウィーン宮廷歌劇場の建設
1869年5/25、新しく完成したウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」によってこけら落としが行われます。1860年頃から本格的に始まったウィーン大改造に伴い、ウィーンの旧市街を取り囲んでいた城壁が取り壊され、新たなリング通りとその沿線に新しい建物が次々と建設されて行き、ケルントナー門に隣接していたケルントナートーア劇場の隣の城壁を取り壊した敷地に6年の歳月をかけて新しいウィーン宮廷歌劇場が完成します。その後、ケルントナートーア劇場は取り壊され、跡地にホテル・ザッハーが建設されたとされます。1945年3月、第2次世界大戦では連合軍の空爆を受け、劇場は大きく損壊、延焼し、10年後の1955年11/5には再建がなり、カール・ベーム指揮のベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」で再開しています。
〇歌劇場のホワイエ
劇場の会場の周囲にはいくつかのホワイエがあり、ほとんどの観客は休憩時間をここで過ごすことになり、観客は、客席の中央寄りの席の人から早めに戻ることがマナーです。ウィーン国立歌劇場のホワイエの天井部分の周囲にはゆかりの作曲家の彫像が飾られています。正面中央にはモーツァルトが、その左にはオペラ改革を行ったグルックが、モーツァルトの右には管弦楽を駆使してフィナーレを拡大する改革を行ったハイドンが、ハイドンの右にはベートーヴェンが飾られ、ウィーンの歌劇場ではモーツァルトがセンターの位置にあり、最も敬意が払われていることが分かります。
〇レパートリー・システム
欧米でレパートリーとして、いつでも上演できる多くの歌劇の上演準備を整える歌劇場はウィーンの国立歌劇場とニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、この2つの歌劇場ではレパートリー・システムと呼ばれる上演方法が採用されています。レパートリーとする歌劇を中心に年間約30の歌劇公演を毎週3公演行い、シーズン中はいつでも3夜で異なる3つの歌劇を鑑賞できるようになっています。このため舞台裏の大道具等を保管するスペースは巨大なものとなっており、舞台スタッフは毎日夜遅く公演が終わるごとに、翌日の演目に備え、舞台の転換作業に追われることになり、また歌手や合唱団が練習を行う練習場等も備えられています。
〇マスネ、リヒャルト・シュトラウス、ストラヴィンスキー歌劇の初演
ウィーン宮廷歌劇場では1892年2月、フランスのマスネの「ヴェルテル」がドイツ語訳で初演されています。原作はゲーテの「若きウェルテルの悩み」で、出版当初は若者を中心に圧倒的に支持されかつ批判にもさらされ、マスネはゲーテのロマン派の先駆けともなる感傷性と情感をオペラ化しています。
ミュンヘンに生まれたリヒャルト・シュトラウスは、1885年マイニンゲン宮廷管弦楽団の副指揮者に就任し、ハンス・フォン・ビューローの指導を受け、さらに翌年にはミュンヘン宮廷歌劇場指揮者に、89年にはワイマール宮廷劇場副楽長に、98年にはプロイセン宮廷楽長となりベルリン宮廷歌劇場を指揮し、この間バイロイト祝祭劇場で指揮を行うなどワーグナー音楽に傾倒し、大管弦楽による交響詩「ドン・ファン」や交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、交響詩「ツァラトゥーストラはこう語った」などの傑作を生みだし、歌劇では「サロメ」を作曲しドレスデンで初演します。「サロメ」は良俗に反する内容とみなされ、各地の劇場では検閲を受け上演を禁じられたりしたもののシュトラウスはオペラ作曲家としての名を不動のものにします。次作「エレクトラ」ではウィーンのホフマンスタールのギリシャ悲劇の台本によりオペラ化し、さらにモーツァルト風のオペラとして作曲されたホフマンスタールの台本による「バラの騎士」は1911年2/26、ドレスデンの宮廷歌劇場で初演され、ヨーロッパ中から観客を集め大成功を収めます。このとき、シュトラウスはウィーン・フィルハーモニーの常任客演指揮者をつとめており、1916年10月には、シュツットガルトで戯曲「町人貴族」の幕間劇として書かれた「ナクソス島のアリアドネ」を、ホフマンスタールの台本によるプロローグと1幕のオペラとして改作し、ウィーン宮廷歌劇場で初演し、そして、1919年10月にはシュトラウスはウィーン国立歌劇場の音楽監督となり、モーツァルトの名作「魔笛」のオマージュとしての大作オペラ「影のない女」をウィーン国立歌劇場で初演しています。
ロシアのペテルブルク近郊に生まれたストラヴィンスキーは、ペテルブルクで音楽と法律を学び、20歳でリムスキー=コルサコフに作曲を学び、25歳で初めての作品を作曲、28歳で「火の鳥」を31歳で「春の祭典」を作曲しています。32歳でスイスに定住、38歳でフランスに移住しています。26歳の1908年から14年に歌劇作品・アンデルセンによる3幕の抒情物語「小夜鳴き鳥(夜鶯)」を作曲し、1914年5月にパリ・オペラ座で初演し、1926年から27年には古代ギリシャの神話に題材をとったラテン語の歌劇「エディプス王」を作曲します。1927年5/30にパリでオラトリオ形式により初演され、28年5/23にはオペラ形式で、ウィーン国立歌劇場で初演されます(2)。なお、5/25にはオットー・クレンペラーの指揮で、ベルリンで上演されたとされます(4)。
【音楽史年表より】
1892年2/16初演、マスネ(49)、歌劇「ヴェルテル」
ウィーン宮廷歌劇場で、ドイツ語で初演される。原作はゲーテが1774年に発表した「若きウェルテルの悩み」。啓蒙主義的合理主義に対する非合理主義と感情の優位性を特色とする疾風怒濤期のゲーテの作品の一面をなす感傷性が作曲者を引き付けたといわれる。93年1/16、パリのオペラ・コミック座でフランス語によりフランス初演が行われる。(1)
1916年10/4、R・シュトラウス(52)、歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(第2稿)Op.60
第2稿がウィーン宮廷歌劇場で初演される。初稿はモリエール作「町人貴族」の劇中劇として上演されたが、台本作家のホフマンスタールは第2稿をプロローグと1幕の歌劇に仕立て直した。第2稿が決定稿となる。(2)
アリアドネは、ギリシャ神話でのクレタ島の王の娘であり、アテネの英雄テセウスに恋をし、彼とともにクレタ島を出帆するが、途中ナクソス島に置き去りにされてしまう。しかし、悲嘆にくれたアリアドネはディオニソス(バッカス)に救出されその妻となる・・・(3)
1919年10/10初演、R・シュトラウス(55)、歌劇「影のない女」Op.65
ウィーン国立歌劇場で初演される。ホフマンスタールの台本による童話をもとにしたオペラ。ホフマンスタールは「ばらの騎士」をわれわれの「フィガロの結婚」と呼び、「影のない女」をわれわれの「魔笛」と呼ぶのを好んだ。(2)
ホフマンスタールの迷宮のような台本にシュトラウスは色彩豊かな壮大な音響と精妙なモティーフ手法で応える。霊界の王カイコバート、乳母、鷹の声、愛、石化などの音楽モティーフが劇の展開に応じて巧みに用いられ、人物の心理的な襞をも表現し傑出している。(3)
1928年2/23初演、ストラヴィンスキー(45)、歌劇「エディプス王」
ウィーン国立歌劇場で初演される。(2)
題材は古代ギリシャの神話「エディプス王」の物語からとられ、ジャン・コクトーによる台本のラテン語訳による。オラトリオによる初演は1927年5/30、パリのベルナール劇場で行われる。副題には「ソフォクレスに基づく2幕のオペラ・オラトリオ」とあり、ストラヴィンスキーのヘンデルへの傾倒が見いだされる。(4)
【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・R・シュトラウス(音楽之友社)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・ストラヴィンスキー(音楽之友社)
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