音楽史年表記事編94.バレエ音楽創作史
ヨーロッパでは古くから歌と踊りが娯楽の中心であり、イタリアでは歌唱がオペラに、フランスでは舞踏がバレエ芸術にまで発展します。
バレエの起源はルネサンス期のイタリアとされ、宮廷での余興としての詩の朗読や演劇とともにバレエが生まれ、フランスに伝わり宮廷バレエが始まったとされます。フランスの宮廷バレエはリュリによって全盛期を迎え、また、フランスではオペラにおいてはバレエの上演が合わせて行われることが伝統となって行きます。
モーツァルトはフランスのパリでパントマイム「レ・プティ・リアン」のためのバレエ音楽K.Anh.10を作曲していますが、このバレエはオペラの幕間に上演されており、バレエのないオペラの上演では幕間にバレエが上演されていたようです。モーツァルトは恐らくザルツブルクでフランスに嫁いだオーストリア皇女マリー・アントワネットのバレエの師となった振付師のノヴェールと知り合い、ノヴェールの娘のジュナミのためにピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」K.271を作曲しています。フランスのパリではノヴェールに再会し、「レ・プティ・リアン」のためのバレエ音楽の作曲を依頼されたとされます。
ロマン派期にはフランス・グランドオペラが全盛期を迎え、ドイツ出身のマイヤーベーアの歌劇「ユグノー教徒」が大ヒットし、パリでは公演回数が1000回に達し、ウィーンでも500回の公演が行われ、19世紀では最も上演回数の多いオペラとなります。フランス革命の影響でオペラの聴衆は王侯貴族から海外貿易などで裕福になったいわゆる中産階級に移って行き、オペラには娯楽性がより求められオペラ劇場は社交の場となります。
1841年アドルフ・アダンは「ジゼル」でバレエをオペラと切り離し、バレエのみによる公演を行い、近代バレエの始まりとされ、1870年ドリーブは約3年の歳月をかけ「コッペリア」を完成させ上演し、衰退したバレエ音楽を復興しフランスのバレエ音楽の父と呼ばれます。
ロシアでは帝政ロシアの時代にフランスの宮廷バレエが伝わるという古い歴史を持ち、グリンカによってロシア国民音楽が始められ、フランス移民の血を引くチャイコフスキーによって「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3つの音楽史における最高傑作のバレエ音楽が作曲されます。一方、フランスのパリではディアギレフ率いるロシア・バレエ団がバレエ公演を行っており、ストラヴィンスキーは「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」をロシア・バレエ団によって上演します。そして、ディアギレフのロシア・バレエ団の委嘱によりラヴェルの「ダフニスとクロエ」、ファリャの「三角帽子」、サティの「パラード」などの傑作バレエが生まれます。(1)
フランスで興ったバレエ文化はフランスを中心とし、ロシアのバレエ音楽の潮流を伴い、その伝統が受け継がれて行きます。
【音楽史年表より】
1653年2/23初演、モリエール他、宮廷バレエ「夜のバレ」
パリでのプティ・ブルボン宮で上演される。声楽曲はバンスラードの台本によりカンブール、ボセエ、ランブールの3人の作曲家による。また、器楽曲はモリエールが作曲を担当。トレッリは舞台装置を受け持つ。(2)
3/16、リュリ(20)
リュリ、国王ルイ14世から器楽作曲家に任命される。リュリは宮廷バレエ「夜のバレ」で踊り手として登場したが、もともとモンパンシエ公女のイタリア語の会話の相手としてイタリアのフィレンツェからパリに連れてこられた。(2)
1654年2/17初演、リュリ(21)他、宮廷バレエ「格言のバレ」
ルーブル宮で上演され、リュリはその一部の音楽を作曲する。(2)
11/30初演、リュリ(22)他、宮廷バレエ「時のバレ」
リュリ、ルーブル宮で上演された宮廷バレエ「時のバレ」でボエセらとともに作曲を担当する。(2)
1655年初演2/4初演、リュリ(22)他、宮廷バレエ「歓楽のバレ」
リュリ、ルーブル宮で上演された宮廷バレエ「歓楽のバレ」で、ボエセらとともに作曲を担当する。(2)
1778年6/11初演、モーツァルト(22)、パントマイム「レ・プティ・リアン」のためのバレエ音楽K.Anh.10
パリ・オペラ座で初演される。モーツァルトは前年1月パリへ向かう女流ピアニスト、ルイーズ・ヴィクトワール・ジュナミのためにクラヴィーア協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」K.271を作曲するが、パリではヴィクトワールの父でパリ・オペラ座の振付師であったノヴェールの依頼によってバレエ音楽を作曲する。(3)
この曲は1872年パリ・オペラ座の資料庫の中から、ヴィクトル・ヴィルデールによって筆写譜が発見された。このバレエはピッチーニのオペラ「偽りの双子の娘」の幕間に上演された。(4)
1841年6/28初演、アダン(37)、バレエ音楽「ジゼル」
アダンのバレエ「ジゼル」がパリ・オペラ座で初演される。アダンの「ジゼル」によって近代バレエが始まる。(5)
1870年5/25初演、ドリーブ(34)、バレエ音楽「コッペリア」
パリ・オペラ座でナポレオン3世臨席のもとに初演される。しかし、この作品は単独上演ではなく、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」の後に上演された。「コッペリア」はドイツ・ロマン派の作家ホフマンの小説による作品であり、当時衰退期を迎えつつあったバレエを再起させようと、パリ・オペラ座の総力を結集し、完成までに3年もの長い歳月がかけられた。(5)
1871年12/24初演、ヴェルディ(58)、歌劇「アイーダ」第2幕のバレエ音楽
カイロ歌劇場で初演される。15年の歳月をかけて1869年に完成したスエズ運河開通の記念に、エジプトの太守イスマイリはカイロに大歌劇場を作り、そこで初演するためにヴェルディ、グノー、ワーグナーのいずれかにオペラを委嘱することにした。当初ヴェルディは依頼を断ったが、カイロ歌劇場のためにエジプト学者のマリエットがメンフィスで神殿発掘の体験から考えた筋書きを、デュ・ロークルが書き直したものをヴェルディは受け入れ、ロークルのフランス語の台本をアントニオ・ギュスランツォーニがイタリア語の韻文に翻訳し作曲を行った。カイロ歌劇場は1869年11/1にヴェルディのオペラ「リゴレット」で開場したので、こけら落としには間に合わなかったが、70年7月の普仏戦争により更に延期され、71年のクリスマス・イヴの日曜の夜に、各国からの招待客などを集め、全世界の注目を浴びて初演された。「アイーダ」の初演は大成功を収め、6週間後にはミラノで、73年11月にはニューヨークで上演された。(6)
1877年3/4(旧暦2/20)初演、チャイコフスキー(36)、バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20
モスクワのボリショイ劇場で初演される。チャイコフスキーは主人公の悲劇性を序曲ほかで美しく主題化し、愛に身を滅ぼすヒロイン、洗練されたワルツ、叙情的な旋律など、白鳥の湖は舞踏と音楽の双方で芸術作品と呼べる最初のバレエであり、少なくともその原型といえる。初演は演出のライジンガーと音楽指揮者のリャーボフの能力不足や、バレリーナの資質などもあり、話題にならなかった。「白鳥の湖」の復活は1894年チャイコフスキー追悼音楽会以降となる。(7)
1890年1/15(旧暦1/3)、チャイコフスキー(50)、バレエ音楽「眠れる森の美女」Op.66
チャイコフスキーの音楽によるバレエ「眠れる森の美女」が、マリインスキー劇場でロシア皇帝臨席のもと初演される。指揮はロドリーゴ、振付けはマリウス・プチパによる。作品は劇場総監フセヴォロシスキーに献呈される。マリインスキー劇場の上演は回を重ね、92年11/30チャイコフスキーの列席で第50回公演を行う。「白鳥の湖」の報酬は800ルーブル、「眠れる森の美女」は5000ルーブルとチャイコフスキーの名声は確実に高まった。(7)
1895年1/19(旧暦1/7)初演、チャイコフスキー(没後)、バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20(新版)
新版として上演され「白鳥の湖」は完全復活する。チャイコフスキーの弟モデストが台本類の改編を行い、ナンバーの一部を短縮、更にピアノ曲集Op.7から3曲を選びマリインスキー劇場の指揮者・作曲家のドリーゴがオーケストレーションを行い、プチパとイヴァノフが振り付けし、上演される。(7)
1913年春作曲、ストラヴィンスキー(30)、バレエ音楽「春の祭典」
ストラヴィンスキーがこの曲を着想したのは、ペテルブルクで1910年「火の鳥」の最後の部分を書き上げていた時であった。「ペトルーシュカ」完成後、1912年の冬から翌年の春にかけて、クラーランスでこの仕事に没頭し完成する。(5)
1913年5/29初演、ストラヴィンスキー(30)、バレエ音楽「春の祭典」
パリのシャンゼリゼ劇場で、ディアギレフのロシア・バレエ団により、ニジンスキーの振付け、ピエール・モントゥーの指揮で初演される。このような伝統的な音楽の大胆な破壊は、パリの聴衆の間に大きな嵐をまきおこした。イントロダクションのはじめの数小節で嘲笑を買い、不愉快な示威はやがて広まっていき、たちまちのうちに恐るべき騒ぎになった・・・ストラヴィンスキーの自伝より。(5)
【参考文献】
1.小宮正安著、音楽史影の仕掛人(春秋社)
2.今谷和徳・井上さつき共著、フランス音楽史(春秋社)
3.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
4.モーツァルト事典(東京書籍)
5.最新名曲解説全集(音楽之友社)
6.作曲家別名曲解説ライブラリー・ヴェルディ(音楽之友社)
7.伊藤恵子著、作曲家・人と作品シリーズ チャイコフスキー(音楽之友社)
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