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第105回 殴り込み艦隊(1960 東映)

 さて、前回は『海軍横須賀刑務所』で読者御各位の日本海軍への美しいイメージを徹底的に叩き潰した自信がありますが、どんな組織にも良い面と悪い面があり、悪い面ばかりを取って囃し立てるのは平等をモットーとする本noteとしては望ましくありません。

 というわけで、日本海軍を極めて美しく描いた映画でバランスを取ろうと思います。若い頃の高倉健が主演の『殴り込み艦隊』でお送りします。

 最前線で戦う駆逐艦黒雲に、健さん演じる機関科士官が大和から転属してきて成長していくという、実に分かりやすく気持ち良いストーリーラインです。

 原作者は石原裕次郎の『零戦黒雲一家』で知られる元海軍少佐、萱沼洋氏で、明らかに実体験がベースになっているのも興味深い点です。

 海上自衛隊の協力の元、護衛艦ありあけがロケに使用され、まだ若くて血気盛んな健さんの魅力も相まって、実にぼんくら好みに仕上がっています。しかも、監督は島津昇一、助監督深作欣二、音楽には渡辺宙明という組み合わせで、とにかく若くて元気一杯です。

 そして、駆逐艦というのは一つの家族でもあります。そこは一度港を離れれば女人禁制のホモソーシャルの聖域。健さんの総受け力が大爆発です。

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真面目に解説

日本海軍と階級社会

 さて、映画自体の解説に入る前に、日本海軍という組織の欠点を炙り出しておく必要があります。この前提が分かっていないと、真の意味でこの映画を楽しめません。

 日本海軍は英国海軍に範を取っているというのは前にも説明したかと思います。それはどういうことなのかというと、日本海軍は英国社会の根幹をなす階級制度をも無意識に模倣してしまったという事です。

 従って陸軍よりも海軍の方が下士官兵と将校の断絶は大きく、同じ飛行機に乗っていても、弁当の中身が兵隊と士官では違うという嫌な逸話があるくらい、海軍の階級制度は強いのです。

 士官同士でも海軍兵学校を卒業した正規の将校と、叩き上げの下士官から登用された特務将校では全く扱いが違い、部屋さえも別でお互いに立ち入り禁止です。

 更には、海軍兵学校を卒業した士官同士であっても、ハンモックナンバーと称する兵学校の席次によって厳密な格差があり、余程の大手柄を立てない限りは昇進は常にハンモックナンバーの順で、ハンモックナンバーの低い者は同期に馬鹿にされるという陰湿な側面があります。

 日露戦争で軍神に祭り上げられた広瀬中佐はハンモックナンバーが低く、軍神に認定される前は「犬死に」と馬鹿にされていたそうなので、この断絶は現代日本に生きる我々には想像できないほど大きいのです。

 ちなみに、広瀬中佐は助けに行った杉野兵曹長とデキていたという美味しい話があるのですが、これは安売りできないので別の機会に取っておきましょう。

釜たきはつらいよ

 そして、士官にも色々と専門分野があり、それぞれに格差があります。

 やっぱり目立つ砲術士官やパイロットが仲間内では偉いという原則があり、一方で釜たき、つまり機関科は待遇が悪かったのです。

 この機関科士官の待遇の問題は19世紀以来の各国海軍の悩みの種でした。機関科は専門職ですが、海軍の中では新参者なので扱いが微妙なのです。

 例えば、日本の場合海軍士官は原則として全員が海軍兵学校を卒業しているのですが、機関科士官は舞鶴にある海軍機関学校で別に養成されていました。つまり、機関科将校と、一般的な兵科将校とでは、根本的に違う仕事なのです。

 そして、艦長が死んだ場合は階級と年季が一番上の士官が艦の指揮を代行するわけですが、機関科士官は兵科将校が全滅するまで順番が回って来ません。

 これではいかんと思う人も当然あったのですが、反対派に担がれた東郷平八郎元帥が「釜たきどもが」とジャイアニズムで応じた為、結局機関科問題は日本海軍最後の日まで解決できませんでした。

 当然ながら、新米のイキり砲術士官が百戦錬磨の機関科特務大尉に無礼な態度を取って喧嘩騒ぎになるような事件が後を絶ちませんでした。だから私は陸軍だけ悪者にする風潮には断固反対なのです。

イキり健さん

 さて、本作の主人公である石山(高倉健)は問題の機関科の中尉殿です。しかも大和に配属されていたのに、イキり過ぎて1か月で前線に飛ばされて来た曰く付きです。

 本作は任侠映画以前の作品なので、まだ健さんの我慢強くて不器用なパブリックイメージが確立されていません。ヤング健さんは血気盛んな役がむしろ多く、石山もそれを踏襲しています。

 この時代の健さんの映画を見ると、恐らく詳しくない人はびっくりするでしょう。何しろ健さんはおしゃべりで短気で我慢という物を知りません。ヤング健さんは、広く知られている健さんとは別の生き物なのです。

 さて、そんな健さんが差別渦巻く海軍に、差別される側として放り込まれたとすれば、200%揉め事が起きると思うでしょう?だけど、そうではないのです。

たのしい黒雲一家

 石山中尉の配属された駆逐艦黒雲は、戦歴から言っても、明らかに原作者の萱沼氏が機関長として乗艦していた「時雨」がモデルになっています。「雪風」だと思っている人がかなり多いですが、まさかこういう時に他所の艦をモデルにするとは思えません。

 黒雲将校団はかなりアクの強い面子で固められています。カミナリこと砲術長熊本大尉(安部徹)、水雷長堺大尉(中山昭二)、機関長寺田大尉(花沢徳衛)、航海長山下中尉(増田順司)、軍医長北村中尉(殿山泰司)、癖のあるおっさんばかりです。

 おっさんばかりなのはちゃんと根拠があり、エリートは将来を見据えて若手の内に大きな艦に配置換えになってしまうので、残るのは出世の遅いベテランばかりになってしまうのです。

 特にこの時期は戦況がひっ迫して士官の靖国行きが続出しているので、一旦は予備役(クビ)になった人が呼び戻されたりしてますます高齢化しています。

 そして、経験の浅い新米ばかりの艦はなすすべなく撃沈されてしまうので、尚の事腕の確かなベテランだけが残るわけです。

 石山はすぐ追い出されたとはいえ大和に配属されたくらいなので、きっと機関学校では主席クラスだったのでしょう。

 なので黒雲の士官達があまりにだらしないのを見てドン引きし、彼らに今や戦艦は無用の長物と妙に先進的に大和をディスられて憤慨しちゃいます。

 機関科より肩身の狭いはずの軍医長は大和を「天然記念物みたいな船」とディスり、砲術長は砲術士官には憧れのはずの46センチ砲を「無用の長物」とバッサリやります。

 これもやはり生の声という奴で、大和と武蔵は撃沈を恐れてずっと港にとどめ置かれていたので「大和ホテルに武蔵屋旅館」と前線の将兵には馬鹿にされていたのです。

 石山中尉はこれを聞いて憤慨しますが、砲術長は「貴様中央の参謀の回し者か」とブチ切れ、前線の駆逐艦がいかに危険で酷使されているかを力説し、お上の無能さを非難し、挙句は理屈をこねる石山に掴みかかります。

 明らかに砲術長がフルマークで判定勝ちです。安部徹が正論で健さんを打ち負かすシーンなど、他では見る事が出来ません。

 つまり、黒雲の乗組員は一様に黒雲の一員である事に強い誇りを持っており、並外れた連帯感を持っています。萱沼氏もまた、その一人だったという事です。

お父さんはカリスマ

 危うく喧嘩沙汰になるところですが、黒雲では一切の私刑私闘は禁じられていて、違反者には金太郎訓練なる罰を課される決まりになっています。

 それを決めたのがそこで誰よりも荒くれっぽい艦長の剛田中佐(田崎潤)です。田崎潤は新東宝に居た頃は天下の東郷元帥だったのに、格下げになっちゃいました。

 石山中尉とジョニ黒飲んで「黒雲一家の親分子分の盃」とか言っちゃうあたり、明らかにこの風土はこの人が作った物です。

 「お前の命は俺が預かった」と艦長は石山中尉に言いますが、基本的に黒雲一家は艦長に100%の忠誠を誓っていて、全員が艦長の為に死ぬ覚悟が出来ています。

 石山中尉も参謀が贅沢しているのにキレてぶん殴った挙句に飛ばされて来たので、本質的に一家向きの人材だったのです。

 結局のところ、この映画は石山が艦長の下で成長していく様を描く映画です。血の気の多いヤング健さんを小姓にする傑物、剛田中佐なのであります。

恐怖の金太郎訓練

 下士官兵も謎のカイゼル髭でキメてきた山本麟一以下ご機嫌な状況でしたが、陸戦隊から移って来た南兵曹(直木明)が悪い方向でイキって喧嘩騒ぎを起こしてしまい、喧嘩を買った大野兵曹(関山耕司)ともども例の金太郎訓練を命じられます。

 即座に止めずにある程度鬱憤を発散する時間を与えるのがアイスホッケーの乱闘みたいで素敵です。男の子の心理を艦長はちゃんと分っています。

 さて、金太郎訓練というのは、当事者が熊になり、金太郎コスプレをした野呂という兵曹(曽根秀介)を乗せて甲板を耐えられる限り周回して競うというかなり恥ずかしい罰ゲームです。

 つまり、痛いのはいかんので恥ずかしい方向で罰を与えるという艦長の前衛的かつ画期的なアイディアなのです。

 海軍精神注入棒で尻を叩かれると当分は満足に動けないので、いつ何時戦闘になるか分からない前線では効果的な方法かもしれません。

 艦長の許可が必要で、ヤマリンが勝手に命じる事が出来ないのも重要です。この艦長、やはりただ者ではありません。

拳銃は予備の武器だ

 果たして金太郎訓練中に空襲が始まり、乗組員たちは呆れる程素晴らしい身のこなしで配置に付き、対空戦闘をおっぱじめます。

 だらしない連中がいざ仕事となると俄然やる気を出す。恐らく松本零士はこの映画を参考に『キャプテンハーロック』を描いたのでしょう。

 東映には珍しく特撮でも頑張っていますが、ここで海自の協力を得た事が大きく幸いします。つまり、セットではなく本物の艦が使われているのです。

 ただ、使われた護衛艦「ありあけ」はアメリカから貰ったお古の駆逐艦なのが笑えない所です。

 石山中尉は初めての実戦にビビり、貰ったばかりの和田というイケメン従兵(水木襄)を失う散々なデビュー戦になってしまいます。拳銃は最後の武器などというきれいごとは戦争では言ってられないのです。

 とは言え、最終的に日本の戦闘機が駆けつけてケリがつくのは、本作がやはり『零戦黒雲一家』の兄弟作であるという事です。二谷英明があの零戦に乗っていたとしても驚くべき事ではありません。

華の爆雷投射

 さて、私がミリタリーの見地で一番高く買いたいのは、爆雷投射のシーンががっつり描かれているところです。

 何と言っても、駆逐艦の重要な役割は対潜水艦であって、潜水艦映画ではラストに駆逐艦と戦うのが型ですが、駆逐艦サイドからちゃんとこれを描く映画は驚くほど少ないのです。

 僚艦の青雲が撃沈されてもすぐには救出に行かず、まずは大本の潜水艦を仕留めるという艦長の冷静沈着な判断は、やはり黒雲一家が歴戦の勇士の集団である事を示します。

 つまり、撃沈された艦の乗組員を救助に行けば、その間艦は無防備な状態になり、二次災害に陥ります。各人に精々30分海中で我慢してもらった方が割りが良いのです。

 この辺のリアリティは、やはり本物の海軍士官が書いただけのことはあります。

 石山中尉は機関長が他の艦に出張して不在の中で根性を見せ、将校団は初陣をお祝いしてくれるわ、下士官たちは正妻争いを始めるわ、黒雲一家は爆雷ハイ状態です。

名ばかりメインヒロイン

 さて、男の聖域を描くこの映画にも、一応女の名目的ヒロインが居ます。ラバウルの料亭の養女のタカ(久保菜穂子)です。田崎潤もそうですが、どうにも当時の健さんの映画は新東宝移籍組が多いのです。

 タカは元々は呉の芸者で、石山中尉に惚れこんでいますが、石山中尉は堅物の上に女心が分からないので、タカが源氏名ではなく本名で出した手紙を「知らない女の手紙は読まない」と捨て、改めて来た手紙に至っては破って海に捨ててしまう有様です。

 吉永小百合のラブレターをにべもなく捨てたという加藤剛のガチホモ伝説に通じるものがあります。やはり光輝ある帝国海軍士官たるもの、女に迷うようではいけないのでしょうが、いくらなんでもデリカシーに欠けます。

 結局のところ、この映画の存在意義はコンドーム、もといゴム兜のように薄く、関山耕司以下です。いゆや、この映画の関山耕司はベストアクト級なので、比べるのはちょっとかわいそうです。

総力戦は悲しからずや

 さて、黒雲のモデルになった時雨は昭和20年まで生き残った殊勲艦なので、アクの強い将校団も一様に腕利きなのですが、戦況のひっ迫は駆逐艦一隻でどうこうできるものではありません。戦争は江田島平八が10人居れば勝てるとかそんな甘い物ではないのです。

 舞台はついに日本海軍の運命を決めてしまったレイテ沖海戦に至り、各セクションが大活躍します。正しい人が安部徹を味方に付けるとこんなにも心強いのかと驚くと思います。

 花沢徳衛が転勤になって機関長に昇格した石山中尉率いる機関科も大活躍ですが、戦争映画で機関科が活躍するという事は、魚雷を食らって浸水を止めるシーンが入るというのとイコールなのです。

 そして、軍医が活躍するというのはもっと悲惨な事を意味します。南は誘爆しそうな火薬を海に捨てて重傷を負い、名誉の戦死を遂げてしまいます。

 健さんの小姓に命じられた者は靖国に行ってしまうのです。私が思うに、小林稔侍のジェラシーが怨念になって襲ってくるのでしょう。

戦争は勝たなきゃいかん

 さて、日本の敗色は健さんと稔侍の友情よりも濃厚になり、昭和20年4月に至ってついに出し惜しみされて来た大和を特攻させるヤケクソの状況に至ります。

 史実の時雨より長生きした黒雲は内地に帰投し、いつの間にか大佐に昇進した艦長が反対しますが、こうなるともうどうしようもありません。日本は破滅に進んでいくのです。

 長生きしたせいで大和に付き合う羽目になった黒雲。大尉に昇進した石山はタカの養母のシズ(清川虹子!)に頼んで、有り金はたいて部下を士官用の料亭で大宴会を開いて労います。シズの方も身銭を切って酒と料理を用意するのですから、とんでもない太っ腹腐女子です。

 そこへ腐れ参謀(斎藤柴香)が乗り込んできて理屈をこねて喧嘩沙汰になってしまいます。

 結局のところ、こういう時には参謀が必ず悪者です。何しろ学校の勉強だけは得意な連中が参謀になるのが日本の軍隊の原則なので、恨みを買いやすいのです。

 おまけに参謀が上にチクったせいで石山中尉は衛兵隊にひっぱられ、タカを横須賀から連れて来た艦長がスーパー攻め様をかまして請け出す羽目になります。

 とにかく、この時間帯に戦争映画に欠かせざる反戦要素と、映画興行上欠かせざる男女のロマンスがかなりやっつけに片付けられます。結局のところ、この映画は男と男の世界を描く為だけにあるのです。

また一人堕ちる

 郷田艦長は艦隊司令に格上げになったらしく、黒雲艦長は永野というぽっと出(神田隆)に交代になり、艦隊は案の定沖縄で全滅して黒雲だけが生き残ります。

 郷田艦長は身体を壊して危篤状態。黒雲は魚雷を食らって一旦は退艦命令が出ますが、石山の具申と郷田艦長が蘇生した事で黒雲一家のホモソーシャルパワーが爆発し、見事生き延びてしまいます。

 まさに愛の力です。黒雲が一家であるなら、これ程美しく強固な家父長制は世に滅多にあるものではありません。

 永野艦長もかつての石山がそうであったように完全に黒雲一家のホモソーシャルに飲み込まれ、養子ながら長男面をして更なる出撃命令に赴いて映画が終わります。

 現代だったら非難されるエンディングでしょう。まだまだ軍人さんに憧れていた男の子が沢山居たからこそ、このような映画が許されたのです。

BL的に解説

駆逐艦はハッテン場

 世の海軍軍人を敵に回しかねない言葉かもしれませんが、これは勿論褒め言葉であります。この前提が本作を一直線に貫いているのは確かです。

 駆逐艦というのは一つの家族です。というのも、日本海軍においては私的制裁の厳しさは艦の大きさに比例するという原則があります。

 つまり、戦艦や空母ともなれば1000人単位の乗員が乗っていて、士官はエリートばかりで入れ替わりも激しく、乗員の大多数はたまにすれ違うだけの他人に過ぎません。

 また、海軍将兵はある種の外交使節という側面があり、大きな艦はまさに国家の威信をかけた存在でもある為、他所の国の連中に舐められてはいけないという意識が働いて、乗員がイキりがちです。

 その上に士官は学校の勉強ばかり達者な参謀候補ばかりとあっては、海軍精神注入棒が飛び交うのは避けがたい宿命であります。

 一方、駆逐艦の乗員は200人程度で、艦長から新入りの水兵まで全員が顔見知りです。この人数だと役割分担も曖昧になり、互いに仕事を手伝うのが当然という体制が出来上がり、階級は単なる立場を示す記号になってしまいます。

 ましてや、激戦地で酷使されている艦ならば一緒に死線を潜り抜けて来たという連帯意識が生まれます。これはもう戦争を知らない私がみだりに踏み込んではいけない領域です。

 そこには中央の参謀どもが拘泥する機関科への差別など微塵も存在しません。安部徹が砲術長で健さんが機関科という危険極まる組み合わせであっても、黒雲一家の絆は絶対の盤石です。機関科が船を動かしているという事を全員が実感しているのです。

 きっと石山は大和で軽んじられる立場だったのでしょう。何しろ大和は連合艦隊の旗艦であり、最後まで戦闘ををする機会なく終わった船です。あそこの士官のやる事といえば、弱い者いじめしかありません。

 ですが、黒雲一家は石山の働きを正当に評価し、末息子として溺愛してくれます。石山が大和での屈辱の日々など忘れ、黒雲一家のホモソーシャルの大渦巻に飲み込まれていくのは、当然の帰結なのです。

呉鎮はくれチン

 艦長以下、黒雲一家には九州男児が目立つのにご注目下さい。健さんに至っては本物の九州男児です。

 そして、石山がお熱をあげる南兵曹は土佐出身である事が明白にされます。何しろ海軍は薩摩閥、何しろ土佐は薩摩と並ぶ男色の首都ですが、この西高東低人事にはちゃんと理由があります。

 つまり、日本海軍は呉、佐世保、横須賀、舞鶴の4つの鎮守府があり、全ての船はどこかの鎮守府に所属しています。

 そして、徴兵された者は最寄りの鎮守府に入営する事になっており、将校も若手の内は出身地に近い鎮守府に配属される傾向がありました。

 そして、黒雲は呉鎮守府所属。呉のシマは中四国と福岡、宮崎、大阪、奈良、和歌山です。

 とすれば、呉は佐世保と並ぶ男色の保守本流を守る鎮守府といえます。何と言っても、西国の外様大名の抱えたガチホモバーサーカーが明治維新を成し遂げたのですから。

黒雲将校団×

 健さんは総受けなので、いきなりハードコアな方向性でお送りします。黒雲が家族なら、新任士官の石山は末息子であり、兄たちから溺愛されています。

 そもそもが、海軍士官の健さんが処女で居るというのは無理な相談です。あんないい男が機関学校になど入学したら、1週間以内に薩摩出身の上級生から股間の海軍精神注入棒を頂戴するのは当然です。

 その上、大和に乗っていたのも問題です。エリート意識の塊のような腐れ参謀どもが、何かと厳しい意見を具申して来る石山を迷惑がり、便所に引っ張り込んで寄ってたかって性裁を咥えたとしても驚くべき事ではないのです。

 一方、心も体も切れ痔の石山が飛ばされて来た黒雲は様子が違います。だらしなくてもやる時はやる、機関科を決して軽んじないフェアで強い男達がそこには待ち受けています。

 最初こそ衝突した石山ですが、初の戦闘で根性を見せるなり彼らはささやかな宴会を開いてお祝いしてくれます。人を1銭5厘のネジのように扱う大和とは全く違う、温かく家族的なチームワークがそこには存在するのです。

 それはきっと、ゴーギャンがタヒチを訪れた最初の日のような感動だったでしょう。

 しかし、黒雲一家の男達は聖人君子ではないのです。上陸する暇もなく激戦に注ぐ激戦を1年も戦い抜いた西国健児の集団なのです。この肌に飢えた男達の欲望が、極上のオスである石山に向かうのはごく自然な事です。

 石山は強く拒まないでしょう。役立たずのまま沈んだ46センチ砲よりも、連合軍将兵を恐怖に陥れた酸素魚雷の方が美しいと、その時改めて思うはずです。

艦長×

 石山に一番槍をつけるのは、やはり一家の長たる艦長でありましょう。一番風呂はお父さんというわけです。

 何しろ田崎潤はかつての東郷元帥であります。そして、自室と士官室に東郷元帥の肖像を飾っているような男です。間違いなく酒と男色をこよなく愛する薩摩隼人です。

 そして着任した石山を裸同然の格好で自室に迎え入れ、今日からお前の命は俺が預かったと一家盃を執り行い、挙句裸になれと命じて上着を脱がせます。

 絵面は完全に「さぶ」ですが、なんだか古き良き海賊BL的な物を感じます。そして、預けた以上は返せとも言えないのが軍人の責務と盃の重みです。

 石山は石山でたちまちこの器の大きい親分に心を許し、贅沢三昧の参謀をぶん殴って左遷されて来たと吐いてしまいます。

 しかし、艦長は相も変わらず建前に固執しがちな石山「上着は脱いだが裸になはっちょらん」とお叱りの言葉を授け、更に話は意味深な方向へと進んでいきます。

 唐突に日本海海戦の思い出話…もといエピソードトークが始まります。即ち、東郷元帥が薩摩のお仲間(意味深)に金玉を握られ、縮みあがっていないのでこの戦は勝てると確信したという有名なエピソードです。

 つまり、金玉の縮み上がるような状況を自ら作ってはいけないという教訓を艦長は述べたいのですが、話の繋がり方が不自然です。

 しかし、BLもとい衆道としてこのシーンを捉えると、全てがはっきりします。つまり、艦長は文字通り石山に裸でぶつかって行ったのです。

 石山は覚悟を決めていたはずです。裸同然の薩摩出身の艦長、しかも東郷元帥の肖像を艦に掲げるような御人が、自分に何の興味も示さないはずがないというのは、経験則からも分かるはずなのです。

 私闘や私刑は黒雲では御法度ですが、大丈夫。セックスは闘いでも罰でもなく、ご褒美です。ノンケが変態の帝国海軍士官にとって、田崎潤のごとき格好良くて理想の上司のよかちごになるというのはむしろ役得とさえ言えます。

 一方で艦長は下士官兵の私闘には金太郎訓練を科します。これは艦長男色家説を前提に置くと、明らかに羞恥プレイです。

 全員に艦長が海軍精神注入棒を振るっていたら時間と気力がいくらあっても足りませんし、きっとわざとやらかす者が続出するので逆効果でしょう。

 かと言って石山が金太郎訓練を笑うと、艦長は「笑われる者の身にもなれ」と調子に乗らないように戒めるのも尊いポイントです。女はしつけが肝心というわけです。やはりこの艦長、デキます。

 着任早々従兵の和田を失うという悲劇に直面してセンチになる石山に対し、こんなのは戦闘の内じゃないと厳しい言葉を授けるのも、薩摩的な強い父親のあるべき姿です。一方で遺品と遺髪は艦長自ら和田の母親に届けるというのも、艦長の男としての器量の大きさです。士官から水兵まで、全員が艦長の愛息子なのです。

 果たして数日後に潜水艦との戦闘になると、石山は機関室で艦長の教えを思い出し、金玉を伸ばしながら頑張って敵撃沈の大戦果に貢献し、艦長以下将校団からお祝いしてもらいます。

 あの後絶対皆でヤってます。そうして生まれる男と男のケツ束こそが明治維新を成し遂げたのです。エロいお姉ちゃんを増員する一方の大和では決してたどり着けない境地がそこにあります。

 しかし、黒雲一家は小さいが故に強固な絆を誇っていますが、その小ささ故に戦況を逆転できる力はありません。

。黒雲は戦況不利の中でも鋼の結束を誇り、各セクションが全力を尽くして生き延びます。機関長に出世した石山は犠牲者を出しながらも艦の浸水を食い止め、MVP級の大活躍です。

 艦長はここまで生き残ってきたのは部下達が一丸になって尽くしてくれたおかげだと、ハーレムの王に相応しい言葉も残します。石山の金玉ではなく46センチ砲がえらいことになりそうです。

 しかし、日本の敗戦はもやは決定的で、海軍はやけくそになって大和以下残った軍艦をかき集めて沖縄で特攻させるという作戦に打って出ます。

 艦長は反対しましたが勿論聞き入れられず、石山は黒雲イズムを発揮して部下を大宴会で労います。ヤるとやる事が似て来るのです。

 しかし、このせいで腐れ参謀の怒りを買い、石山は憲兵に引っ張られてしまいます。ここで艦長が助けに行くわけですが、これはもはや受けオークションに殴りこむスーパー攻め様です。

 しかも、艦長は横須賀からタカを連れて来て石山に会わせます。これを当て馬女の介入と見るのは間違いで、日本古来の美しき衆道の世界観です。

 にせはちごの人生に責任を負う立場なので、ちごに良い嫁を探すくらいの事をする必要があるのです。もっとも、薩摩では女の地位は馬以下なのですが。

 艦長としては、日本の未来の為に石山を意図的におっぽらかして出撃する事も考えたという衝撃の事実も語られます。これぞ名高き薩摩の捨て奸。愛する男と一緒に死にたいという欲望よりも、主家の為を思う薩摩隼人の美学です。

 とは言え、生還を期待できない作戦を前にしても黒雲一家は冷静で士気が高いのは、この男達は艦長の名を穢す事なく立派に死にたいと思っているからです。このマッチョイズムと主従愛こそが九州男児の心意気、男が求める究極の美学なのです。

 だとしても、石山が艦長にとって最愛の息子である事は明らかです。身体を壊して死の床にある艦長の元に居るのは、石山なのですから。

 人は死を前にして嘘はつけないと申しますが、石山から大和は沈んだと聞いた艦長が「黒雲が生き残ってくれただけで満足」と漏らすのは、まさに偽らざる本音なのでしょう。

 挙句には「仲人をしてやれなかったのが残念」というのに至っては、究極の愛情表現です。ちごの仲人をする。それはにせにとってちごをよかちごする以上の、最高の快楽なのです。

 しかし、黒雲は満身創痍で、ついに火災を起こして総員退艦命令が出ます。ところがこのタイミングで艦長は蘇生し、勇気を取り戻した黒雲一家は退艦を取り下げて再び闘いの場に戻っていくのです。

 これに至っては、海の女神の計らいとしか思えません。海の女神は腐女子なのです。

 そして黒雲は撃沈を免れます。間違いなく黒雲は終戦まで生き延び、黒雲一家は戦後日本復興の原動力となります。

 ですが、石山が黒雲一家を忘れる事が出来るとは思えません。かと言って、マッカーサーにケツを差し出すがごとき自衛隊再入隊などするとも思えません。

 そうして戦後の退屈な毎日を過ごす石山の元に、ラバウルの絵ハガキが届きます。勿論差出人は艦長です。

 玄関先で濃厚なキスをかます石山と艦長。それを見ていたタカは…何も言わないはずです。この程度の事でギャーギャー言うようでは、帝国海軍士官の妻など務まらないのです。

南&大野×

 さて、石山が艦長のちごであるとしても、ちごは長じてにせになり、ちごを持つというのが鉄則です。かと言って、常ににせが攻めであったという偏見に私は断固反対します。ましてや総受け王の健さんならば、小姓相手でも受けです。

 機関科は黒雲一家における石山のハーレム内ハーレムなのは当然の事ですが、その中でも寵姫というべきポジションに居るのが、一緒に黒雲にやって来た南です。

 石山はイキっていますが、南はやさぐれているので、艦に乗る前から喧嘩騒ぎを起こす有様です。

 一家のホモソーシャルな連帯を大切にする黒雲一家と、群れる事を嫌う一匹狼の南のイデオロギー闘争は、ゴングの鳴る前から始まっているのです。

 これは南が土佐出身である事を踏まえると、土佐と薩摩の男色文化の相違と見て取る事が出来ます。

 つまり、どちらもノンケが変態のガチホモバーサーカー集団であるという点では同じですが、教育制度の中に男色が組み込まれている薩摩と、欲しければ力づくという土佐とではやはり考え方が違います。

 統率によって維新後も大きな権力を保持した薩摩閥と、内部抗争の末に人材が枯渇して維新後に非主流派に転落した土佐閥の違いともとれます。言うなれば、南が黒雲一家に仲間入りする事は、土佐の男が単身で薩摩に殴りこむ事を意味するのです。その過程には流血が避けられません。

 南は乗艦してもいちゃいちゃしている黒雲一家の面々と打ち解けず、すぐに喧嘩騒ぎを起こしてしまいます。

 黒雲一家の結束は、40回以上の戦闘を潜り抜けて未だ無敗という時間と実績に裏打ちされていて強固ですが、この種のホモソーシャルは突き詰めると排他性に行き着きます。明らかに黒雲一家は南を一家に迎え入れる準備をしていません。

 一方、南は元より協調性に欠けているうえに陸戦隊出身でムショ帰り。つまり、一家をアマちゃんと見做しているふしがあります。

 一方で一家のホームアドバンテージをフル活用して正室の座を狙うのが大野です。

 大野の一家愛は特筆すべき物です。何しろ南の喧嘩を買ったのですから。それはつまり、金太郎訓練をやらされる事を承知で一家の為にやったのです。

 しかし、訓練の最中に空襲があり、大野と南は石山と一緒に配置に付きます。どっちもやる時はやる男なのです。だからこそ黒雲一家なのです。

 大野は常に石山の隣に居る立場なので、ここで一気にリードを広げ、鼠がいる間は船が沈まないなるジンクスを披露したりしていちゃいちゃし始めます。任侠映画では大抵殺し合っているのに、海の上ではラブラブです。

 一方、石山の反対側の隣を占めるのが南です。孤立気味の南を放っておける石山ではないので、これはもうふた昔前のラノベみたいな状況です。

 初めての対潜戦闘で石山は大張り切りしますが、その一方であと一歩で魚雷命中という状況に陥り、艦長の訓示を思い出して金玉を伸ばし始めます。

 おい、マジかよと言わんばかりの大野と南の表情が入るのが何とも言えません。うちの自慢の副長が死を前にシコり始めたと誤解したのでしょう。無理もありません。

 しかし、金玉パワーで機関出力が向上し、見事に魚雷を回避する事に成功します。なんだか呪術みたいです。

 一応事情は説明して理解して貰えたらしく、大野は下士官室で金玉を握る石山の図を実演して自慢なんてしちゃいますが、南は俺の方が良く見ていたとわけの分からん、しかし重大なマウンティングをおっぱじめます。

 言い換えれば、この2人は健さんの金玉に固執して殴り合い寸前になるのです。前衛的なハーレムがあったものです。

 その後久々に上陸があり、黒雲一家はラバウルの酒場で大いに羽を伸ばします。それを嫌そうにカウンターから眺める南ですが、結局同じ店に居るのがデレ始めている証拠です。

 しかし、ぶつかったぶつからないが原因で黒雲一家は他所の連中と乱闘騒ぎになります。例え集団金太郎訓練になったとしても、他所の連中に舐められるのは嫌だという黒雲一家の愛です。

 最初こそ知らんぷりを決め込んでいた南ですが、カウンターの反対側で大野が殴られているのを見てキレ、ついにはタッグマッチをおっぱじめます。

 この瞬間、南は黒雲一家に完堕ちしたのです。もっとも、その間石山はタカと再開して要らぬノンケパートを演じていたわけですが、まあお家繁栄の為にはたまに我慢してお世継ぎを作るのも武士道です。

 それでも南はガチホモ一直線の黒雲一家とは育ちが微妙に違うので、1年ぶりの郵便に石山へタカが宛てた手紙が入っているのを見て、部屋まで届けて「おごってもらわにゃなりません」と妙に嬉しそうです。

 とは言え、この手紙を渡しに来る役を手に入れる為に、南は大野と金太郎訓練一歩手前の争いをしたに違いありません。いや、下手をしたらヤマリンが横入りする可能性さえあります。

 しかし、石山は既にガチホモ路線を突き進む決意を固めているので手紙を破り捨ててしまい、たまたま甲板で「南国土佐を後にして」を歌っていた南に絡みに行きます。

 これは何気に意味深です。つまり、これは南が土佐の男である事がはっきりした瞬間なのです。石山がだったらイケると判断したとは考えられないでしょうか?

 しかも南は女絡みの喧嘩で海軍刑務所に入っていたとカミングアウトします。そして、無能で威張ってばかりの上官を殴って飛ばされてきたという第二の共通点さえ見出します。

 石山は過去は気にせず黒雲一家として皆と仲良くやれと命じ、南は一家入りを力強く宣言してしまいます。

 これはもやはり神の引き合わせです。もし南が長州閥の腐れノンケで「男なら」とか歌っていたら、石山はそのまま部屋に帰ってしまい、黒雲の運命が変わった可能性があります。しかし、生まれ変わった南の甘い新婚生活は長く続きませんでした。

 レイテ沖海戦の激戦のさなか、艦橋への伝令に走った南は、火災で誘爆しそうな弾薬を投棄する英雄的行為の末に重傷を負います。

 南は応急医務室になった士官室に担ぎ込まれ、艦長の席に寝かされますが、ここは艦長の席だから下ろしてくれと忠義を見せ、大野と石山に見守られながら息絶えます。

 翌朝最高礼による葬儀が行われ、南は日章旗に包まれて涙をこらえる大野によって水葬に付されます。

 ここで大野が内心ライバルが減ったとほくそ笑んでいるというのはノンケの長州どもの発想で、そのような浅はかな男は黒雲一家足りえません。男と男の貞操観念はそういう物です。

 とは言え、傷心の石山を慰めるのが大野なのは明白です。しかもその直後に内地帰還命令が来たので、機関室はハッテン場状態になったとしても驚くべき事ではありません。

 石山の開いた宴会でも一番上座に居るのが大野なのが、彼が石山の正妻である事を物語ります。しかし、その懐中に南の遺髪か何かが入っていると私は確信しています。

 南の肉体は死にました。しかし、魂は黒雲一家と共に最後まで生き続けるのです。

山本麟一×高倉健

 トリは半生でお送りします。鳥ユッケです。

 この2人は大学の先輩後輩であり、ヤマリンは健さんを「高倉」と呼ぶ豪傑であります。

 だからというわけではないでしょうが、本作のヤマリンは別にいても居なくてもいい役なのに、要所要所でBLしていきます。もはやこれはナマモノです。

 ヤマリンは先任下士官です。つまり、下士官の中で一番偉いベテランであり、下士官兵と士官の橋渡し役であり、並の男には出来ない難しい仕事です。

 これはあくまで推測ですが、この役にヤマリンが配役されたのは、健さんがそれとなく計らったからではないでしょうか。誰でもいいなら、先輩を。優しい健さんのやりそうな事です。

 前半はあまり重要なポジションに見えなかったヤマリンですが、石山の開いた宴会で乾杯の音頭を取ったところでいきなりジャンプアップします。

 この宴会は士官抜きですが、士官たちが居て安部徹が乾杯の音頭を取っても何ら問題はなかったはずです。それでもヤマリンだったのは、現場でもはやりこの2人が特別な関係(性的な意味にあらず)にあると知られていたという事なのでしょう。

 そして、腐れ参謀が殴りこんできて、責任者を出せと迫ってヤマリンが歩み出ようとします。これは一見するとどうでもいいシーンですが、BL的に見れば最大のスペクタクルが展開されています。

 高倉と一緒に居たいヤマリン。だけど先任下士官は機関室に入り浸りというわけにはいきません。しかし、この瞬間俺の高倉を独り占めするチャンスが来た。そういうシーンなのです。

 とは言え、この2人の美しき精神的BLは果てしなく重厚長大であり、本作だけで説明できるような安物ではありません。文字通り、死がふたりを分かつまでの一生ものだったのです。


お勧めの映画

 独自の統計(主観)に基づきマッチング度を調査し、本noteから関連作品並びに本作の気に入った方にお勧めの映画を5点満点にて紹介し

『零戦黒雲一家』(1962 日活)(★★★★★)(兄弟作)
『海軍横須賀刑務所』(1973 東映)(★★★★)(海軍の汚い部分)
『日本侠客伝』(1964 東映)(★★★★)(型が出来た健さん)
『鉄道員(ぽっぽや)』(1999 東映)(★★★)(多分一番広く知られた健さん)

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