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勉強の本質 ~一撃の美学~
学校卒業して早十数年。
受験勉強の大義名分の中で『勉強』をこなしている方が数多くいると思います。自分の恩師の方々には本当に頭が下がるし、尊敬していますが私は教員免許までとっていて現場の学校に勤める気はありませんでした。
それは学校が嫌いだったわけではありません。中学の最初の時に一時、中学校が嫌になった時期がありましたが、基本的には勉強が好きで友達作りにも比較的困らなかった方だと思っています。
にもかかわらず、なぜ学校の教員にならなかったかというと、あまりにも井の中の蛙状態でそんな教員が将来ある若者(学生)の先達となって教育するのはいかがなものかと思ったからです。
大学時代に私は教職課程の単位を取得しようとしました。きっかけはひょんなことで大学の単位取得のついでで教員免許が取れると聞いて、「そんなに苦労がいらずに教員免許が取れる」とどこかで伺ったことです。結果から言うと教育実習であったり、授業の設計だったりとそんなに苦労というのは事実とは反するような状況でしたが(笑)
閑話休題
ともして、教員になるための経過を学ぶことができました。ただ
小中高⇒大学⇒教員
となって教員になるためのキャリア形成がなされていることを把握するに至りました。しかしながら、教員はこれからの社会を担ってもらうための人材育成に携わるにも関わらず社会経験なく教員になることが可能になるわけです。社会科の教員の方はそんなことないと反論されるかもしれません。
しかしながら現代型の企業体(業務委託としての働き方)、お金の学習がないこと19世紀の金融関係のみで銀行の成り立ちなども学ばない状況はいかがでしょうか?
ある種の聖域と化している学校に対して私は違和感を感じざるを得ませんでした。社会人になってから伺った受け売りですが『社会経験のない方に進路相談するのっておかしいことじゃないですか?』ということが浮かびました。
そういった一因もあり、私はペーパー教員を今でも貫いています(笑)
(恩師には同じ職場で働かずに申し訳ございません)
ただ、勉強に対しての歩みはとどまるどころか学生時代よりも加速しているように感じます。
社会人になってから
・整体
・日本の歴史(教科書にないものから都市伝説レベルの怪しいものまで)
・経済の仕組み
・お金(経済)の誕生から今のブロックチェーン
・株式投資(FX)
・コーチング
・政治関係の話題
・人類史
etc.
例を挙げれば枚挙にいとまが付きませんがさまざまです。
もちろん、自分の学べる範囲でですが。。。
そんな最中、通勤途中で外国人の観光客が日本人の旅行客と仙山線に乗り合わせていました。遠目に聞くと、「Ahh,松島?」とうっすらと聞こえました。仙台駅の時点で私の中には?が浮かんでいましたが、気にせずいました。ただ、その様子を見ていると外国の方が不安そうな顔が続いていたので気の毒に感じた私は行きたいところを再確認して、付き添っていた日本人に確認して、北仙台駅からUターンして仙台駅に戻っていきました。
ありがとうの感謝はありませんでしたが、私は一瞬でも傍観者でいようとしたところもあるので感謝されるには値しないと思う節があります。
一見すると、何気ない日常かもしれませんがこの一瞬・一撃が勉強の成果だと感じました。
勉強は膨大な時間や労力をまだ見ぬ成果に向かって積んでいく一面があります。大学でも基礎研究がそれにあたると思います。今存在する理論(知識)がどういった叡智につながるのか、そういったものを研究します。そのため多くの基礎研究は、日の目をみることはありません。一方、イグノーベル賞に代表されるように一見は役に立たなさそうな研究に対してスポットライトを当てられるものがあります。主な目的は『笑い』にありますが、日常にある『なぜ?』にスポットを当ててくそ真面目に研究しているものと私は認識しています。
勉強の美学は、上述したように一瞬の発露にあると私は感じています。
そのあり方がどこか日本人の精神性にもつながるサクラの出で立ちにも似ているように感じます。一瞬のために自らのすべてを懸ける姿、そこに美学(奥ゆかしさ)を見ることができると考えます。
皆さんは勉強は好きですか?それとも嫌いですか?
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