私がMYFCを応援する理由
私、ひょんなことから、今年J2リーグ【藤枝MYFC】のコールリーダーをやらせていただいております。
コールリーダーというのは、いわゆる応援団長のことで、試合中にハンドマイクで応援を煽動したり、太鼓でリズムを叩いていたりします。
今回はなぜ私が、藤枝MYFCのコールリーダーをやることになったのかや、藤枝MYFCの応援について少しお話したいと思います。
サポーター初め
私がサッカーと出会ったのは1980年の、、、なんて大げさなことはなくて、普通に小学校のグラウンドで友達とボールを蹴って遊んでいました。
当時は【サッカー王国】なんて意識は無く、どちらかというと野球の方が好きで、阪神タイガースの帽子が一張羅のファッションでした。
それもそのはず、テレビではサッカー中継はほとんど無く、父の影響でプロ野球の巨人戦を毎晩観る、そんな世代でした。
初めて意識してサッカーを観たのが、昭和57(1982)年元日の天皇杯、全日本サッカー選手権大会の決勝戦。キャプテン翼がアニメ放送開始されるより少し前のことです。
お正月のテレビ欄を見ていたら、目に入ってきたのが、
の文字。
JSL(日本サッカーリーグ)の存在は知らなくても、読売クラブや日産自動車が強いことは知っていた中で、地元・静岡県のチームが決勝戦に出るんだ!という驚き。というか、静岡県にサッカーチームがあるんだ!という発見が大きかったんだと思います。
当然、選手の名前も知らない。ルールも知らない。ただ地元のチームが決勝戦を戦っている。勝ったら日本一なんだ。というワクワクだけで応援していました。
そして優勝!
ホント意味もわからずに喜んでいました。家族にも「静岡のチームが優勝したんだよ!」と報せても、まったく相手にされませんでした。
この日から、私は【ヤマハ発動機サッカー部のファン】、サポーターになったのです!(大袈裟)
俺もヤマハサポーター!?
とは言うものの、テレビでJSLの中継は無く、新聞のスポーツ欄で試合結果を追うのみ。
そもそも。ヤマハ発動機がいつどこで試合をやっているのかも知らない。
年に1度あるかどうかの、【ヤマハ発動機対本田技研工業】いわゆる【天竜川決戦】や、国内のスター選手(と言ってもほとんど名前を知らない)が勢揃いする【東芝静岡カップ】で、ヤマハの選手を探すくらいしかできませんでしたけどね。
っていうか、『サポーター』という言葉すら知りません。
Jリーグ開幕!
それから10年近くが経ち、国内サッカーもプロ化の動きが出てきました。そうです、Jリーグの発足です。
その頃私が通っていた高校は、サッカー強豪の私立高校で、同級生からも何人かがプロの道へと進んで行きました。
高校卒業の翌1993年ついにJリーグが開幕し、日本代表は【ドーハの悲劇】を経験し、日本サッカーの歴史は大きく変わりました。
しかし私が応援していたヤマハ発動機改め『ジュビロ磐田』は、Jリーグ初年度参加からは漏れ、JFL(ジャパンフットボールリーグ)で1年間戦うことになりました。
この年の夏に初めてジュビロの試合を観に行きました。相手は『中央防犯ACM藤枝』、会場は藤枝市民グラウンド。サポーターデビューはこの試合からですね。(大袈裟)
この年、JFL1部(J1と呼ばれていました)で2位となり、ベルマーレ平塚と共に1年遅れのJリーグ入りを果たします。
ジュビロ磐田のゴール裏
とはいえJリーグブーム真っ只中のプラチナチケットはなかなか取れず、学生時代は帰省ついでに年に数回行けるほど。
就職したら平日休みの部署で、水曜ナイトゲームや大型連休ぐらいだったり、土日休みの部署に異動になった!と思ったら、奥さん妊娠でやっぱり行けず...の状態でアウェイ戦にも行けず、サポーター団体にも入らず、行ける時にゴール裏に入れてもらう程度でした。
当時のジュビロのゴール裏はとても温かい雰囲気で、団体に入ってなくても、一見さんでも『どんどん中に入っておいでよ!』と声をかけてくれて、ゴール裏初心者の自分でも気軽に中心へ入ることができましたね。
ジュビロ磐田を応援してから数十年、優勝の瞬間も残留も降格の瞬間にも立ち会い、数多くの仲間にも出会い、楽しいことも悲しいこともいっぱいありました。
藤枝MYFCとの出会い
先ほども少し触れましたが、藤枝市には30年ほど前にJリーグを目指すクラブがありました。
中央防犯サッカー部、後に『藤枝ブルックス』として活動し、福岡市へ移転して『アビスパ福岡』となったチームです。
1995年に福岡へ移転した後、藤枝にはJリーグを目指すクラブはなかったのですが、2009年に一転します。
イギリスでネットオーナーによるクラブ運営で話題となっていた【My Football Club】というサイトの日本版が立ち上がるというのです。
とても面白い試みだと思い、さっそく無料会員に登録。
すると、地元の静岡県社会人リーグ1部所属の【藤枝ネルソン】が、クラブ母体の候補に選ばれ、チーム名も【藤枝MYFC】に決まったのです。
ネットオーナーシステムは、募集当初は会費を集め、選手の獲得に使ったり、スタメンの選考を行ったり等、非常に面白い試みではありましたが、会員もなかなか集まらず、すぐに頓挫してしまいました。
それでもユニフォームデザインを決めたり、エンブレムの募集を行ったりと、いろいろ楽しかったです。(横断幕のデザインと、ステッカーのデザインは採用されましたね)
県1部を戦った翌年、東海リーグ所属の静岡FCと合併。2年後にはJFL(日本フットボールリーグ)に昇格。そして2014年に発足したJ3リーグの初年度から参戦と、トントン拍子で駆け上がりました。
でも当時の運営はお粗末で、Jリーグの理念である地域密着など無関係。地元から愛されるなんてほど遠い状況でした。
私は年に数回、対戦相手に興味がある試合を観に行く程度で、応援に参加したい気持ちはウズウズしていましたが、その頃のサポーター団体は周囲を巻き込もうという雰囲気はなく、何とかならんもんかなぁ〜と憂いていました。
ゴール裏へ突入
そして転機となったのが2921年の春。
その年、大好きだった押谷祐樹選手(元ジュビロ磐田)が藤枝に移籍加入し、一気に興味が増したため、愛鷹競技場で行われるアスルクラロ沼津対藤枝MYFC、いわゆる【J3静岡ダービー】へ行ったことでした。
この前年から、藤枝の応援団体が別の団体に変わっていて、チャントも親しみやすい曲になったことから、自分の中でのハードルが一気に下がり、思いきってゴール裏席に飛び込んでみることにしました。
ゴール裏席の人数は数十人。積極的に立って応援する人は十数人と、コロナ禍でJ3とは言え、ダービーマッチとしては少し寂しいもの。
それでも中の人たちはとても温かく、初心者の私を大いに歓迎していただきました。
翌週末も特に予定もなかったので、ホームで行われたカターレ富山戦もゴール裏で応援。
少ない人数でしたが太鼓と手拍子でチームを鼓舞するメンバー。磐田で体感していた大人数の応援とは格差がありましたが、一人々々の熱量は強く感じました。
彼らが藤枝MYFCを応援する理由は、
という熱い想いでした。
今でこそ3,000人を超える試合も珍しくないですが、2年前はコロナ禍ということもあってか、1,000人を割る試合もしばしば。
まるで途方もない夢物語のような話でしたが、彼らの目は極めて真剣で、私はすぐに
という想いに駆られました。
そこからはホームゲームは毎試合のように通い、アウェイゲームはDAZNで追い、近県のアウェイには一緒に付いて行くようにもなりました。
最初は【サポーターのサポーター】と言うのが、藤枝サポーターになったキッカケだったんですね。
サッカーはエンターテイメントだ!
私が藤枝のゴール裏に行くようになって数ヶ月して、須藤大輔監督が就任。藤枝のサッカーが一変しました!
超攻撃的でゲームを支配し、3点取られても4点取り返すスタイルに、ますます魅了されたのは言うまでもありません。
数少ないゴール裏を盛り上げようと、ゲーフラを作ったり、鳴り物を叩いたり、大旗が解禁されてからは大旗隊もやらせていただきました。
時代が変わった。藤枝が動いた。
J3リーグを2位で終え、クラブ史上初のJ2昇格を決めた2022年の戦いについては、皆さんもご存知のことと思いますので割愛しますが、この年印象的だった場面がいくつかありました。
昇格争いのヤマ場となった松本山雅FC戦。榎本啓吾選手のゴールで非常に大きな勝ちを得ましたが、その夜サポーター仲間で、お決まりの居酒屋で祝勝会をあげていると、他の席にもMYFCのグッズを持った方がいる!
今までは決してなかった出来事で、徐々にですが地域に根付いてきたんだと嬉しくなりました。
そしてホーム最終戦の福島ユナイテッドFC戦。11月の冷たい雨が降る試合でしたが、この日スタジアムに集まったのは3,244人。
それまで対戦相手の動員によっては3,000人を超えることもありましたが、福島サポーターは50人程度。つまりほとんどが藤枝MYFCのファン・サポーターで、まさに藤色にスタジアムが染まりました!
勝敗よりも、この光景に感極まって、仲間たちと抱き合って喜び合いました。
そしてアウェイ長野Uスタジアムで迎えた最終節。昇格の瞬間を見届けようと、約400人の藤枝サポーターが現地へ駆けつけました。
アウェイには一桁ほどのサポしかいなかったこともあったのに、試合前の長蛇の列にまた胸が熱くなりました。
この時『藤枝にはサッカー熱を上げるポテンシャルがある』と強く感じました。
そしてコールリーダーへ!?
この年の暮れに団体の幹部から告げられました。
いやいやいや、私まだ藤枝サポ歴1年半のニワカですよ?なんならジュビロサポ兼任ですよ?サポ歴長い他の方々が黙ってないでしょ!コルリなんてやったことないし無理ですって!!
と断っていたのですが、幹部らの熱意にほだされて請けることにしました。
【サポーターのサポーター】として、お手伝いしたいとは思っていましたが、まさかこんなことになろうとは…。
2月の開幕から7ヶ月、30試合ほどリードをさせていただき、時には太鼓も兼任したりしましたが、未だにうまくリードできたと思う試合はありません。
いつも相手サポの応援に負けて、選手たちに申し訳ないと悔しく、情けなく思っています。
それでもこのチームに、このゴール裏に、この街にはポテンシャルが溢れています。
若いサポーターも増えています。伸びしろしかありません!
私は年齢的に、いつまでもコールリーダーを続けていくわけには行きません。
それでも、藤枝のゴール裏が【熱く・かっこよく】、そしていつまでも【温かく・やさしい】雰囲気を続けていけるよう、見守っていきたいと思います。