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パンクロック 10

結局ドラマーを見つけるまでレコーディングは延期になった。

僕はすでにOPTビザという、アメリカで1年間就労出来るビザが下りていたので、LAに引っ越すことも特に問題はない。

LAに行けばいくらでもミュージシャンはいるだろう。アメリカ西海岸最大の都市だ。アルバムを作った後の活動もきっとやりやすい。

ダレルはドラマー不在で練習もライブもないので次第に会う事が減っていった。しかも大学を卒業して、引っ越しやらなにやらで忙しいから

「ドラマーが見つかったら教えてくれ」

と、連絡が来たきり、話すことも無くなった。

残ったメンバーは僕を含め、エリックとマイクの3人だけ。もともと僕とエリックが中心となって始めたバンドなので、僕ら2人さえいればなんとかなると思っていた。

マイクは18歳になったばかりで、バンド以外興味もないから僕たちについてくるという。ひとつ心配なのはバイトもせずにプラプラしていること。この甘ったれたホワイトボーイは実家から出て生活できるのだろうか。僕はそこまで世話を焼く気はない。

エリックはドラマーが見つかるまで、マイクと曲や歌詞を書き溜めておくという。マイクはまだまだギターの練習が必要だったからこれは良い機会かもしれない。

「ドラマーが見つかったら、簡単なデモを作って送るよ」

というわけで、僕はひとまず日本に帰国して、仕切り直すことにした。


日本に帰国しても、就職をするつもりはないので、派遣のバイトで工場勤務をしていた。

時給はそこそこよかった。

当時の日本は僕が初めて渡米した90年代より、ずっと景気が悪く、僕の世代はいわゆる就職氷河期。

新人正社員の待遇より、派遣社員の方が時給換算すると高かったようで、派遣会社の担当者には

「絶対に時給について社員の方と話さないでください」

と釘を刺されていた。

現場の人たちにアメリカに住んでいた話をすると、

「英語ペラペラなのか?!」

「金髪ねーちゃんとやったか?」

というお決まりの質問に加えて

「なんでこんなとこに就職したんだ?」

などと聞かれ、すぐにやめるとは言えずに返事に困った。

なかには

「英語が話せるからって調子乗ってる派遣のやつがいる」

と、挨拶してもシカトするような人もいて、割の良いバイトではあったが、それほど楽しい毎日ではなかった。

そんなある日、エリックからメールが届く。

「バッドニュースがある。しばらくバンドは出来ない。オレとマイクは⚫︎⚫︎で捕まって、しばらくの間、Jail(刑務所、留置所)から職場に通うことになった。I’m very sorry. I really am.

中略

ドラマーはまだ見つかっていないけど、このwork release (刑務所から日中外に労働に出ることを許可するプログラム)が終われば一緒にLAに行ける。アルバムリリースはパーマネントなメンバーがいないからってことでキャンセルになったよ。ごめんな。あとダレルはすでに引っ越して、バンドには戻る気はないってさ。でも大丈夫だ。LAに行けばもっといいドラマーもボーカルも見つかるよ。オレは最近曲をたくさん書いててさ、今度はオールドスクールパンクじゃなくて、もっとエッジの効いた、すけちゃんが好きなタイプのリフを…..」

メールを読んだあと、ものすごい虚脱感に襲われた。

共通の知り合いに電話をして、なにがあったのか、詳しく聞いた。周囲の信用も失ったエリックとこれ以上行動を共にする気にはなれなかった。

しかも僕はもう学生ではない。就職活動をする同期を尻目にバンド活動に明け暮れていたフリーター。それが僕だ。いいかげん「社会人」の枠に入らなければならない、という焦りもあった。同級生はとうの昔に社会に出ているのだ。

アメリカの大学を出て、英語がちょっとわかるくらいの日本人など、世の中にはゴロゴロしている。しかも僕はすでに20代も半ば。将来のキャリアを考えて行動するには遅すぎるくらいだ。

だからこのバンドは最後の賭けだった。

バンドで食っていく、とまでは考えていなかったが、アメリカまできた以上、どこかのレーベルとサインをして全米ツアーして回るような、わかりやすい結果を出したかった。日本人がアメリカでそこまでやれば、それなりに格好はつくだろう

バイト生活してたっていい。アメリカでバンドを中心に生活できればそれでいい。

結成から1年半、全て順調に進み、夢が現実になる一歩手前まできた。周りにチヤホヤされ、絶頂期も経験した。しかしこれで全ては無に帰した。

このとき、すぐにアメリカに戻ってバンドを立て直すという選択肢もあった。

でも、僕にそんな情熱はもう残っていなかった。


後日談

この事件があった約6ヶ月後に僕はアメリカに戻った。

とりあえず就いた仕事もうまくいかなかったこともあり、エリックの強い誘いにのって、もう一度バンドを立て直すことになった。僕がドラマーを見つけ、バンド名も変え、ライブを数回するところまでいった。

余談だが、このドラマーは今も某有名メタルレーベルに所属するバンドで叩いている。

バンドのスタイルも、僕の好きなヘビーでエッジの効いたハードコア寄りの曲が増えて満足していたが、メンバーの不仲もあって1年も続かなかった。

さらに僕の寿司職人の仕事が順調で、店も任され忙しくなったことも原因の一つだった。

僕とドラマーが抜けたあと、エリックはアメリカ人のギタリストとドラマーを加え、トリオで再発進。インディーズレーベルからアルバムを2枚リリース。NOFXが掲載されるようなパンク系マガジンで取り上げられたり、SHAM69の前座として一緒にツアーをするなど、バンド仲間のあいだでも割と話題になっていた。

側から見たら上手く行っているように見えたが、実際にはギャラの支払いで揉めるなど、いろいろ面白くない事があったらしい。

結局、このバンドは2015年に解散。僕とエリックがこの母体となるバンドを始めたのが2001年。僕はすでに他のバンドでマイペースな活動をしていたし、エリックと関わることもなかったが、SNSで彼らの解散を知ったときはなかなか感慨深いものがあった。

この物語は事実なので、エリックの名誉のために何をして捕まったかは伏せ字にしてある。いわゆる軽犯罪で、暴力などではない。エリックはドラッグもやらない。彼の人柄はとてもよく、人種差別など、最初から頭にもないような良いやつだということは付け加えておきたい。

いまでもあそこであきらめずに、粘り強くあのバンドを続けていたらどうだったんだろうと、考えることがある。

金銭的には厳しかっただろうと想像はつくが、あれは本当に引き際だったのだろうか。あの頃のデモや練習を録音した音源を聴くと、ある程度までやれたんじゃないかと思わなくもない。

なんにせよ、いまと全く違った生活になっていたのは間違いないだろう。ツアーに次ぐツアーで、食うにも困るような、目も当てられない状態になっていたかもしれない。

ただひとつ確かなのは、あのときあのバンドを始めて本当に良かったということだ。一瞬ではあったけど、大きな「波」に乗ることを体感できた。あの高揚感はずっと忘れない。

次にあれと同じ「波」が来たら、今度こそうまく乗ってやる。

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ヒッピーオヤジの店で初ライブした日

パンクロックの話はこれでおしまいです。こんな駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

すけちゃん 




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