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パンクロック 8

キャンパスでのイベントが終わると、僕たちのことを知る人が一気に増えた。

ライブをすれば人口3万人にも満たない街で100-150人が集まる。

ここから一気にのっていく。

ダレルの友達が週一回カレッジTV局でトークショーの司会をしていて、それに出演。ローカルテレビ局で放映される。

そこで知り合ったカメラマンがビデオクリップを制作。これは一年以上ローカルテレビ局で流され続けた。

Warped Tourのセカンドステージに出演していたバンドと何度か対バン。関係者を紹介され、話を進めることに。

地元と隣町のラジオ番組に出演。

デモCDが完成。200枚制作。1枚$10をライブ3回で売り切った。

キャンパス内を1人で歩いていると、ソロリティらしき、白人の女の子集団(7-8人)が一斉に僕の方を見て

「Give it to me baby〜💕Aha〜Aha〜💕」

とThe Offspring の「Pretty Fly」を合唱。投げキッスをされまくる。

(あとでエリックに話したら「why didn’t you “give it” to them?」と言われた。でも実際そんなことが起こると、恥ずかしくてなにも言えないものだ)

このころの僕は大学の勉強に追われながらバンド練習して、バイトして、卒業前の課題をこなし、超多忙な日々を送っていた。

特別バンドのためになにかをしていたわけではない。

ただ周囲の人たちがどんどん盛り上げていってくれて、いろんなことが次々と起こっていく。

「波に乗る」ということを体感していた。

そして肝心の大学の方も卒業が決まった。

卒業をしたあと、僕はOPTビザ、という1年間アメリカで働くことができるビザを申請していた。

大学側と相談して、そのビザが下りるまでキャンパス内のカフェテリアで皿洗いのバイトを続けることができた。

洗い場にはトレイ返却窓口があり、少しかがむと外から働いている人が見える。

いつものように、皿をラックに並べてディッシュウオッシャーに突っ込んでいると、アメリカ人の女の子3人組が一緒にトレイを返しに来た。

「Hey〜💕」

と呼びかけられたので返却窓口から見てみると、3人が手を振っている。3つのトレイにはそれぞれ電話番号が書いたナプキンが置いてある。

「私はステファニー」

「私はジェシカ」

「私はミケンジーよ」

と自己紹介をして去っていった。          (20年も前なので名前はテキトー)

もしかしたら僕が誰に電話をするか、遊ばれていたのかもしれない。でも向こうは確実に僕が誰か知ってアプローチしてきた。きゃんぱつJDにちょっかい出されるというのはなかなかうれしいものだ。

まだある。

週末は皿洗いではなく、ハンバーガーを焼く係もしていた。

バイトが終わって、シンクで手を洗っていると、一緒に働いていたフレッシュマン(一年生をこう呼ぶ)のブロンド女子がすぐ横に来て手を洗い出した。

胸も大きい。お尻も大きい。スタイル抜群で普段から気になっていた子だ。

「こないだのパーティーであなたのバンドがプレイしたって聞いたんだけど、見逃しちゃって」

と話しかけてきた。

「ああ、そのうちまたどっかでやるからおいでよ」

「ホント?じゃあCall me, Okay?」

電話番号ゲット。かんたんだった。

他にも家にいたらルームメイトの友達の女の子がドアをノックしてきたり、あちこちパーティーへのお誘いやらなんやらかんやら。

この頃はまるで漫画のようにモテた。

パンクバンドはイケていた。

バンドマンはカッコよかった。

当時はアヴリル・ラヴィーンの登場で、普通の女の子までスタッズベルトをするようになっていた時代。

僕らにはこれが追い風になっていた。

そしてカナダのインディーズレーベルからアルバムリリースの打診が来た。

いよいよだ。

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