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女であることの呪いと、書き手であることの覚悟

女として生まれて、女の身体を持っていて、
男性を怖いと思った経験はないだろうか。

わたしはある。

小学3年生の時、慕っていた6年生のお兄ちゃんに、
車庫に連れ込まれて急に、後ろから抱きつかれた。
あれが、女としての恐怖の始まり。

お兄ちゃんはソワソワした指で、わたしのスカートに下から手を入れた。
そしてお尻と、真ん中にある大切な部分を触った。

そこはだめ!
子供ながら強く感じた。
そう強く感じたことが、身体の中心に今でも深く刻まれてる。

お兄ちゃんの手を振り払って逃げた。
お兄ちゃんはいけないことをしていると知っていた。
だから腕の力をゆるめた。
追っても来なかった。

車庫に漂う独特の砂とオイルが混ざったような臭い。
お兄ちゃんのガサガサしたシャツの感触。

さわられた。
いやだ。
いやなかんじがした。

今まで誰にも言ったことがない。
言ってはいけない、と思っていた。

大学生の時、一人で夜道を歩いていた。
車通りもある、それなりに大きな道だった。
彼氏が車で迎えに来てくれるはずだった。

きゃっきゃっと、電話しながら歩いていた。
電話を切って、ポケットに入れたとき、背後に人の気配がした。

あ!!と思った時には、もう身動きがとれなかった。
わたしは後ろから抱き締められて、胸を鷲掴みにされた。

「ぎゃ!」
と声を喉から絞り出した。
慌てた手は離れ、スーツを着た黒い後ろ姿が、大通りを横切って去った。

「はっ、、はっ、、、」
肺から息を吐き出すのが精一杯だった。
自分をかばうように、その場に小さくうずくまった。

心臓がうるさかった。
呼吸が苦しかった。

何が起きたのかは分からなかったけれど、
女の尊厳が同意なしに奪われたことは、はっきりと分かった。

さわられた。
胸をさわられた。
くやしい。
クソヤロウ。
卑怯ものめ。
くやしいくやしいくやしい。

夜風で頭が覚めていくと、涙が溢れてきた。

胸には、消えない感触が残っている。
欲望しか感じられない、クソみたいな指の痕だ。

ポタポタ涙が溢れた。
彼氏が車で迎えに来るまで、わたしは大声で、子供みたいに泣いた。

死ねばいい。
心の弱さを理由にして、
男としてオスに勝てない腹いせで、
腕力で女を何とかしようとする。

そんな男はみんなみんな、死んでしまえ。

わたしは今でも、あの卑怯で愚劣な男の後ろ姿に、そんな呪いをかけている。

それでもわたしは幸いな方だった。
最後まで至らなかった。
力でねじ伏せようとする男でなかったことが、不幸中の幸い。

今でも、性犯罪のニュースを見たり、ドラマのシーンを見たりすると、身体の芯から恐怖がくる。

あのくやしさが甦る。
後ろ姿にかけた呪いを、強く強く思い出す。

わたしは忘れることがないだろう。
この身体が生きている限りは。

某エッセイストさんの過去のツイートが晒されて炎上した時、わたしはとある文学賞のために短編小説を書いていた。

そのエッセイストさんの文章は好きでも嫌いでもなかったけれど、彼女の生き方には興味があった。
文学賞が中止になったことで、審査員になるはずだった彼女の炎上を知った。


わたしは興味でそれを覗いていた。
色んな意見があった。
過激なものも、優しいものも。

わたしは、特に言いたいことがあるわけではなかった。
ただ、じっと、自分の呪うべき過去を思い出していた。

女は、女の苦しみを連帯責任として背負っているところがある。
女が同意なしで男に侵食されることを、多くの女は許せない。

わたしが今、これを書いているいることも、一部の女性には辛いものになると思う。
もしかしたら、わたしなんかより、ずっとずっと、痛く感じている人がいるかもしれない。

言葉を発した時、受けとる側の人間の裏には、その人の歩んできた人生がある。

人はそれぞれ違った、言葉を通すレンズ、フィルターを持っている。
それをどう心に写すかは、受けとる側に委ねられている。


だからこそ書き手は、言葉に神経を注力しなければならない。
想像し、思いやり、敬意を示さなければならない。

わたしがそのエッセイストさんの件でちょっとだけ残念だと思ったのは、何よりもその点だった。

書き手が読み手の背景を無視してしまったら、
書き手としては言葉を使う資格がない。

わたしはそう思っている。

言葉で生活していくには覚悟がいる。
書き手の言葉には責任がある。
それが、過去のものであったとしても。
ただのツイートであったとしても。

わたしが彼女の文章に胸を打たれることは、
今後おそらくないと思う。

スーツの後ろ姿の呪いがついて回ってしまうから。

彼女が失ったのは、そういう、純粋な読み手の目だ。
それは十分すぎるほどの、罰になると思う。

だからもう、十分、それでいい。
彼女が自分で設置してしまった色眼鏡を、ただ受け入れて書き続けていくしかないのだと思う。

わたしはどんな風に伝えたい?
あなたはどんな風に伝えたい?

書くという行為を侮ってはいけないし、
言葉というモンスターを、わたし達はちゃんと飼い慣らしていかなければいけないのだ。

書いていく、ということは、
それだけの覚悟が要るのだと、わたしは思うのです。

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