礼儀作法は排他的なものである

「マナー」というと「エチケット」と対比されて説明されます。「エチケット」が目の前にいる相手を不快にさせないためのものであるのに対して「マナー」は社会のためにあるものだと。 ただ単に不快にさせないことを目的とするなら所作の自由度は高いのですが、特定の所作だけが許容されるのは社会のためということです。 窮屈さ、煩わしさを説明できていないように思います。
礼儀作法という概念事体の特性を誤認しているとまでは言わないまでも、手放しで称揚するものではありません。
ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』で礼儀作法は排他的なものだと述べられています。 上流階級の者は、食事の仕方、話し方など、同じ習慣を持っていることから仲間の見分けがつくという記述があります。

騎士時代には(中略)排他性は、統治者の徳としてはっきり認められていた。礼儀作法は宮廷内すなわち支配層内での振る舞いぶりを定めたものだが、その知識は騎士その他統治者階級には必須のものとされていた。権力に関しては「われわれ」(支配者)と「彼ら」(被支配者)の区別が大事なことを思えば、礼儀作法によって階層を区別するのも些細なこととは言えない。

ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理統治の倫理』

『荀子』にも礼は排他的なものであるとの記述がありました。荀子は礼を重んじた儒家の思想家ですが、言及されていたので紹介します。

人の生や群すること無き能わず、群して分無ければ則ち争い、争えば則ち乱れ、乱るれば則ち窮す。故に分無き者は、人の大害なり。分有る者は、天下の本利なり。而して人君なる者は、分を管する所以の枢要なり。
(人は生まれながらに集団でいないわけにはいかず、集団でいて分別(しかるべき差等・区別)がなければ争いが起こり、争えば乱れ、乱れれば困窮する。だから分別がないということは、人の大いなる害であり、分別があるのは、天下の根本的な利益である。そして人君たる者は、この分別を管理する要なのである。

『荀子』(富国篇)
『荀子』角川ソフィア文庫より孫引き

つまり、礼儀作法という概念は排外主義を内包していてそれが窮屈さをもたらしているのです。


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