留学はもちろん、海外に住んだことのない私が英語を習得できた私の英語習得法02
第2章 英語習得の歩み
※第0章と第1章を読まれていない方は、先にそちらを読んで下さい。
ここでは実際に私がやってきた英語習得の歴史について、少し紹介したいと思います。大雑把に初期、中期、後期~現在の3段階に分け、それぞれの時期にテーマになったことについて、ざっと流して全体を見ていきたいと思います。そして、本章以後の章でそれぞれについて詳しく説明しようと思います。
・初期:最初にやったこと
本格的に英語習得の活動を始める前に、何度か、TVやラジオで英語の番組を見たり聞いたりしたことはありましたが、身に付きませんでした。30歳代の半ばに、国際学会に参加したいという気持ちが強くなった時、本当に話せるようになる為に英語習得に取り組もうと考えました。その時に一番重視したのは、忙しい仕事の合間を縫って、どうやって英語学習を継続するかということでした。
その頃は収入に余裕があり、ある程度まとまった額のお金を使うことができました。そこで、ある会社の18ヶ月の英会話コースを契約することにしました。そして、必要経費を一度に全額支払うことにしました。かなりの金額でしたが、分割払いのような払い方では、途中でドロップアウトする可能性が高いと考えたからです。そして、この考え方は正解でした。
コースの内容は、福岡市内の英会話学校に一年半の間通う権利とカセットテープの教材からなっていました。教材は入門コースの一セットと中級コースの一セットからなっていました。週に数回英会話学校に行き、普段はカセットテープを聞く、という生活を始め、次第にそれが習慣になっていきました。私の最初のレベルは中級の下くらいだったと思います。英会話学校の講師は英語ネイティブでしたが、学習の過程で重要な出会いや経験がありました。
日本人の共通の癖として、失敗を恐れるあまりに、進んで英語を話そうとしない傾向があります。私が最初に出席したクラスでも同じでした。講師は九州大学の大学院で陶磁器の研究をしていた若い米国人男性でしたが、次のようなことをクラスの全員に向かって言ったことがあります。
「皆さんは英語が話せないから、この学校に来ているはずですね。そして、英語が話せないということは、話そうとしてもミスをするということですよね。ミスをするのは当然のことで、何も恥じる必要はありません。上手になりたいのであれば、ミスを気にせずに進んで英語を話そうとすることが大事です。」
すぐにこのような考え方に切り替えて話せるようになったわけではありませんが、今では、ミスをするほど、それにつれて英語が上達する、と思っています。
もう一つ、この講師から重要な刺激を得ました。それは発音練習の仕方です。彼のクラスでは、最初の5~10分間を使って、必ず発音練習をしました。その時にある教科書を使ったのですが、それがセイドー外国語研究所の出版による“Modern English, an oral approach, PRONUNCIATION MANUAL“です。この本は日本人向けに書かれており、英語と日本語の両方で説明されています。そして、母音や子音の一つ一つをきちんと発音することから始まり、その組み合わせやイントネーションについても、練習の仕方が説明されています。学校の教科書としての使用が想定されていますが、個人が独学で練習することにも使えるように、練習方法が詳しく説明されています。詳細は発音練習の章で紹介します。
すぐに、この本は私にとってのバイブルとなりました。英会話学校に通っている間に練習できたのはその内容のごく一部だけでしたので、残りの内容については、自分でこの本を使って独学で練習しました。この研究所は今でも存在しているようですが、残念ながらこの書籍は既に絶版となっています。なお、今後はこの本のことをPronunciation Manualと記すようにします。
さて、一年半はあっという間に過ぎて、コースが終わることになりました。その時、同じ英会話学校でコースを続けることが出来ないかと交渉しましたが、ダメでした。そこで、自分で新しい英会話学校を探すことにしました。定期的に英会話学校に行くとともに、スキマ時間を使ってテープを聞く、ということが私の習慣になっていましたので、この習慣を中断したくないと強く思いました。
・中期:中級以上のレベルになってから
新しい英会話学校は博多駅前の大博多ビルの中にありました。ある文化センターの中にあるTimeという学校でした(今はもうありません)。そこに通うことで、英会話学校への定期的な参加をそれまで通りに続けました。もう一つのカセットテープによるスキマ時間の学習は別の形で続けることになりました。
学校を変わる前には購入していた二セットの教材は既に終わっていました。そこで、NHKラジオ第2放送で流れていた“ラジオ英会話(大杉正明先生)”と“やさしいビジネス英語(杉田敏先生)”を1週間分録音して、次の週のスキマ時間にウォークマンで聞く、ということを開始しました。その後、もっといろいろな内容の英語放送を聞きたいと考えるようになり、BBCで見つけたPodcastを中心に、いくつか面白そうなPodcastを米国、イギリス、オーストラリアの放送局から探し出して、それを聞くようにしました。録音をコピーしたりするのにちょっとしたコツが必要でしたが、元々機械いじりが好きだった性格が幸いして、大きな困難なく続けることが出来ました。
新しい学校での経験も興味深いものでした。そこでは普通のクラス以外に、サロンというものがありました。それは自由参加型のスピーキングクラスのようなもので、色々なレベルの生徒さんが自由に参加し、自分が話したいトピックがあれば、それを話し合うことが出来るようになっていました。必ずネイティブが一人、ファシリテーターとして参加していました。ここでも面白い経験をしましたが、自由なスピーキングを重視するという流れは、その後再び英会話学校が変わっても続くことになります。
また、講師との新たな出会いもありました。次第にレベルが上がり上級クラスになると、参加者が少なくて、時には講師と一対一になることもありました。そして、そういう時に私と興味の志向性が似た講師に出会うことができました。彼は、私よりも十歳ぐらい年下のイギリス人の男性でした。知らない人が見ると、外見では恐ろしそうな人に見えますが、人生経験豊富でとてもきめ細やかな配慮のできるイギリス紳士です。この人との関係は現在まで続いており、その過程でいろいろと興味深い経験をしました。
このころになると、国際学会に参加する回数も増え、時々、海外に行くようにもなりました。formalな英語であれば、かなり対応できるようになっていました。心療内科医としていろいろと経験を積んでいましたが、中でも心理療法についてずっと興味を持って勉強していました。1990年代半ばに、その後の私の人生の方向性を大きく変えてしまうことになる、米国在住の偉大な心理療法家達との出会いがありました。そして、この経験の中で、英語を話すことができるという特性を、自分の強みとして次第に活用することができるようになっていきました。
・後期~現在:英語を話すことが生活の一部になる
振り返ってみると、1990年代半ば以降は、色々な面で現在の生活に繋がる変化が起きていると思います。この期間の最初の時期はTimeに通っていましたが、その頃、前述の私の友人はTimeを辞めて、自分で英会話学校ACE Englishを設立し、活動を始めていました。すぐにはその学校に移りませんでしたが、数年してから移りました。ところで、この後の出来事を時間的な流れの通りに順序通りに記述しようとすると、話の内容があちこちに飛んでしまいますので、最初にACE Englishでの活動を紹介します。
この学校は基本的に社会人向けの学校で、移った当初のレベルはadvanced (レベル6)でした。この頃は、生徒が参加できるクラスは生徒のレベルと同じクラスのみでした。その内容も、講師が準備した教材を使用してのクラスでした。内容的には他の学校とそんなに違いはないと思いますが、講師はイギリス人を中心として、米国人、カナダ人、オーストラリア人等、様々な国の出身者からなっています。1クラス50分間で、最大6名までが参加可能です。予約式で、自分で時間の都合をつけることができれば、どの講師のクラスでも参加することが出来ました。こういったシステムの為、この学校は生徒が様々な言語体験をすることを可能にしてくれます。
いつ頃か正確には覚えていませんが、移ってかなりの年月がたってから、生徒が自分でトピックを用意して持っていくレベル6のトピッククラス(6T)ができました。同じ頃に、レベル6の上位レベルであるNN[near native]ができ、私もNNになりました。6Tのクラスはレベル6の生徒が対象でしたが、その後、参加可能なレベルを増やしたスピーキングクラス(Sp)ができ、幅広いレベルの生徒さんと同じクラスに参加するようになりました。
英会話学校でのこうした変化と並行して、仕事の面でも大きな変化がありました。一つは大学が産業医科大学に変わり、年に数回は英語で授業を行うようになったことです。それだけでなく、仕事で英語を使う時間も増えていき、論文を英語で書く機会も増えていきました。
前述の心理療法家達との出会いとも関連するのですが、ある心理療法の研修で、外国から来た講師が英語で説明し、専門の通訳を介して研修を進めるという、非常に国際的な研修会にも定期的に参加するようになりました。さらにはそれに関係した国際学会に参加する機会も増えていきました。この頃になると、英語を話すことが生活の一部になっていきました。ちなみに、こういった研修会では、通訳が内容を説明する前に、私一人先に講師のジョークに反応して笑ってしまい、他の参加者からうらやましがられることも増えていきました。
さらには、個人的な生活でも様々な変化が起きました。特筆すべきことは、クラフトビールを飲むようになったことです。米国人や日本以外の国籍の人がオーナーをしているビアバーが街にできるようになり、そこに出入りすることが多くなりました。欧米人はクラフトビールの愛好者が多いため、バーで欧米人と出会う機会が増えていきました。そういったバーで外国出身のお客さんと自然に英語で会話する機会が増え、その中には長く友人付き合いをする人もできてきました。
まだまだ話は続きますが、書き出すときりがないので、一旦、この辺で終了としておきます。なお、現在は大学を辞めて病院勤めですが、他の面では最後に書いた流れが今も続いています。
・この章のおわりに
ここまで、サラっと表面をなぞるように、私のこれまでの経験を紹介してきました。書いてみて自分でも驚いていますが、何十年も生きてくると、色々な経験をするものだなあ、と他人事のように感心している自分がいます。これ以後の章では、上の流れから一つずつテーマを選び、詳しく書いていきたいと考えています。当初に予定した流れで書いていくつもりですが、読者からの希望が多い部分については、書く順番を変えるかもしれません。
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