【フレッシュグッディ!】
「15分で出すよ!!オペ室移動!」
「な、なにそれ!?」
前夜からの陣痛促進、子宮口の開かない痛み。
無痛分娩のはずじゃないのっ!とクレーム入れたくても、口も開けない。
それでもいつかは無痛分娩になるのだろうと踏ん張っていたら冒頭の言葉だ。
あっという間に手術着に着替えさせられ、担架に「せーの!1、2、3!」で乗せられた。
(医療ドラマと同じセリフだ)すると急に、
「フンギャワ〜〜〜」
「へ、変な声。何の生き物がいるの、この部屋は」と思ったら我が子だった。
帝王切開と合わせて、全ての作業が見事12分で完了した。
苦しんだ時間はおよそ12時間。
眠気と麻酔で我が子を抱いた時の感動は…ハッキリ言って「無い」疲労しか残っていなかった。
何もしてない主人だけが晴々とした顔で息子を抱いて記念撮影していた。
それからノンストップで10年間、私は「母」をしている。
初乳は出たものの、なかなか完全母乳にならない苦しみ。いつでもオッパイを飲めるように、半裸で過ごして、髪の毛ボサホザでスッピンでメガネで、幸せのかけらも感じられない怒涛の日々。
数時間おきにミルクで起こされ寝れない日々。
最高で4時間続いた夜泣きの日々。
主人も私も最後は正座して目の前の新生児に「お願いですから寝てください」と頭を下げたこともあった。
夜中にベビーカーに乗せて公園を散歩すればカップルばかり、その横をベビーカーの中、モゾモゾ動いて嬉しそうな息子。
「やっと寝付いて帰宅して ベッドに乗せるとやる気スイッチ」
毎日が必死過ぎて細かいことは覚えていない。
だが初めて「これが感動?」と思ったのは寝返りの瞬間を見た時だ!
「私の力無しで動いた!私がここまで育てたんだ!動いた!動いた!」
それでも次から次へと襲う「母」への試練。
予防接種に追われ、離乳食に追われ、互いの両親は遠方だったり高齢だったりで頼れず、主人と2人で育てた。頼りになるのは「知恵袋」。
その体験談を読んでは頑張った。
半年経って、やっと1人で子供と外出した。
それまでは主人無しでは外出できないほど、子どもの扱いがわからなかったからだ。
子供を産むなんて一度も考えたことはなかった。
何が楽しくて子育てだ、と思ってた。
お金も時間もかかるし、挙句に反抗期。
犬の方がよほどいい。
実際、息子が生まれる前は犬を飼っていた(生まれた時から反抗期のような性格の悪い犬だったけど)
こんな私だから当然自分も反抗的で結婚もしないで、当時流行ったパラサイトで実家に居た。
まぁ、正確に言うと、毒親育ちなので、自立を阻まれたというか、「お前なんて結婚できっこない」と言われていたので、洗脳されて家に居た。好きな時だけアルバイトして旅行して、それは気楽で、どうせ実家から出れないならずっと反抗してやろうと思っていたが、ひょんなことから、結婚してしまった。30歳の時である。
「俺と結婚すれば自由が手に入るよ」と唆され、実際、結婚したら寝たい放題、遊びたい放題、やりたい放題のワガママ暮らし。
子供は産まないという約束での結婚だったから貯金もせず、年2回は海外旅行。愛称は「(寝てるか食べてるかの)パンダ」であった。
ところがである。
結婚して7年ほど経ったある日、前述の性格の悪い、だけど私達にとっては長男に等しかった犬が虹の橋を渡ってしまったのだ。
いわゆるペットロス。老後のように会話のなくなった私達。
ある日、主人が言った。
「先立たれるのはもう嫌だ。俺たち、子供を持たないか?」
私、38歳目前のことである。
何事も建設的である主人は「まずは子供ができるかどうか調べよう。できない体なのに頑張っても意味がない」たしかにそうだ。
結果「異常ありませんね。タイミング法で行きましょう」
タイミング法とは、月に一度の排卵日を確定して、その日に子作りをするという方法だ。これなら3〜4ヶ月で子供が出来るという。
子ども嫌いだった私に、これを母性と言うのか?と、真実味が帯びてきて、通り過ぎる赤ちゃんを見ると微笑んだりするようになった。死ぬまで反抗期と思っていた自分が、である。
ところがだ。半年経っても妊娠しない。おかしい。原因は私の「卵子の老化」であった。
え、卵子って年取るの?焦った私達は高度医療に進もうと決意。もうここまで来たら、頭の中は子供のいる生活の妄想いっぱいで、諦めきれない。
専門病院に転院して、説明を聞いて、次のボーナスが出たら不妊治療だ!と、ボーナスを待っていた6月、いわゆる「捨て月」で何も考えてなかった。
生理が来ない。おかしい、生理が来たら病院に行かないといけないのに、生理が来ない。どうしよう。
主人「普通さ、考えるだろ」と、毎月買ってたのではお金が持たないと、買いだめした中国産の検査薬を持って来た。
「で、で、出たー!い、色が付いてる」
毎月、真っ白だった部分にピンク色の線が!!
後日、病院に行くと間違いなく妊娠していた。
その時、主人にメールで送った言葉は「フレッシュグッディ」。
知恵袋に書いてあった相談で「僕の友人が小田和正さんの「言葉にならない」を聞いてサビの「うれっしくってー」を「フレッシュグッディ」と言うんです」で大笑いした言葉だった。
それからも私達はしんどいことの方が多かった。
水と土と太陽をたくさん浴びせて野菜のように育った息子、8歳で生きづらさを感じて苦しみ始めた。病院でもただ「環境調整で治ります」としか言われず、寄り添って育ててきたのに、まるで問題児あつかいだ。私の与えた環境のどこが悪かったのだろうと自分を責めた。
息子はワガママとしか思われず、学校は環境調整をしてくれなかった。
当たり前だが、私1人で産んだ。だから私1人で環境調整をしよう。
2022年12月、休学した。
そして2人でホームスクールに切り替えた。
居場所はなかった。孤独だった。
息子は病気でも障害でもないため、国の支援や配慮はない。
泉のごとく、息子の中からとめどなく溢れる好奇心、それを満たす体力と精神力が私には無く、そんな時は毒親の言葉のブラッシュバックに悩まされて寝込んだ。
突然、幼少期が蘇り、自分がこちら側の現実に戻れなくなることもしばしばであった。
「やはり、私なんか子供を産むべきではなかった。幸せにしてやれていない」
だが、退学しですぐに入った冒険チームで、果敢に大きな山にアタックをかけることに魅了された息子を見た時、私は心から感動した。
自分の後頭部を覆い隠すほどの大きなザックを背負い、一歩一歩、確実に歩いていく。
すれ違った人に声をかけ、「石がありまーす」「右に寄って」など、チームに声を掛けていた。
学校では認められることなく、身も心もズタズタにされたが、大自然はこの子を認めてくれている。誰にでも平等だ。
私がこの子を幸せにするのではない。私が幸せにしてもらっているのだ。
人は人に育てられずとも、大自然が育ててくれるのだ。
それからはいつも「フレッシュグッディ」に溢れている日々だ
(いや、喧嘩もするのだが)
あの時、母になる決意をして良かった。
それは毒親育ちで、なんでも母に決められてばかりいた私が、自分自身で選んだ初めてのことだから。
「僕は山になりたい」それもまた、この子が初めて口にした夢だ。
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