定年間近の55歳、大企業正社員の座を捨てたら、地方再生という新しい挑戦が待っていた還暦ウーマン
最近になって「地方再生」という言葉を良く聞きます。
地域が主体となり、他県から人を集め、経済や雇用の発展を目指すという取り組みです。子育て支援も充実しているので、若い世代からも注目を集めています。
今回ご紹介する廣田祐子さんは大企業の正社員という安定を捨て、定年目前で潔く退職し、飯能で栗園の社長になった人です。
現在、彼女は地元の人と一緒にアクティビティを行ったり、ワークショップを開くことで、人を呼び込んでいます。
そこでつながった人同士が、彼女の元に集まるという好循環を生み出して来ました。
還暦を過ぎて尚、彼女が挑戦し続ける理由は何なのでしょうか
会社員時代を振り返り、そのヒントを探ります。
廣田さんが大学を卒業した1985年当時、女性大卒者はたった2割程度でした。この時代、女性は高卒か短大卒がメインでした。
事務職としてお茶汲みと電話番が仕事です。
そして入社後数年、25歳前後で結婚して家庭に入る。それが当たり前の時代でした。
高度経済成長後は、多くの男性の収入が安定していたので、女性は子育てに専念できたのです。
しかし、廣田さんは違いました。これからは女子も大学で学ぶべきというご両親の考えに背中を押され、東京の大学に進学しました。彼女の周囲のほぼ全員が大学進学をする環境だったことも理由のひとつです。
そうして大学進学を果たしたにも関わらず、卒業後は「何者にもなりたくない」という理由で、バイクで日本中を放浪していたそうです。
しかし、いつまでもそんなことをしていては生活に困ります。
ついに就職をしようと企業に入りました。
アルバイトとしてのスタートでした。
そして、そこで出会った男性と26歳で結婚したのです。
廣田さんは結婚生活における家事は楽しかったと言います。そして家事がこんなに楽しいのなら、外の仕事はもっと楽しいに違いないと思ったそうです。
自分の能力を、狭い家庭という枠の中だけではなく、広い社会で試したくなりました。
そして27歳、大和リース株式会社でパートタイマーとして働き始めました。
どうやったら「能力と人間性」で相手に自分を理解してもらえるか。
彼女の仕事に対する出発点はそこからでした。
最初の挑戦は「オフコン」
ちょうど時代が 90年代に入りかけた頃、業務でオフィスコンピューター(通称オフコン)が導入されました。
オフコンとはパソコンの前身のようなもので、業務の進捗状況や経理などの管理を簡便にする画期的なコンピュータのことです。
今は1人1台のパソコンは当たり前ですが、当時、コンピュータは部署に一台しかないことも珍しいことではありませんでした。
「正社員は、オフコンの研修を受けられるのに、私は興味があっても研修を受けられない」
そこで彼女は動きます。自宅近くの会社に交渉し、休日にオフコンに触れる機会を得た彼女は、独学でオフコンの操作を習得したのです。
それを上司に伝えました。
「結婚してますけど、残業もします。お金もいりません」
熱意も技術もあることが分かると、会議資料の作成なども任されるようになりました。
「そうすると見えてくるんです。会社の業績や問題点が数字となって明確にわかるんです」
上司との何気ない会話で、彼女の分析力は光りました。
彼女を見る上司の目が変わっていきました。
挑戦の結果は「プレゼン全国大会優勝」
その後、社内で「問題発見から解決策を提案する」企画が行われました。
廣田さんもメンバーに入ったのです。
オフコンで身に付けた分析力を試す千載一遇のチャンスに、彼女は真剣に取り組みました。
他社のプレゼンテーションの視察もしました。そして一風変わったプレゼンを思いつきます。相方を募り、漫才風なプレゼンをしたのです。
すると会場は爆笑の渦。なんと地区大会で優勝しました。
勢いに乗った彼女は、全国大会に進出し、ここでも優勝を果たしたのです。
優勝よりもパートの人に希望を与えられたことがうれしかったそうです。
こうして功績を認められ、パートからわずか3年で正社員になった廣田さん。ひとつの目標を叶えた時、あらたな目標が生まれました。
もっと大きな仕事がしたい。彼女はこの新しい目標のために、商業施設の開発と運営という部署に異動しました。
そこでは責任者も兼任しました。やがて、地元の人と会社の上司との調整役だった彼女のストレスはたまっていきました。
30歳から約20年、男性と同じ第一線で活躍してきた彼女はこの時、50代に入ろうとしていました。
やりがいを取るか、経済面やポジションといった安定を取るか、でやりがいをとりました。
次なる挑戦は社長業
彼女は、負担の少ない仕事に転職することにしました。
「大企業で一通りの業務はやった。だからどこに行ってもどんな仕事でもできる。計画通りの人生は面白くない」
この潔さも、仕事を通して培ったのかもしれません。
55歳の彼女が次に選んだ仕事は、飯能市に新しくできるテーマパークの立ち上げです。
前職での経験が活かせることに加え、少し仕事をセーブできる環境だと思っていましたが、ここでまた彼女の経営手腕が発揮されます。
経費削減の為に、一人で造園業務を行い、一年で5000株の苗木を植えたのです。
そうした彼女の奮闘を見ていたのでしょうか。
ある日、テーマパークへ出入りしている業者から、「知り合いの栗園が跡継ぎを探している」と話を持ち掛けられました。
「迷いましたが、最終的には栗園の環境に惹かれて決意しました。近くには自然がたくさんあります。そこでぼんやり空をながめていたら、いろいろなものが吹き飛ばされていく感覚を覚えました。それはがむしゃらに仕事していた時には感じなかったことです」
この時、廣田さんは58歳、再びゼロから1を創り出す意欲が沸いてきました。
新しい挑戦は「戻ってきたい町にすること」
廣田さんは社長という肩書を武器にすることなく、地元の人に栗の栽培や飼育方法を素直に聞き、信頼を得ていきました。
定休日には里山の生態系を調べる研究者に園内を開放しています。近くにある高麗川の水質調査にも協力しています。
その水質調査は、川の生態系を学ぶことができるので、他県からの親子にも人気の「リバーウォーク」という恒例イベントになりました。
まさに、廣田さんの人間性と自然が与えてくれた縁と言えるでしょう。
今、彼女は一人でも多くの人がこの「たいら栗園」の近くで、より良い暮らしができるよう願っています。
気付けば「地方再生コーディネーター」のような役割を担っていました。
長い挑戦の先に見つけたのは「自然と人への恩返し」
廣田さん、今度は「戻ってきたくなるような町にする」のが挑戦です。
秋、「たいら栗園」ではバーベキューが人気です。
あなたも一度、飯能を訪れてみませんか?自然も人も心地よいですよ。
取材・文 栗秋美穂