なこさんがなこちゃんだったときのお話vol.1
なこさんは、なこさんの実家ではなこちゃんと呼ばれていました。
なこちゃんの実家は撚糸工場でした。
ああ野麦峠で出てくる工場の次の第二工程の工場でした。
ワタシが小さい時にはまだその工場が裏にあり、道の際にも木の糸車がたくさん積んであった記憶があります。
大きな両引戸の分厚く重たい玄関は太い敷居をまたぐと床が石畳で、そこにボスという名前の黒くてデカいよく吠える犬がおりまして、小さい頃のワタシはとにかく怖くて大泣きして、なかなか中に入れなかった。
ボスをなこちゃんの弟(叔父ですな)のお嫁さんが外に出してくれてやっと中に入るという儀式を毎回繰り返していた覚えがあります。
やっと中に入ると上框りが高くて畳の上に上がる時は祖父ちゃんに引上げてもらってた記憶があります。
玄関の上り間にはピアノが置いてあって、ワタシのふたつ歳下従妹のモノでした。
その奥に皆んなであたる大きな炬燵のある部屋があり、その奥が工場になっていて、炬燵の部屋の横には大広間がありました。
玄関と大広間がの両方から行ける部屋がお祖父ちゃん達の部屋で、最後にお祖父ちゃんを看取ったのもこの部屋でした。
そして大広間の向こうには大きな土間の台所が広くあり、其処から出ると( 多分北側)竹の筒からチョロチョロ井戸の水が出ていて、水は長細い大きな石の桶に落ちていていつもいい音がしていて、たくさんの水草の影にこれまたたくさんのメダカが泳いでいました。
ワタシはなこちゃんの実家の家族が苦手で、いつも
メダカ見に行っていい?
と、ずっと石桶の前でしゃがんで流れる水と水草の間を泳ぐメダカをいつまでもいつまでも見てるヘンコちゃんでした( いわゆるコミュ障メダカが友達)。
大広間の横には広い廊下があって、廊下で遊ぶのも好きでした。ワタシがいまも古い、使い倒して磨き上げたテカテカの木の感触が好きなのはそのせいかもしれませぬ。
廊下には2階に上がる箱階段があって、2階にはなこちゃんの弟家族が住んでいるので入ってはいけなかった。
と、言っても箱階段の途中まで私の遊び場だったけど、、、この急な箱階段からつるつる靴下が滑って落ちたこともあります。。。
通りから玄関までの大きな庭には大きな柘榴の木があって、柘榴なんて酸っぱいものはみんな食べなくて、酸っぱいもの好きなワタシの為に、祖父ちゃんは毎年、柘榴を取っておいてくれました。
柘榴が取れるとなこちゃんに隣の隣の隣町からワタシ達はなこちゃんの実家に行くのでした。
他にも小さな古いお家が庭にあったり木がいっぱいありました。
なこちゃんのお父さん( ワタシの祖父ちゃん)は背が高くて、目が落ち窪んでギョロっとして、鼻が高くて、マスクをしていた時は鼻が隠しきれなくて飛び出していて、顔も話し方もぶっきらぼうで怖いので、そのお家に行った時はワタシはとてもお行儀をよくしていた覚えがあります。
なこちゃんのお母さん( ワタシの祖母ちゃん)はいつも白い割烹着を着てせかせかしていて、ちっちゃくて目元が今のなこさんにソックリで、でも全体的に典型日本人顔の優しいけどどこか強さを感じる人でありました。
2人とも、いえ、実家の人ぜんぶが、ワタシの母を
なこちゃん と呼んでいました。
なこちゃんはいわゆるその時代はお嬢様だったのです。
戦争体験者でありながら、自分が大変だった話は少ししかない。
①12歳歳下の妹を背負って畔道を歩いていたら空襲警報が鳴ってふたつ向こうの田んぼに爆弾が落ちた話。
②お使いに出されたとき自転車で橋を渡ったら、川のほとりがご遺体だらけだった話。
印象的な出来事はその2つでも、周りが凄く大変なのに、自分は飄々と生き抜いてきた感じがするのです。
住んでいた市内も空襲があったらしく、ワタシも写真を見たけれど、この人はもともと悲観的でない方なのだなと、思う事があります。
同じ戦争を潜り抜けてきた人々の話は壮絶なのに、母、なこちゃん兄弟姉妹の子供時代の戦争は、周りの強い大人達の庇護で守られていたのだな、と、思う事があります。
じつは別の意味で大変なこともあったらしいのです。
なこちゃんは3歳まで歩けないくらい身体が悪くて、お庭の離れにお部屋があったそうな。
ご飯を持ってきてくれる人やお世話をしてくれる人がいつも違う人なので物心ついてしばらくまで、どの人が自分のお母さんなのか分からなかったと言います。
使用人の人におんぶされて小学校一年生の一年間、学校に通っていたと言います。
たぶん
この頃から考えたら
94歳の今、痴呆もなく生きるなんて
そしてなかなか気分上々元気なんて
思いもつかなかったのでしょうね、(´∀`*)